六
双子兄の言葉は起き抜けに冷水を浴びせられるようだったと、イムイは思う。言われるまで気づかなかったが、言われれば一切の疑いも余地もなく納得できた。確かに兄や自分は王として神に選ばれてはいないと。ウクナトクや名も覚えていない義弟と自分たちの間には、確かに何か歴然とした差があるのだと。
ヘルィークが王代候の館に戻ってから、イムイはしばらく窓辺に佇んで風を受けていた。傷つき摩耗した己が身が死体のように冷え切るまでそうして、ばたばたと旗の鳴る音に身を乗り出した。エンレイの紋章旗が屋根の上で気高くはためいているのを見て、たっぷり十度も瞬いた彼は、脱ぎ捨ててあった服を着て部屋を出る。
住み慣れた館の廊下を誰にも会わずに辿り、何処よりも一等高いその屋根に続く階段を迷わず昇る。余すところなく埃が積もっているのは、イムイが以前に、こんなところ掃除などしなくてよいと言ったからだった。旗の昇降以外に使わない塔となれば、王族の誰かが死なない限りは用無しの場だ。
平素歩くことなどまずない所に裸足の足跡をつけたイムイは、鍵を欠いた扉を開けて外を覗いた。このような場所に立っているのを見られるのはまずいと考える理性はあり、見える限りは無人であることを確かめてから屋上へと出る。狭い足場は屋内よりも格段に冷たく、刺すような心地を足裏に味わわせる。それでも構わずに彼は進む。
「エンレイ・ランラドク――」
生白い手を伸ばし、イムイは濃緑の旗に触れ国の名号を呟いた。閃き落ち着かない布地を巻紙でも開くように引いて、銀で縫われた紋章を辿る。
大樹の前に突き立てられた、守りの剣。
この大陸では何処でも大抵、破邪の目的で地に剣を突き立てる。紋章の剣もそうした物に違いなかったが――切っ先が埋まった剣が、イムイには己の持ち物に見えた。
幼い頃に持ち出した宝物庫の鈍らと目前の紋章、処刑剣が、彼の中で重なった。数々の昔話が思い起こされる。初王の王子の話や、何処の国にも在るという国の守護、国守りの話だ。
「俺は王にはなれんが……何になる?」
樹――王と国、民を守る剣を見つめ、イムイは笑んだ。一際強い風がその手から旗を攫う。白銀の髪が靡き、風鳴りがイルール中に響き渡る。
再び、刑吏の手が勢いよく旗を掴んだ。古びていても強度を落としていない布を力の限り引き裂き、剥ぎ取る。次には乱暴に扉を閉める音がそこに響いた。
埃を散らして階段を駆け下り館の中に戻ったイムイは、その足で調理場へと向かった。薄汚れた館の主が童歌を口ずさみながら現れると、煮炊きを言いつけられた者たちは皆ぎょっとして、小さく挨拶を口にして縮まった。
気まずそうに目が逸らされるそのうちに、イムイは毟り取ってきた旗を火の起こった竈へと投げ込む。誰もがイムイの機嫌を損ねるのを危惧して見ないようにしていたので、火が何を呑んで赤々燃え上がったのか分からなかった。誰もが黙っていたが、気づいていればさすがに声を上げたに違いない。とんでもない逆臣の行いだ。
急いで火から逃した指を舐めたイムイは満足そうに、空いた逆の手で一番近くに居た若い男の肩を叩いた。
「お前たち皆だ。明日の飯は要らん。夕飯作ったら荷を纏めろ」
「は、」
びくりと肩を震えさせた相手が自分を見ると同時に言葉を吐く。目を見開き呆けた顔をするのを愉快がってにやにやとしながら、イムイは踵を返した。
「都へ帰れ。どうしてもと言うならいいが、今なら、足代は出してやるぞ。好きな物を持って出ていけ」
いつも気に入らない者から仕事を奪うように、ぶっきらぼうに言い残して去る。そうして軽やかに踊るように廊下を進んで部屋に戻れば、隅に置かれた棺のような箱を開け、旗を掴んだ時よりは丁寧な手つきで包みの布を取り払った。よく磨かれた処刑剣の刀身が露わになる。
長い付き合いの相棒を愛おしげに撫で、イムイは朝を待った。夜が訪れても眠らず、火も灯さず、静かに昔のことを思い出して。
――翌日、昼前。崖の上の処刑場には、目隠しをされ縄をかけられた十一人の男女が一列に並ばされた。合図の鐘のない処刑の支度。イムイの館に肉を届けに行った牧夫がそれを見かけ、慌てて村の人々を呼び寄せた。集まった人々は一様に驚き、慄いた。それまで日に三人以上が殺されたことはなかったのだ。
「白日の下、この身、イムイ・ロクシャンの名において浄化の剣をとるものである――」
