169 母子
領主自ら道案内すると言い出した。
それには及ばないと言っても聞いてくれなかった。
「なあ、ノロットくん。ノーランドはこの町の英雄なんだ……その事実を知る者は少ないのだがな。ラーマの高度な自治と、他国による干渉をすべてシャットアウトするのに彼は貢献してくれた」
「…………」
「ヴィンデルマイア公国はラーマに駐屯する軍隊のすべてを負担している。無償でだ。そのおかげで、5つの国に隣接しているラーマは、この10年以上なんの問題もなく自治できている」
ノーランドを差し出すことで、ヴィンデルマイア公国は武力を貸してくれる。
ヴィンデルマイア公国――「勇者オライエの石碑」がある国だ。ノーランドはあそこで神の試練に挑む資質があるかどうかをチェックする役割を担っていた。
ヴィンデルマイア公国は、「勇者」の代わりとなれる人材を必要としていたんだろう。
ラーマへの派兵程度の負担は受け入れるほどに。
「……そんなの、ただの生け贄じゃないか」
僕のつぶやきは幸いにも誰にも聞こえなかった。
領主が僕らを連れてきたのは、町の中でも閑静な邸宅が並ぶ一角。
広い庭園のある庭が、ノーランドの家だった。ヴィンデルマイア公国に移ったあとに、ラーマ領主がこの邸宅を寄贈したらしい。
生け贄の対価だと考えると、瀟洒な邸宅が途端に汚らわしく見えてくる。
「これはこれは領主様。今日はどのようなご用件で」
「ルビスはいるかい?」
「夫人はご在宅です」
執事が応対している。
ルビス……それがノーランドの妻の名前らしい。
僕の母、ということになるのだけど。
心臓が妙な音を立てている。ちょっと様子を見るだけでよかったのに、正式に訪問することになっている。
会いたいなんて思ったことはなかった。それなのにどうして僕は緊張しているんだ。
「あら、領主様――」
奥から現れた女性は、
「うわ、美人」
「おきれいですね……」
後ろでエリーゼとリンゴが漏らすほどだった。
ブロンドの髪は波打ち、艶めいている。
瞳は大きく落ち着いたグリーンだ。
年齢だって40代どころか20代にすら見える。きっと、30代だとは思うのだけど。
そのルビスは、領主の後ろにいる僕に視線を当てて怪訝な顔をした。
「そちらの方は……」
一目で僕だとわからなかったことに、安心のような、軽い失望のような気持ちが混じる。
「僕は」
気がつくと声を発していた。
僕は、なんだ? 僕はなんだと言いたいんだ?
「僕は……」
言葉がつながらない。なにを言っていいのかわからない。
「母様、お客様ですか?」
そこへ現れた――少年。
12、3歳だろう。チェックのチョッキを着ていて、こぎれいな身なりをしていた。
髪は片方に流していて、優しそうな瞳をしている。
「領主様ではありませんか。ごきげんよう。いかがなさいましたか?」
「あ、ああ……それがな」
領主は僕をちらりと見る。
僕と、少年の視線が交差する。
少年がハッとする。
「――お兄様? お兄様ではないですか!?」
長旅で汚れたマント。すり切れた旅装束。
貴族のように清潔な洋服。ぴかぴかの革靴。
この彼我の差はなんだろう。
そう思うと、途端に、ここにいてはいけない——そんな思いで頭がいっぱいになってしまった。
「僕はノロット。冒険者です。一度だけこの家に住む人を目にしたいと思って来ました。満足しました。これ以上はもう、結構です」
くるりときびすを返す。
壊してはいけない。彼らには彼らの生活がある。
会ってどうこうなるものじゃないってことはわかっていたし、最初からそのつもりだった。
