8 運命の出会い
舗装されていない道というのは、想像以上に体力を奪う。まして、運動なんてまったくしていないズボラな30代には、拷問以外の何物でもなかった。
強行軍、と称したガルヴェインは正しかった。人が通れる道を進んでいたのはものの30分ほどで、すぐに森への入り口に着いた。賊が出る、との噂の恐ろしい森である。暗闇に浮かび上がる木々はうっそうと茂り、人の力では決して及ばない神々しいまでの不気味さを孕んでいる。自然と背に嫌な汗が流れた。
「はぐれるなよ」
「じゃあもっとゆっくり歩いてくださいよ」
「……善処する」
手をつないでほしい、とは口が裂けても言えなかった。恥ずかしいから、という理由がないわけでもないが、いつ何が起こるか分からない森で、片手とはいえ彼の自由を奪うことは避けたかったのだ。
夜で視界が悪い中、ガルヴェインの姿を見落とさないように気を張っていたせいもある。人目を避けるために、敢えて明かりを灯さず進んだこともある。獣道ですらない茂みの間を突き進んだせいもある。運良く遭遇しなかったが、狼の遠吠えに神経をすり減らされたせいもある。
私は何度も木の根やら石につまづき、その度に騎士様に舌打ちやらため息やらを投げつけられ、ようやく空が明るんできた頃には疲労困憊だった。
彼の名誉のために言っておくが、森に入ってからはだいぶ気を遣ってくれていた。最初のうちはつまづくたびに心配してくれたし、歩みも彼にしては遅くしてくれたのだろう。そもそも足の長さが違うのであまり意味はなかったが。小休憩もこまめにとってくれていた。が、私の鈍すぎる運動神経と体力のなさが彼の堪忍袋の緒をじわじわと蝕み、そのうち私を案ずる言葉の代わりに、暗闇でも感じられるほどの冷ややかな視線が向けられるようになった。森も半ばの頃には、遅れを取り戻すために強引に足を進めることになっていた。
足のまめが痛い。まとわりつく布がうっとうしい。ターバンに締め付けられ、頭も痛い。近くに川でもあるのだろうか、水が流れる音がする。水に足を浸したい衝動に駆られる。そういえば喉も焼けそうに乾いていた。
「す、少し……休ませて……」
だいぶ頑張ってきた。弱音くらい吐いてもバチは当たるまい。
「駄目だ」
そりゃアンタは体力あるからいいでしょうよ! 胸中での毒を吐き出してやろうかと睨み付けた。が、その言葉を出す元気もない。ついに私はその場に座り込んでしまった。ぜえぜえと肩が揺れ、足が鉛のように重かった。
俯いていた私の視界に、不機嫌そうなつま先が見えた。
「……では少しだけ」
怒られるかと思いきや、ガルヴェインも私の隣に腰を下ろし、リュックサックの脇に吊るしてあった皮の袋を差し出した。硬く結ばれてあり、疲労で震える手にそれを紐解く力も出ない。紐相手に苦戦している私を見かねて、彼は容易くほどいてみせた。中は水だった。唇の端から漏れるのも構わず、一心不乱に飲み込んだ。喉がたちまち潤い、細胞が甦ってくる。水がこんなにおいしいとは知らなかった。
「い……生き返った……」
「大袈裟だな」
皮の袋を取り上げ、彼も水を口にした。
あ、と出かかった声を咄嗟に抑えた。今のは、か、間接キスに入らない、たぶん。
その程度のことで動揺する自分のウブさにも呆れる。隣に座られ、微かに触れ合う腰あたりの体温も、努めて意識しないようにした。