常と同じように処刑人の黒衣を着込み処刑剣を携えたイムイは、早口に口上を述べた。王命ではないと確かに宣誓する、精気を欠いた白い顔を風が拭う。
支度を終わらせたイムイは深く息を吸って、両手で剣を握った。四角い刃が掲げられ、静止したのは一瞬。
「慈悲を」
その言葉の後、次々と首が落ちた。イムイは祈りと共に剣を振るい続けた。そうした仕掛けであるかのように、休むことなく。「慈悲を」「慈悲を」「慈悲を」――繰り返し淡々と。一つ一つの手並みはいつもと変わらなかった。数だけが異常だった。祭壇は血で溢れ、元の表面が見えなくなるほど汚れた。殺戮と形容するに相応しい処刑だった。
やがてすべての首と体を谷に落として、イムイは荒い息を吐いた。汗の浮く額に手を当て、剣を見つめる。額にあった手はすると降りて、汗の冷える首元で止まった。
「さすがに自分の首は斬れんな」
少し考え、呟いて笑んだイムイは剣を引きずって歩いた。そうして震える腕を誤魔化しながら、死体を谷底に落とすときのように崖の際に立った。巨人が住むと伝説に云う底の見えない深い谷で、風が強く喚いている。
覗き込み、イムイは手をきつくして目を閉じる。そして寝台に倒れるように――
黒衣が翻る。民衆が目を見開くうちに刑吏の身は宙に投げ出された。ドオン、と、確かに音がした。あまりに呆気ない、一瞬のうちの出来事だった。
そうして、その日のうちに。悪魔か魔女の子か――そう謗られた刑吏、イムイ・ロクシャンの死は瞬く間にイルールの人すべてが知ることとなった。
血で足を滑らせたのだとか、十一人も一度に処したものだから眩暈がしたのだとか、殺した者たちに引っ張られたのだとか。皆は口々に言い合った。
とにもかくにも、彼の死自体は喜びをもって民衆に迎えられた。彼は刑吏として着任して四年、ただの役人ではなく、恐怖と狂気の支配者としてイルールに君臨していたのだ。すぐに新しい刑吏が就くだろうと眉を寄せる者も少なくはなかったが、それでも、多くを殺した狂人は一人去った。それも都に帰ったのではなく、暗い暗い、処刑場の谷に。イムイの部下たちが慌てふためき、それでもなす術なく館に戻っていくのを、民衆は胸のすっとする思いで見つめていたのだ。その直前の、何かの供犠のような異様な殺戮もまた、忘れられてはいなかったが。
一先ずの祝いに、イルールの民は久々に酒などを飲んで眠りについた。考えることは様々にあったが、これが一つの区切りになるだろうと――もしかすれば、この暴政に異議を立てる機会かもしれないとも考えて。
その考えは正しかった。ただし、彼らの意に沿うものではなかった。異変は、すぐ。
暁光が訪れる前の、濃い闇の中で声がする。谷から吹く風が運んだ。それは笑い声だった。
くすくす、くすくす。くく、と堪えて、しかし消えることがない。絶壁に反響して、幾人もが笑っているようになり始める。高い声も低い声もあり、やがて、堪えきれないと大笑いになった。あははは、はは、ふふふふふ、あは、はっはっはは……絶え間なく。
それが人々の耳に入った。谷底から響く笑い声に、イルールの人々は目を覚ました。皆一様に不審そうで不安げな顔を見合わせ、毛布から抜け出て、服を着て外に出る。声の在り処を探して歩き出すその途中で、誰からともなく、武器になるような杖や農具を手にしていた。不気味な声の主に覚えがあったのだ。悪い予感が彼らの中にあった。その予感は的中した。
「いやよく上手くいったものだ。我が父はやはり王だ、正しかったのだ。俺は王にはなれんが、他のものにはなれるのだな」
気の触れた男の笑い声は一度、ぼそぼそとした呟きになった。風が汚れた黒衣を揺らす。
処刑場に辿りついたイルールの民は、驚くというよりも呆然としていた。そこには死者が立っていた。
谷に落ちて死んだはずの処刑場の主は、洗われていない血だらけの壇上に立ち、風を受けて笑っていた。谷底に打たれた体は肉を裂いて血だらけで、骨を折って拉げていたが、イムイの形を保っていた。白の蓬髪、血の気の悪い痩身、彼は荒れた声で喧しく笑う。
魔女エンドリカの如く。
伸び放題で荒れ、血と土と何かで汚れた銀の髪が、紫の空の色に染まって光を纏っていた。山の稜線を越えて昇り来る朝陽の眩しさに目を細めて、イムイは集った民衆を見渡した。頭巾の類もなしに、このように顔の見える状態で人々が集まるのは久々のことだった。
「エンレイ・ランラドクの民よ」
