7 出発
二人だけの会話が終了したことを告げると、アークがせわしなく入室した。ハリアには退室を命じ、去り際に「万事滞りなく」と告げていた。彼の頭の中では、既に幾百もの策が構築されているのだと、のちにガルヴェインに説明された。
「ではお二人に、今後の大まかな流れを説明しよう」
言うなり、アークは机の上に置かれていた羊皮紙に楕円形をひとつ書いた。筆記具はいわゆる羽根ペンで、漫画の中で見ただけのそれを実際に使っている様に、何やらおかしさがこみ上げてきた。もちろん頬を緩められるようなのどかなお絵かきタイムではないが。
ちなみに、インクの色は濃い青で、そういえば先ほどの『創世記』のイラストや文字も青のインクだったと思い出した。本当に黒が存在しないようだ。
「大雑把だが、円がバシュフミナ領と思ってくれ。現在地はこの辺り」
羽根ペンは楕円の中央よりやや右上を指した。
「そこから南西に半日ほど馬車で進むと領都ニィス。俺の城がある」
アークの説明に合わせ、右上の点から左下に線が引かれた。線の終点にぐるぐると丸印を付け、横にシルダーク語と思われるくさび形交じりのアルファベットもどきが書かれる。後で聞いたが、「ニィス」と読むらしい。
「大変素晴らしい偶然だが、4日後、城に殿下を招いている。我が母ご自慢の庭園に美しい花が咲き乱れる時期、是非とも殿下にもお楽しみいただきたい……というのが表向き。作法にうるさい我が母により、王位継承者としてふさわしい品位を身に着けていただくのが本来の目的」
マナーレッスンというやつだろうか。貧相な想像力では、頭の上に本を乗せて落とさないように歩く場面しか思い浮かばない。
「母は侯爵家の出自で、それはそれはもう礼儀作法に厳しいお方でね。その母にご教授されるとは、殿下に同情を禁じ得ない」
よよよ、とふざけて泣き真似をするアークの仕草にも、どことなく優美な輝きがある。無意識に優雅さを醸し出せるほどの躾を受けてきたのだろう。私も、顔も名前も知らない殿下に少し同情した。
「まあつまり、知識や教養、作法といった矯正できるものはすべて殿下に叩き込むことになる。平民の出だから、と相手に付け込まれる隙は少なくしておかなければならない」
アークもガルヴェインも力強く頷いているが、私は一抹の不安を覚えた。
親のエゴで、有名私立中学とやらを受験させられ、結局ノイローゼになってしまった生徒を思い出していた。不登校になり、精神的にも肉体的にもボロボロになった状態で、親も困り果ててうちの塾に放り込んだのだ。その子に必要だったのは、参考書でも問題集でもない、友達と日暮れまで遊び回る余暇だった。みるみる元気になったその子は、公立の中学でのんびり過ごし、地元では有名な進学高校へ進んだ、と年賀状で知った。
殿下がそれを望んでいるならば応援するが、それを義務と思い込まされてやるのは逆効果だ。余計なお世話と分かっているが、そこは室長の性、対面を果たした時に殿下の本心をこっそり聞き出そうと心に決めた。
「俺はガルの家に明日の朝まで滞在することになっているから、予定通りここに残る。お前たちは目立たないように先に徒歩でニィスへ向かってくれ」
何故?と問う前にアークの答えが返ってきた。
「殿下に庭を案内していると、従者様が殿下の眼前に現れる。前触れもなく突然に。二人は運命的な出会いを果たし、従者様は殿下を一目ご覧になって次期国王になる人だ、と仰せになるんだ」
「な、なるほど……私は“突然”庭に現れる……って設定ですね?」
「そう。あくまで従者様が殿下に会うために降りてきた、と思わせる方が信憑性が高い。そのためには、マナミの存在は、殿下と出会うまで俺たち以外に絶対に気づかれてはならない。多少遠回りの危険な獣道を進むことになるが、人目を避けてニィスへ向かってほしい」
羊皮紙に、現在地を始点として左下の丸印まで、大きく迂回したような曲線が描かれた。その経路に心当たりがあるのだろう、ガルヴェインが眉根を寄せる。
「……賊が出るという森か……」
「領内を管理しきれていなくて申し訳ないね。最悪、気取られる前に消せるだろう?」
「出来る限り事を荒立てないように動く」
平然と恐ろしいことを口にしているが、ガルヴェインも異論を唱える様子もない。……もしかして、宰相も彼らも、同じ穴のムジナではないのだろうか……
そういえば、二人きりの会話の時の優しげな雰囲気に忘れてしまっていたが、朝のガルヴェインの殺気たるや、眼光で人を殺せるほどだった。実際容赦も躊躇もなく殺されかけた。『無双』と呼ばれるのは、それだけの理由があるわけで、理由とはすなわち、誰かを手にかけた、というわけで。
腰元の剣を盗み見る。凄惨な状況が思い浮かびそうで慌てて首を振った。アークが心配そうに覗き込んできたが、悟られないように微笑み返した。雑な笑みを「何でもない」との返事だと取ってくれたのだろうか。アークは気にせず続ける。
「目立たないように変装した方がいい。そうだな、流浪の民の夫婦になりすまそう」
「……は?」
聞き慣れない単語への疑問ではない。い、今なんて?
