第百八十二話 人と神と
日野と八彦の頼もしい声に、咲光は何の不安もなく走り出す。
そんな様子を射抜いていた大妖の視線が、ギロリと動いた。
「清く澄み渡る流れよ。地の隅々へ巡り、大いなる奔流となりたまえ――」
地に手をつけ、気迫の言葉を詠唱している。
キッと音を立ててそれを睨むと、大妖は腕をひと振りした。生まれた雷撃が鳴神へ走る。
「なにものをも阻む! 禁!」
鳴神に負けない、揺るがぬ意志と共に放たれた気迫の言葉が力を持つ。
鳴神の前へ立った菅原は肩で息をしながら、師匠を守る為立ち塞がる。そんな弟子の背中を見て、鳴神はフッと口端を上げた。
「東方、西方、南方、北方。四方の御手を折り重ね、地に清陽をもたらさん」
鳴神の体から、霊力と、足りない分を削って充てる生命力が迸る。
その負荷を歯を食いしばって耐え、鳴神は全身全霊を尽くす。
(やり遂げろよっ…! 何の為にここに居る! 親父に、家族に、恥じるような事をするなっ……!)
為すと決めたら為し通せ。“頭”として、術者として、仲間として託された事に、全霊で応えろ。
鳴神は強く拍手を打った。
「圧伏せよ! この呪いの鎖を打ち破る力、この身に出でよっ……!」
心臓が蹴り上げられるような苦痛と衝撃。体は熱いと思うのに、全身から血の気が引いていくような感覚。
まるで、最後だと心臓が足掻いているようだ――
(切れるなっ…! 長く制御しろ! 必ず大妖を討てるように! 神来社達に繋げろ!)
口端から血が流れても、鳴神は決して術を止めない。
その身に現れた神の威が、大きく凄まじい奔流となり地を舐めるように荒れ狂う。
周囲が神の威に染まる。それは太陽のような、月のような、不思議な輝きと鳥肌が立つような畏れを感じさせる。
黄金のその輝きに大妖の目が眩んだ瞬間、白銀の刃が大妖を狙う。妖力の障壁は阻める力もなく亀裂を作る。
続けて二振りの刃が合わさり障壁を打ち破ると、バキッと障壁は脆く打ち砕けた。
「っ…お…のれっ!」
三振りの刃が大妖を貫いた。
その刀は神の威に押されるように勢いを増し、大妖を本殿へ押し返した。
バキリッと本殿の木材が折れ、潰される。それでも力は衰えない。
周囲を荒れ狂う黄金。押しつぶされる感覚。消えない光。増していく神の力。
「はぁああぁあっ!」
「きっさまらあぁぁ!」
咲光達の渾身の叫びと、大妖の怒りが木霊する。
そして、大妖の憎悪を打ち払う拍手が響いた。
多くの者達が繋いでくれた光。それを今、ここで掴み取り、決着をつける。
雨宮がくれた数珠に乞い、南二郎は覚悟を胸に叫んだ。
万所の一員として戦ってくれた衆員達。総元であった父。自分を守り託してくれた雨宮。全ての者達のおかげで、神の威は少しずつ息を吹き返している。
「この御座に降りまし、その身をもって不動となす天の扉よ。今再び不動の縛りを給う―」
この神社の神よ。封じを守り続けた神よ。万所の者達に長く加護を与えくれた神よ。
その力を今再び、この地に――
国の神々もまた、大妖を打ち倒す為力を貸してくれている。人もまた同じ。
幾重にも敷いた、幾多も点在した小さな光が、大妖を少しずつ弱らせ、今倒せるまでに至っている。
かつて大妖と戦った先祖達。封じを解こうとする妖達と戦った者達。
「その御手は動じぬ御手。打ち破るは刃。悪鬼打ち払い、全てを祓除す」
大妖の妖力を削り、活路を広げてくれた総元。臆し恐れても戦い抜いた衆員達。守ってくれた雨宮。命を削り神の威を取り戻しこの場を浄化させた鳴神。諦めずに戦う咲光達。
全てに決着を着けるため、南二郎は全ての霊力を振り絞る。
三振りの刀に貫かれた大妖が身を震わせ、硬直する。
「圧伏させし凛然たるその御力にて、悪鬼不浄全てを薙ぎ払いたまえ――!」
詠唱の終了と同時に飛び退いた咲光達と入れ替わり、大妖の突き刺さったその刀に引き寄せられるように天から凄まじい視えない力が落ちた。
その力はまるで、大勢の人の叫びや獣の咆哮が混じるような、そんな不思議な音を全員の耳に聞かせた。
眩い視界に思わず目を閉じる。同時に水気を含んだ風が穏やかに拭き、全ての気を攫い取って天へと昇る。同時に、燃えていた木の火が覆われるように別の炎に覆われ、パッと火の粉を散らして消えた。
咲光がそっと目を開けたとき、目の前から大妖の姿は消えていた。
あれほど重苦しかった空気が、ゆっくり呼吸できるものに変わっている。周囲は清らかで、全員が無意識に息を吐いた。
視線の先には凄まじい力の威力を物語る、半壊した本殿。雷が落ちたように燃えている所もあったが、その火はすぐにパンっと消えた。
大妖が居た場所には突き刺さった三本の刀。そして、パラパラと飛んでいた黒い靄が、消え去っていった。
「神……。水の神の力も戻った……火と風の神も…御力を貸して下さったのか…」
まだ宙に少し感じる。穏やかな神の力。しかしそれはすぐに天へと還った。
それを感じ、総十郎は力が抜けた。
あれほど凄まじかった大妖の力は、もう感じられない。
「……お…わった…」
呟いたのは誰だったのか。
それを確認する間もなく、総十郎はプツリと意識が途切れた。
視線の先で座り込んだ二人もゆらりと倒れる。けれどその手は、互いに強く繋がっていた。




