四
身震いするほど冷えた取っ手を掴み鍵のかかっていない扉を開けると、寝床の上には全裸の男が血塗れで伏せていた。なんてことはない、引っ掻き傷、小さく薄い傷が背をいくつも走っていて、そこから滲んだ血がべたべたと広がっているだけだ。その上に白い髪がかかっている。不潔だが、女子供ならともかく、この男の体がそうだったところで惨くもなんともない。乾きかけた血の臭いが不快だった。斑に痣のある背も。
傷のない肩を掴んで揺すっても反応はない。更に強く揺さぶり、頭を揺らした。呻き声が聞こえたが、目はきつく閉じられたようだった。もう昼だと言うのにこの体たらくだ。
「イムイ。……起きろ!」
「書状なら置いてあったろう? 寝かせてくれよ、疲れてるんだ」
「遊びで疲れた奴の願いなど聞けるか。働け」
怒鳴るとようやく掠れた返事が来るが、目は縫い付けてあるらしい。客、上司にこの反応とは腹立たしいことこの上ないが、とはいえ殴ったところで喜ばせるだけだった。変態趣味の糞野郎はただただ扱いづらい。
肩を叩きつけて仰向けに返し、傷だらけの背を毛布に押し付けると眉が寄った。見れば首には絞められたらしい痣がある。
小言の一つでも垂れてやろうと口を開いたところで、傷一つない手が俺の腕を掴んだ。処刑剣を握るときもこうなのだろうか、肉が引き攣れるほど強い力が込められている。
「人を殺せって?」
笑いを含んだ囁き。瞳孔の縮んだ双眸がこっちを見上げている。ようやっと起きた刑吏は口角を上げ、王の代理を馬鹿にしていた。
手を振り払う。前に、イムイが放した。手はまた一段と乾いた髪を掻き回した。
「王様が言うならやるが。……別件だろう? なんだ、言え」
言いながら起き上がり何か探し始める。毛布の中を弄り首を傾げ、胡坐組んで棚を漁りだす姿を睨んで、俺は皺になった袖を伸ばした。イムイがそうしているうちに話を始めなければなるまい。
「二日後に都から勅使が来る。話があるらしい。身形を整えて迎えろ。朝に見に来るからな、それまでにだ」
返事はない。言うことは多くないので苛立ちながらも待った。枕にしていた本の下に手をつっこみ煙管を取り出したイムイは、火を点けないまま吸い口を咥え、それからようやくこちらを見た。火を求めた視線ではなかった。
求められたところで応えられるものではない。この部屋は今、一切の火の気がない。冷えているのに暖炉も火鉢も死に灰だけ積もり、暗いのに燭台や油皿の一つもないのだ。
「どこだ」
「イルール。此処だ」
「お前も居るのか」
「そのようにと申しつけがあった」
こいつは愚かではあるが、鈍くはない。だから「何をしに」とは問わない。俺には分からないと察している。察しのとおり、王はただ使いを出すと先んじて知らせてきた。それだけだった。何の為に来るものなのかは、俺には皆目見当もつかない。……否。
コグフの館にではなくイルールの処刑場にと言うのだから、この虐殺についてのことだろうとは考えていた。もしかすれば、やっと、自分の生まれや暴政の謎が解けるのではないかと、
「なるほど、兄弟揃ってと仰る――」
煙管を噛んで微笑んだ、その憎たらしい口元が何か言葉を吐いた。と、意識して聞き取った瞬間。拳に肉の手応えがある。
掠れた悲鳴。どっと転がる白い体。呻きはすぐに苦しげに引き攣れた笑声に変わる。白い髪の隙間から覗く目が俺を見ていた。寒い部屋で、体が煮えたように熱い。全身の毛が逆立ち身を覆っている。
「二度と言うな! そのニヤケ面、叩き割るぞ!」
身が割れるほどの声が出た。頭が痛い。
イムイは笑っていた。血を吐き出してのろのろと起き上がる。笑っている。俺が殴った頬を押さえて、俺を見て笑っている。まともではない。とても、正常であるとは言えない。
俺はこいつと同じではない。兄でも弟でもない。同じ腹から出てきたとして、けっして。
「身形を整えるんだろ? 腫れるぞ、これは……」