だけど思っていた以上だった。
思っていた以上に――。
「待って!!」
布を切り裂くような声がほとばしる。
「待って、待って、待って……あなたは、あなたはほんとうにノロットなの!? あのノロットなの!?」
走ってくる足音が聞こえる。
背後から抱きつかれる。
「ああ、ああ、ああ……まさか、まさかほんとうに……こんな日が来るだなんて……」
抱きすくめられる温かい感触。
僕が、経験したことのない感触だった。
「よ、よがったですね、か、母様……ノロットお兄様のこと、か、母様はずっと心配していて……」
嗚咽混じりに言う少年――たぶん僕の弟の声が聞こえた。
「ほらね、来て良かったでしょ、ノロット」
目と鼻を赤くしたエリーゼが偉そうに言う。
そう。
僕が思っていた以上にずっと……ずっとずっと、彼女たちは僕を待ち望んでいたのだ。
母、ルビスはそれから僕に謝り通しだった。結果として僕を捨てざるを得なかったこと。その後、手を尽くしたが探し当てることができなかったこと。
僕を手放した事情は、こうだ。
神の試練を突破し続けていた父は、各国から目をつけられていた。純粋に人材として欲しい、というものであったり、神の試練の情報を手に入れたい、という理由で。
ノーランドによる神の試練突破については公にされていなかったものの、力を持つ強国たちは情報を手に入れていたみたいだ。人の口に戸は立てられない。
父を手に入れようとする魔の手は父本人でなく、母や、生まれたばかりの僕にまで向けられていた。
身軽にするために泣く泣く僕を手放すことになった彼らは、せめて拾った主が優しくしてくれるよう金貨を包んで置いたらしい。でも……孤児院でそんな話は聞かなかったから、金貨だけ盗まれたってことだよな。よくあることだよ。
まあ、その話を聞いたルビスは青ざめて泣き出したけども。苦労ばかりさせてしまった、って言って。
で、両親は友人であるラーマ領主を頼った。つかの間の平和な日々。だけどラーマ領主じゃ守り切れなかった。父はこれ以上迷惑をかけられないからとラーマと母を守るためにヴィンデルマイア公国に身売りをした――。
弟、ランスを身ごもっていたことも理由だった。
「……これが、あなたが生まれた前後で起きたこと、すべてなの」
ルビスが話し終わったときにはお茶は冷め切っていた。
部屋は静まり返っている。
領主も同席したがったけれど用事があると帰っていった。
ここにいるのは僕、エリーゼ、リンゴ、ルビス、ランスに執事の6人きりだった。
「ごめんなさい、ノロット。謝って謝れることではないことはわかっています。でも、どうしても謝らずにはいられない。あなたが慈しみの心でもってここに来てくれたのですから」
土下座しそうな勢いでルビスが頭を下げる。
ランスもそれにならって頭を下げる――自分には関係ないことなのに。僕の弟、だなんていう実感はまるでないけど、正しく育っているみたいだ。
「もう、いいです。謝ってもらいたいから来たわけじゃないし」
「それでも……」
「さっきも言ったみたいに一目見ておこうっていう程度なんです。だから、もう満足と言えば満足で……」
僕の横のエリーゼがにらんでくる。なんだよ、なにも間違ったこと言ってないだろ。
「ノロット……あなたのことは、教えてもらえないのかしら? ううん、こんなことワガママでしかないことはわかっているんです。でも、今までどうしてきたのか、これからどうしていくのか……私にできることならあなたを支援したいと――」
「いえ、結構です。もう遅い時間ですし、引き上げます」