「少しだが仮眠をとるといい」
「で、でも……いいんですか? 遅れているんじゃ……」
「その代わり、もう休憩はなしだ」
「おやすみなさい!」
慌てて横になる。頬に、朝露に濡れた草が触れて気持ち良かった。今なら3秒で眠りにつける自信がある。やっと一休み……
と、思ったら、ガルヴェインが私に覆いかぶさってきた。
突然重ねられた逞しい身体の感触に、心臓が飛び跳ねた。左手で私の頭を抱え込むように押さえつける。眠気どころか疲労すらも吹き飛んだ。途端に頬が熱を持ったのが分かる。
「な……っ」
「静かに」
彼の声の低さに、色っぽい事態ではないと悟った。自分の息の音すら聞こえない凍るような静寂の中、微かな悲鳴が届いた。
「……!」
「賊だ。動くなよ」
悲鳴がもう一度響く。今度ははっきりと聞こえた。かなり近い。
ガルヴェインに抱え込まれているので顔は動かせないが、下の方から草を踏み分ける音がした。まず軽く、次に騒々しく。
「逃がすな!」
「深追いするな! そっちは滝だ!」
「お嬢ちゃ~ん、いい子だから出ておいで~」
濁っていて耳障りな複数の男の声が響く。すぐに賊だと分かるほど品がない。高圧的で、弱者をいたぶる声だ。思わず耳を覆いたくなる。
ガルヴェインを横目で見たが、彫像のようにピクリとも動かない。だが、目だけはせわしなく動いていた。
男の怒号に混じり、可憐な少女の叫び声が聞こえた気がした。ややあって水が跳ねる音。―――落ちたのだ。ガルヴェインの手の力が緩んだので、首だけ動かして水の音がしたであろう方角を見る。視界の隅に、幼い子供が川の流れにのまれていくのが見えた。
「た、助けなきゃ!」
「黙れ。動くな」
相変わらず動く気配もない。見捨てる気なの? 目の前で子供が溺れているというのに?
「お願い、ガルヴェイン。あの子死んじゃう……!」
「黙れと言っている」
無駄と分かっていて力任せにガルヴェインの手を押しのけようとしたが、却って私を拘束する手に力が込められた。いっそ噛みついてやろうかと思った時、賊の下卑た声が森に響く。正確に何を言っているのかまでは分からないが、悔しさを含む罵声だった。だんだんと遠ざかっていくが、それがとても長く感じられた。早く、早く立ち去って!
「いいか、絶対に動くな」
賊が去ったと判断したのだろう。ガルヴェインが半身を起こし、素早くローブを脱ぎ捨てた。鍛え抜かれた胸板に見惚れたのは一瞬のことで、体重を感じさせないしなやかな動きで朝もやの中に消えていった。
胸が痛い。呼吸が荒くなる。視界がぼやけたのは、いつの間にか涙ぐんでいたせいだった。
どうか、生きていて―――
幼い命を奪わないで―――
何故、一度視界に入っただけの少女にそこまで固執するのかは分からなかった。ただ単に、見てしまった以上、目の前で人が死なれるのは気分が悪いからかもしれない。命の危機にさらされている人を助けたいと思うのは、人間としてごく当たり前のことだからかもしれない。
理由はどうあれ、あの子に生きていてほしかった。
いてもたってもいられず、後で怒られるのを承知で、私は川の方へと進んだ。周囲を気にしつつ、音を立てないように、でも素早く。足の痛みなんて構っていられなかった。
川が視界に入ってきたのと同時に、岸にガルヴェインが見えた。さすがの彼も肩で息をし、座り込んでいる。その足元にはずぶ濡れの少女がいた!