音を立ててもう一度血と唾を吐き、イムイは俺を見上げた。笑みはどうやら一度失せた。頭痛と熱を往なす俺を見つめ、退屈な子供のような顔で、イムイは再び寝転がり――本を持ち上げた。開き、頁をこちらへと向ける。
「覚えて居るか? 昔見たろう、エンドリカの親父」
くすんだ赤い目と目が合って眉が寄った。古びた紙には絵が描かれている。
白い毛むくじゃらの奇妙な獣の姿。その前肢が丸太の如く太く長いことと、首が無く、縮こまった肩と胸の上に直接頭が乗っていることを除けば、屈んだ人にも見える。そう、いくらか人に似た獣だった。人と獣の混ぜ物であると主張するように、ところどころを引き伸ばして皺だらけにした醜い人面が上に据えられているのだ。でかい鼻の穴を広げて歯を剥いている。その目は赤いらしい。インクは古びて色を落としていたが、昔はもっと鮮やかに朱色をしていたのだろう。
身の丈は人の十人分はある。そんな不気味な化け物の絵が十数頁に渡り続いていることを、俺は知っていた。俺は昔にこの本を見たことがある。
木々の上を飛び回って、嵐を引き起こす魔物。古い本に描かれている絵空事。
本当であれば城の書庫に保管されている代物。何の本とも知れぬそれを、昔に見つけてきたのはイムイだ。大人になった今でも読めない――知らない文字で書かれている本を絵だけで読み解いて俺に語ったことがある。十数年も前か。
こいつは昔から、何処ぞに忍び込んで物を拝借するのが好きだった。厳重に鍵をかけられている地下室にどうやってか忍び込み、古びた剣を持ってきたこともある。エンレイの紋章の剣と同じ拵えだと笑いながら。きっと国の守護、〝国守り〟の剣だから大した飾りも何も無い鈍らなのに保管されているのだろうなどと、古い話などなぞりながら。……行く行く盗人になるのではと案じたが、それより性質が悪かった。
俺が黙っているのを見て、イムイはまた口を開いた。会話の脈絡など存在しない。
「この前城に行ったとき拝借してきた。誰も読まんようで埃が積もっていたからな。いつ見ても興味深い」
――「なあ、ヘルィーク、見ろよ。また面白いもの見つけたんだ。ほら――この前剥製を見たサルっていうのにも似てるよな? すごく大きいみたいだけど」
「白いぼさぼさ、木の上を飛んで回って、どうやら咆える。まるきりエンドリカだ。だけど、」
――「白くって、ほら、嵐を呼んでるんだ、これ、きっとそう。なあ、」
「女には見えん。魔女じゃない。どう見ても親爺だろう、この顔。まあ年を食った婆さんもこんなのになるかも知れんが、俺はやっぱり雄だと思うね」
――「災いの魔女みたいじゃないか? こいつ、エンドリカの父親じゃないかな。きっとさ、女を攫って子供を作ったんだよ。それとも雌はもうちょっとは人っぽいのかな」
「これがエンドリカの親父なら、俺の祖父さんだな」
今のイムイの掠れた声と、過去のイムイの高い声が耳を塞ぎ頭を覆う。どちらもが煩わしいことを言っていた。
「……ヘルィーク」
生臭い、鉄臭い臭いが鼻に触れた。目を細め、呆けたように笑みを絶やさないイムイの顔が近い。気づけば首を掴んで引き上げていた。本が頁を開いたままに倒れて膝の下にあった。血の臭いがいくらか昂った気を鎮めたが、イムイの顔つきが不愉快でならなかった。
昔とは、あの頃とは違う。あの頃はこんな笑い方ではなかった。本を広げて見せたときの顔は煩わしくともただの子供の顔だった。
これは段々おかしくなったのだ。
「魔女や魔物の話などして楽しいか」
低く絞り出すと、ゆらゆらと髪を揺らし声を上げて笑いだす。耳障りな音だった。その声が何よりの返答だった。イムイは愉快で仕方がないと言っている。呪われた女、避けるべき獣を己が親だ祖父だと、民の悲痛な罵り言葉を肯定して嘲ることが、愉快で堪らないと。
悪趣味の権化はにたにたとして俺の手に手を添えた。昔のように、やけに親愛の情に溢れた手つきだった。ぞっとした。
「なんだよ、そのほうが嬉しいんだろう? ヘルィークは真っ当な人の子で、イムイは狂った魔女の子だ、それなら――」