外はすっかり暗い。時間的には19時手前だろうか。
「明日また来てくれるの?」
「明日は朝いちばんの馬車で町を出ます」
「そんな……」
この世の終わりみたいに絶望するルビス。
「その予定はずらせないの? せっかく会いに来てくれたのに、これじゃあ……」
「ずらすことはできません」
「そ、それならせめてここに泊まっていって!」
「もう宿を押さえてます」
「解約すればいいわ、ねえ?」
「は。可能かと思います、奥様」
執事がうなずく。
僕はため息を吐く。
「……わかりました。それくらいなら」
寝るところはどこだっていっしょだし。馬車の停留所にはこの家のほうが若干近いというのもある。
「ほんとうに!?」
「よかったですね、母様」
喜ぶルビスとランス。微笑ましい風景なのに、僕の家族なのだと思うと何となくもやもやした気持ちが胸をよぎる。
「夕飯も食べていってね。嫌いなものとかあるかしら?」
「いえ、特にはありませんが……」
「…………」
「?」
「ノロット、その他人行儀な口調はどうにかならないかしら? 私たち、母子でしょう?」
あ、この人、どんどん主張が強くなってくる人だ。僕の苦手なタイプだな……と思っていると、
「失礼ですが、ノロット様があなたに会うのは初めてです。しかもこちらから会いにこなければ、会うこともなかったでしょう。にもかかわらずずけずけと言いたいことばかり。それが人としての態度ですか」
リンゴがずばっと切り捨てるように言った。
ルビスの顔が青ざめる。そしてぽろぽろと涙をこぼす。
「ご、ご、ごめんなさい……私が愚かでした……うれしくて、あんまりうれしくてはしゃいでしまって……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ああ、もう、いいですから――いいから、頭上げて」
また土下座しそうな勢いだったのを、あわてて立たせる。
リンゴが眉根を寄せたのが見えたので、僕は小声で彼女に言う。
「ありがとう、リンゴ。でも、今日だけは向こうに好きにしてもらおう。どちらにしても明日には出るから……」
「……はい」
親子の距離の取り方って難しいんだな。
それから豪勢な夕食が出て、大きなベッドのある客室に通された。
夕食中に「そちらの可愛らしいお嬢さんは?」とエリーゼを指して聞かれたのだけど、一瞬「お嬢さん?」と誰のことかわからなくて僕が反応に困っていると、「ノロットの婚約者です」といきなりエリーゼが言い出したのでリンゴとバトルが始まりそうになった。
結局「冒険者仲間」ということで収まったために、エリーゼとリンゴは別室だ。リンゴがメイド姿なのも突っ込まれたけど、「メイドです」とリンゴが言って通した。「冒険者にメイド……?」と執事がうさんくさそうに見てきたものの、リンゴが煎れたお茶を口にした途端にその実力を認めたらしい。なんかよくわからない意思の疎通方法があるみたい。
「……疲れた」
「お疲れのところ申し訳ありません」
「うわあ!?」
客室でひとりつぶやいたところへ、現れたランス。
なんでこんな夜に……あ。
僕は気がついた。
心のどこかで気づいていたんだ。こんなにもちゃんと受け入れてくれるはずがないって。戸惑われるのがふつうだし、疑われても仕方ない。
ランスがここに来たのは、そのためだろう。
僕は身構える。どんな言葉を投げかけられるのか——。
「……ノロットお兄様」
そしてランスは、
「申し訳ありません!」
深々と頭を下げた——え?
な、なんで? なにが?
