第百四十六話 標の手
妖が力を増すという状況は非常に厄介なものだ。
常に落ち着きを見せる雨宮の表情が、僅か険しいものになる。
その時、二体の大蛇が身をよじった。
「…?」
身を震わせ、咆哮を上げる。しかしそれは威嚇や強さを感じさせるものではなく、どこか苦しそうな泣きそうなもの。
泣きそうに、懇願するように、痛みを訴えるように、大蛇がその喉を震わせる。
そんな大蛇を見ていると、不意に頭の中で何モノかの手が指し示す。
それを視て雨宮は悟った。すぐにパンッと強く、拍手を打った。
♢♢
誰かが手招いている。誰かが何かを指し示している。誰かが何かを言っている。
けれどその全て、目に見えるものではなく、頭の中に視えるもの。耳に届くのではなく頭に落ちてくるもの。
そんな不思議な体験は、私にとって子供の頃から馴染んだもの。
けれど、恐ろしくはなかった。不思議なものが傍にあるかのようで、落ち着いて、自然と心で受け入れられた。
私にとってそれはごく普通の事で、誰でもそうなのだと思っていた。
父は小さな神社の神主。私は物心つく前から、父が神前で祈りを捧げている姿を見るのが好きだった。私も隣で一緒に祈った。
祈りは己以外のなにかの為のものなのだと、父は教えてくれた。だから私も祈った。
人々を見守って下さい、と。神様も毎日元気でいて下さい、と。
父がいない時も私は神前で祈った。
その時も、私の頭に声が降って来た。無意識にその声をなぞっていた。そして、やって来た父にとても驚かれた。
それは、神へ捧げるとても長い言葉だったそう。
どうして知っているのかと問われ、私は正直に答えた。
頭の中にいる私じゃない人が教えてくれるの、と。視える光景と音。それを知った父はとても驚いて、分からないという顔をした。
私はそこで初めて、これは誰にでもある事ではないのだと知った。
そして数日後、私は父に連れられ、万所本部へ赴いた。
♢♢
パンッと打った拍手が響く。
「地よ、木よ、風よ、水よ、火よ、山よ。太陽よ、月よ。東西南北の神々に申し上げます――!」
この機を逃してはいけない。神が指し示してくれた、この機を。
自身の霊力と数珠の力を借り、雨宮は凛然と唱える。為すべき事だけが今、目の前に視えている。その為に神は力を貸して下さる。
神と共に今も大切な封じを守り続け、身命を賭してその役目を全うする術者を、雨宮はとても尊敬している。
「天に掲げしその御手にて、慈しみ、尊み、安寧をもたらし。彼の天蓋の向こうよりその御光を降り注がせたまえ」
町を、森を、覆う妖気を祓わなければ。大蛇だけでなく、妖達の蠢く場になってしまうから。それでは、人々はいつまでも恐怖や不安から解放されない。
人々に神の光を。安らぎを。
「息吹。この息吹。神の息吹と共に――!」
雨宮の霊力が迸る。着物や周囲の木々を激しく揺らす。その轟音と大蛇の悲鳴が重なり合う。
衆員達もその激しさを浴びながらも、祓人達が束になり、重ねて呪文を唱えた。
「雷神招来…!」
天を裂く二つの雷神の稲妻が周囲を白く染め、二体の大蛇を貫いた。
あまりの音に一瞬、耳から音が消える。周囲が徐々に見えるようになり、「あー…」と音を取り戻す動作を繰り返す。
そうして元に戻った時、雨宮は二体同時に大蛇が祓われている事を確認し、フッと力を抜く息を吐いた。
妖気も、重苦しかった空気も、神の力により払われた。上々の出来ではあるが、衆員には負傷者も多い。
「軽症者は重傷者をすぐに寺へ。動ける者はどれほどいますか?」
雨宮はてきぱきと衆員達の状況を確認する。確認しながら雨宮自身も応急手当てをしに回る。
そうして祓人と退治人の数名を残し、応急手当が必要な者を寺へ戻した。
今はこの場も空気が澄んでいる。これは徐々に森中に広がっていく。そして今、最も妖気が濃い場所が、虚木と禍餓鬼のいる場所。
雨宮は援護に行くため森の奥を見据えた。
「……?」
瞼が震えた。瞼の裏に視える光景がある。
だらりと垂れ下がってしまうように、力の抜ける手。同時に耳を震わせる音が聴こえる。
《……………》
何か、言っている。少し聴き取りづらい。
雨宮は意識して耳をそばだてた。砂のように零れ落ちる声は時折聞こえる声。尊く、敬い、奉る存在。
《もう……》
声が耳に届く時の、どこか慣れ親しんだ感覚が消えた。
雨宮は無性に嫌な予感がした。頭が警鐘を鳴らし、冷や汗が流れる。
(いつもの御声とは違う…。まるで御力を使い果たしてしまったような……)
威厳に満ちて、活力に満ちた聞き慣れた声。だのに今の声はまるで違う。
垂れさがる腕も、今の声も、きっと今の神の様子を映したもの。
それなら――――
「至急、次の仕事へ移ります」
雨宮は一言だけ告げると、すぐに走り出した。
消えない不安が、ドクリと心臓を鳴らした。