何も考えずに走っていた。私を見とがめ、ガルヴェインの眉が跳ね上がったが無視した。後でまとめて怒られるから! 走り際に頭に枝をひっかけたことも気にしていられなかった。
少女は12,3歳ほどだろうか。顔は恐ろしいほどに蒼白で、生気が感じられない。胸が上下していなかった。
「……遅かった……もはや……」
「どいて!」
手は震えていたし、実はわずかな疾走で膝が笑いまくっていたが、頭は驚くほど冷静だった。運転免許の講習で受けた心肺蘇生の手順が鮮明に思い浮かんでいた。
気道を確保し、2回の人工呼吸に、心臓マッサージ。人形を使った実習が印象的でよく覚えている。10年以上前の記憶といえど、やり方はあっているはずだった。リズミカルに少女の胸を圧迫する私に、ガルヴェインは何事かと訝しげな目を向けていたが説明する余裕はない。3回目の人工呼吸を施したその時、少女の唇がわずかに動いた気がした。顔を上げると同時に、少女は激しく咳込んで水を吐き出した。
苦しそうに咳込む少女の背をさすりながら、改めてじっと見つめた。
水を吸って重くなった茶のワンピースに外傷や赤い色はない。怪我はしていないように見える。薄い金の髪が頬にまとわりついていたが、頬はもはや白ではなくピンクに染まっている。
「良かった……」
生きていてくれた。思わず少女を抱きしめてしまった。
「大丈夫?」
「……は、はい……」
肯定の返事だが、未だ苦しそうだ。引き続き背をさすっていると、少女はようやく落ち着いたのか、ありがとうございます、と弱々しく微笑んできた。もう大丈夫そうだ。発見が早かったからか、あまり水を飲んでいなかったのか、意識はしっかりしているように見えた。
ふと、怒鳴りつけられるだろうと思ってガルヴェインを恐る恐る見ると、妙に畏まり、膝をついてこちらを凝視していた。彼もずぶ濡れだったが、額に滴る水すら拭おうともしていない。
「……よもや……」
ガルヴェインの掠れた声が少女にも届いたのだろう。彼を見やると、あっと小さく悲鳴を上げた。
「ガル兄様?」
「このような装束で御前に参上致す非礼、お許しください、殿下」
立膝のまま頭を下げる騎士様と、少女とを二度見してしまった。
『殿下』は、疑問もなく男の子だと思い込んでしまっていた。
「何故このような場所においでになるのです? 従者もつけずに」
「ごめんなさい、ガル兄様。わたし、どうしてもあの城にいたくなかったんです。アーク兄様にお呼ばれしたので、こっそり早めに出発したのです。……従者は……アマンダと一緒にいたのですが、先ほど……」
「侍女のことは致し方ありません。殿下がご無事で何よりです。しかし恐れながら、何故森などに? ここは危険でございます」
「この森に、蒼雪花が咲いていると聞きました。カドナ夫人にお渡ししたかったのです。それに、お忍びの旅でしたから、人目に付きたくなくて……ごめんなさい、わたしのわがままのせいで……」
問題の殿下と騎士の会話をぼんやりと聞きながら、少女が寒そうだな、などと見当違いのことを考えていた。そうだ、濡れた服を着たままでは体温が奪われてしまうではないか……
「殿下、畏れ多くも、殿下は先ほど水に溺れ、命を落とされたご様子」
「ええ、わたしも死ぬのだとばかり思っていました。とても苦しくて、意識もなくなって……でも、気がついたらこの方が」
「殿下をお救いになるため、遣わされたのでございます」
少女とガルヴェインが私に注目する。
「……どうぞ、証たるその御髪を殿下にお見せください、従者様」
「……は?」
「え? 従者、様?」
ガルヴェインが強烈な眼光を投げつけてくる。へまをしたら殺す、と訴えていた。よく分からないが、言われるがままターバンを手にかけた。そういえば枝に引っ掛けたんだ。あれほどきつく結ばれていた布が乱れており、思いのほか簡単にほどけた。締め付けから解放され、爽やかな早朝の風が髪の間を抜けていった。
「そんな……! 黒の竜の従者様!?」
私を見たら、この国の民は皆『それ』だと信じる―――アークの言葉が甦る。目の前の少女は私に羨望の眼差しを向け、今にも平伏しそうな勢いだった。
ご覧くださり、ありがとうございます。
心肺蘇生の部分に関しては、インターネットで調べた知識ですので、必ずしも正確ではありません。
私も実際には人形でしか試したことがありません。
溺れた人への人工呼吸も、漫画で見た程度の知識です。正しいかどうかは分かりません。
あくまで「フィクション」としてとらえてください。