「申し訳ありません! 申し訳ありません! 謝って済むことではないのですが、それでも僕にも謝らせてください!」
「あ、あの? なに、なんなの?」
理由がわからない。全然わからない。
「……僕は、この恵まれた家でぬくぬくと成長してきました。過酷な人生を送ってきたお兄様とは違って——それを知ったのはつい1年前なんです。僕は、罪悪感に苛まれました」
「あ、ああ……いや別に大丈夫だよ」
「気が済まないのです。自分を許せないのです」
「いやほんとに大丈夫だから——それに、そうか……。1年前なんだ。いっしょだ」
「え……?」
「僕が冒険者になったのもちょうど1年くらい前なんだ」
僕は冒険者認定証を取り出した。僕が金色のカエルに連れられてこのカードを手に入れたころ、ランスもまた僕のことを知った。
それはただの偶然だろうけど、なんだか不思議な縁を感じた。
「どうして、君は僕のことに気づいたの?」
「それは……母様が執事と話しているのを聞いてしまったんです。『調査の報告が遅れている』とか『ノロットの手がかりを追跡するのにいくらかかっても構わない』とか……」
「ああ。探してたんだ……僕のこと」
「領主様からは結構なお金をいただいているんですが、その大半を、ノロットお兄様を探すことに費やしていました」
「そう、か……」
執事以外の使用人をほとんど見ないな、とは思っていた。
これだけのお屋敷ならもっといてもいいのに。
それにルビスが手ずから庭の草木を育てていると知って、それも変だなとは思っていたんだ。
「お兄様……迷惑でしたでしょうか? 母様はお兄様に会うことをそれはもう心待ちにしていて……僕がお兄様のことを知った後はそれを隠すことをしなくなったんです」
「……いや、うん、正直どうしていいかわからない」
「そうですよね……」
「でも、会って……まあ、会いに来て良かったかなとは思った」
「ほんとうですか!」
ぱぁっと表情が輝く。
それを見て、僕は言わないでもいい一言を言ってしまった。
「もう次の機会はないかもしれないから」
「え——」
途端にランスが青ざめた。
「あ、違うよ? もう会いたくないからってことじゃないよ」
「じゃ、じゃ、じゃあ、どういうことですか!?」
「あー……それは」
失敗した。バカだな、僕は。
「……落ち着いて最後まで聞いてくれる?」
こくり、とランスは神妙な顔でうなずいた。
「僕は冒険者だということは知らなかったんだよね?」
「ええ……母様は冒険者が好きではないと言っていて……それはきっとノロットお兄様を手放してしまった原因が、父様が冒険者であったことに関係していると思います。このラーマの町は冒険者がほとんど来ませんし、それもあって冒険者に関する情報は薄いです」
「だからか」
最近、僕の名前は新聞を通じてあちこちに出回り始めたから、新聞を見ていれば遅かれ早かれ僕のことをルビスもランスも知っただろうけども、彼らは今日まで知らなかった。
「創世神話のことは?」
「ええと、勇者オライエや女神ヴィリエたちが協力し、混沌の魔王を倒したという創世神話のことですか?」
「うん。混沌の魔王が復活したんだ」
「混沌の……え?」
「僕はそれを倒しにいく」
「…………」
さすがに、信じられなかったみたいだ。
「……ノロットお兄様、やはり僕らに会いたくないからそういう話を」
「違うよ。でも、信じられないという気持ちもわかる。僕は今、神の試練に挑戦している」
「! 父様がやっていたという、あの」
「その過程で……ノーランドに会った」
「ああ……」
ランスは、僕がここに来た経緯をなんとなく察したらしい。
賢い子だ。
「それで明日、ルーガ皇国に向けて発つ」
「そこに神の試練があるのですか?」
「うん」
「お兄様が……やる必要があるんですか?」
「うん」
即答した。
「大切な人を助けるためにね」
僕の世界を変えてくれたモラを助けるために。
「混沌の魔王の復活は、やがて知れていくと思う。そうなったら社会は大混乱に陥る。君が……ランスが、しっかりと、お母さんを支えてあげて」
照れくさい言葉だった。お母さん、だなんて。僕が口にできる日が来るなんて。
ランスの両目が潤む。涙が、今にもこぼれそうだった。
「お、お兄様。必ず帰ってきてください……お嫌かもしれませんが、ここは、お兄様の家です。僕は、母様とともに待っていますから」
「うん」
「きっとです」
「うん」
「約束してくださいますか」
「わかった。約束する」
ランスはそれだけ言うと、一礼して去っていった。
まいったな……僕はランスのことを気に入り始めている。
またここに来ることがあるんだろうか? そのときは、冒険の話をしてあげよう。男の子なら喜んで聞いてくれるはずだ。ランスなら僕の話ならなんでも喜んで聞いてくれるだろうけれど。