兄弟じゃない。などと、イムイが言う前に床に叩きつける。気づけば荒れていた息を必死に抑えて、髭を撫でた。
起き上がったイムイは無表情だった。転がっていた煙管を拾い上げて、やはり火を求めず、ただ咥えてこちらを見上げる。金属の吸い口を噛む音が聞こえた。
「王代候? 今日は怒りっぽいな。女でも抱くか? ……ちょっとくらい刺してもいいぞ。女の血は赤い茸より俺たちに良くしてくれるし、揺り籠みたいに寝心地がいいし、落ち着くだろ?」
たっぷり黙って睨み合い、先に口を開いたのはイムイのほうだった。まったく、重ねて悪趣味な誘いだ。その声音と表情から、誘いが冗談ではなく本気と知れるのが、俺の不愉快を助長する。
「……お前と同じにするな」
「ああ。俺は気狂いの悪人で、お前は善人だ。安心しろ。たとえお前が産まれたのが嵐の日でも、エンドリカは見物に来ただけだろうよ。産んじゃいない」
淡々と答え、己と俺とを対比して、何事もなかったかのように彼は立ち上がる。毛布を外衣の代わりに羽織り、靴も履かずに床を踏んで窓に歩み寄り、頑丈な鍵を外して内戸を開き鎧戸を持ち上げる。部屋がいくらか明るくなった。
窓際でイムイの息が白く濁り、冷えた風が吹き込んだ。もうすぐ雪が降ると知らせる冷え込み。また冬が来る。今年も、当たり前に来る。重い雪が降り、この地を覆い尽くすだろう。
ある意味ではエンレイがもっともエンレイらしい季節だ。夜神が寄り添った、四つ目の大陸の北国には、陰気な冬が相応しい。こんな処刑場ではなおのこと。
「あんまり怒るなよ、懐かしい話がしたくなっただけさ」
小さな掠れ声はしかしはっきりと聞こえた。風がわざわざ運んできたようだった。冷気が顔に触れて身震いする。
「なあ、ヘルィーク。王様の治世に飽いているなら、どうして叛乱を起こさない? お前が治めればいいだろう。お前だって、王族なんだから」
窓を開けていると言うのに、憚ることなく刑吏は叛乱を口にした。低い声は外に響いたり壁を越えたりはしないだろうが、あまりに短慮と言える。俺は首を振って応じた。保身の為ではない。
「臣に下った」
「形式では。だが、その身に流れる血をなんとする。お前はウクナトク王の子だ。ヘルィーク・ランラドク。残念ながら口元なんかそっくりだ。まあそれは俺もだろうが」
「俺は王にはなれん。――血が王を定めるのではない。神が、王を選ぶのだ」
「何で分かる?」
イムイが振り向く。銀の髪が広がって揺れる。荒れた声で問う。目は、光っていなかった。そこに立っているのは災いの魔女ではなく、エンレイの者、一人の民、臣だった。
そう、王の血は流れていても、王位を持ち合わせてはいない。それが一目で知れた。
「お前も分かっているだろう」
己でも驚くほど落胆した声が出た。イムイはぼんやりとして、そして、はっと、本当に驚いたという顔をして見せる。自らの手を――自らを見て、俺を見て、口から煙管を取り上げた。
「そうか、……そうだな」
薄い茶色の目が瞬く。血の気の悪い唇が動く。俺の口からは溜息が出た。
俺たちは王の子だが、臣でしかない。けして王にはなり得んのだ。それをどこかで分かりきっていた。考えた末のことではない、本能的に察していた。どこか感心したような応答を聞くに、イムイも分かったのだろう。何となく、しかし、はっきりと。
頭が痛い。儘ならない現状に息苦しくなる。
「二日後だ。忘れるな」
もうイムイと話すことなど残っていなかった。言い捨てて踵を返しても、イムイが動く気配はなかった。扉は音を立てて閉じ、冷えた空気を部屋に封じた。廊下のほうが暖かいというのは何の冗談だろうか。
――国が欲しい、と思ったのはいつのことだっただろうか。俺はその時同時に、無理だとも悟ったのだ。だから今日この日まで臣に甘んじている。死ぬまで変わりあるまい。
王は王。たとえ無為な処刑を命ず悪逆非道の愚王であろうが、それは変わりがない。エンレイを動かせるのは我が父か、その継承者、顔もよく知らぬ王子だけなのだ。ただ一介の人である俺は、付いていくしかない。