死の間際の、風のような細い息を含む声でイムイは呼びかける。処刑の時と同じように集まった民衆を見渡し、己の胸に手を当て言った。
「俺は剣になったが、エンレイの剣にはならん。――エンレイの剣は折れた。俺が折ってやった。だが別の剣は鍛えた。新しい国が建つ。俺が守るのはそっちだ」
それは国の興亡に関する不気味な予言だった。イムイを仰ぐ誰も、まともにはその言葉を聞いていなかった。それよりも目前の恐ろしい出来事に意識を囚われていた。
「お前たちも共に行くか? 抱えてやるぞ。俺も王族だからな、懐はでかい」
言葉を発し笑うごとに傷が開き骨が軋んで、イムイの目からは涙が溢れた。肺か胃から滲んだのか、もしかすれば頭から下りてきたのか、何処の物とも知れない血が口の中を満たした。兄に殴られた時と同じくらい痛く恐ろしいと考えて、その自分の思考がまた笑え、イムイは肩を揺らす。満身創痍の刑吏はそうして立ち続けていた。
「エンレイが、ウクナトクが憎いか? 憎いな? あああ、ははっ――その憎しみが刃になる、力になる。エンレイを亡ぼしに行こう。俺が率いてやる、皆新しい国の剣になるんだ」
およそ三百人。この地でイムイに処された者と同程度の人々が、彼を見ていた。ざわざわと声が広がり始める。
「魔女だ……」
「落ちたのに生きている」
「本当に人では無いのだ」
「殺せ――」
「何が役人だ、王族だ!」
「ありゃ魔物だ。王は魔物を使ってるんだ」
「もう一度殺せ! 生き返れないようにしてやれ!」
殺せと誰かが言った。そうだ、と同調する声が上がった。
「首を落として、心臓を刳り出して刻め!」
「手足を捥いでやれ!」
「火あぶりだ! 全部燃やせ!」
声に押され、男たちが怯えながらも彼ににじり寄った。手には屠殺用の斧があった。イムイは逃げず、応じるように手を広げた。
「やればいい。きっとその分よく鍛えられるんだ。十一人殺したからな。刑吏から見れば、惨く殺すには十分だぞ」
肩を竦め、歪んだ口で軽口を叩く。
人殺しが何故惨たらしく晒されるのかと言えば、その罪が重いからだ。イムイは自分が殺した人数をしっかりと記憶していた。王に命じられ三百十九、勝手に殺したのが十一。三百三十の首を落とした報いが身一つで足りるとは、刑吏の裁量では考えられなかった。
処刑の時とは違う叫び声が崖に響き渡った。恐怖と狂気の権化に唆されたイルールの民の雄叫びが最初だった。がむしゃらに斧が振るわれ、腕が削ぐようにして落とされる。やった者たちが怯え興奮していたので手元は大いに狂い、右は五度、左は九度も斧を振る必要があった。襤褸切れと血肉が混じった物が落ちた上に、膝をついたイムイが引き倒される。
腕の次は足。倒れて投げ出されていたので両足とも二度で済んだが、足を落としている間に数えきれぬほど殴打され、刺され、長い髪を掴んで引きちぎられていた。目は片方だけ潰れた。
イルールの民は皆狂気に包まれていた。イムイは片目でそれを見た。此処から国が作り替わるのだと、またとない喜劇を観るように。自分がその先駆けになると確信しながら。
四肢を落とされたイムイの体は、持ち出された丸太に荒縄で括られる。それだけで肌が裂けて傷が増えた。耳が引きちぎられる。砕けた歯を吐き出して、イムイは虚ろな顔で己を取り囲む民衆を見上げた。誰もが自分を恐れ憎んでいることを見て取って、顔を下へと向けた。俯いたのではなく頷いたのだったが、下げた後に上げる気にはならなかった。
何処が痛むのかも定かではない。彼は恐ろしくて堪らなかった。
「まだ生きているぞ、おぞましい」
「慈悲などくれてやるな! 忌まわしい魔の者に、慈悲は要らん! 火を――」
イムイには人々の声はよく聞き取れなかったが、風の鳴く音だけは絶えず聞こえていた。女の叫び声のような音を気にしているのはどうやらイムイだけだ。他は誰もが、目の前の男――魔女を葬ることに執心している。
油がかけられ、松明が運ばれてくる。人々が離れていくのを見て、イムイは戦慄く唇を動かす。
「……慈悲を、この地に、」
慈悲を。自らにではなく――人々はその祈りの真意を知らない。男の身が魔女ではなく別の、紋章の剣のようなものに変わっていることも。
「皆連れて行く……エンレイ・ランラドクへの怨み、確かに受け取った」
まだ感じる痛みと寒さ、恐怖に震えながら、イムイは目を開いていた。災いの魔女エンドリカとは違い薄く涙に濡れるだけの彼の目に映ったのは、赤々燃え上がる、断罪と叛旗の炎であった。