「ああ、流浪の民というのは、どこの国にも属さない旅人だ。特定の家を持たず、数人で諸国を放浪しているから、不思議がる者も少ないだろう」
聞きたいのはそこではないのだが、アークは分かっていて敢えて触れずにいるのか、ガルヴェインはもはや任務と割り切っているのか、二人に表情の変化はない。私一人で変に意識してばからしくなった。別に何の問題もない。フリだ、フリ。相手も女性嫌いを隠そうともしない人だ。何の問題もない。それに、男女二人組なら夫婦と思わせるのが最も自然だ。他意はない他意は。
「流浪の民の服はハリアに用意させている。出発は夜。それまで仮眠をとっておいてくれ」
長い応接間での会議が終わり、私は身を隠すために、今朝閉じ込められた物置に舞い戻る羽目になった。床に置いてあった木箱をガルヴェインが易々と上へ積み上げ、人ひとり寝るには十分なスペースができた。
「……こんな場所に閉じ込めることになってすまない」
心底申し訳なさそうに謝られると、ほんの数時間前にガルヴェインに凄まれたのが夢だったのではないかと思えてくる。いや、本来彼は気を遣うタイプで、朝が最大級の警戒モードだったのだろう。
「お気になさらず。突然の訪問者がないとは言い切れませんし。見つかっちゃいけないんですから」
正直、気にならないわけではないが、細かい点で文句を言っている時ではない。乗りかかった船どころか、もう出港しているのだ。
空いたスペースに借りた毛布を敷いてみた。意外にも広く、寝返りが打てるほどだ。起きたばかりだから寝られるかは自信がないが、せめて横になって体力を温存しておこう。
ガルヴェインは自室に戻るのかと思いきや、思いつめた様子でこちらを見ていた。
「え、と……何か?」
「……強行軍になる。しっかり休んでくれ」
彼が何かを言いかけたことはすぐに分かった。それをごまかしたことも。だが、言うべき時ではないと判断したのだろう。彼が止めたのなら気にしないことにした。
「はい」
「では、夜に」
戸を閉めると、暗闇が広がった。足音が遠ざかっていく。
「一寸先は、闇……か……」
まさに私の置かれた状況にふさわしい。自嘲しながら毛布をかぶる。目を閉じると、様々な不安が押し寄せてきた。
元の世界に戻れるのだろうか。
来週から、職場はどうなるだろうか。
両親に心配をかけてしまうだろうか。……孫の世話でそれどころではないかも。
黒の竜の従者とやらに、本当になりすませるのだろうか……
眠れないと思っていたが、想像以上に精神的に疲れていた。浮かぶ不安ごと押し込むように、意識は闇の中に落ちていった。
目を覚ましたら、今までのことはすべて夢で、狭いアパートの一室にいる……
という淡い期待は、乾いたノック音に破かれた。目を開けたはずなのに広がる暗闇、こもった空気に、自分の居場所を否応なしに思い知らされる。
「……やっぱりね……」
寝ぼけ眼でドアを開けると、笑顔でアークが立っていた。
「こちらの世界ですまないね、従者様」
聡い人なので私の心を読むのなんて造作ないのだろうが、改めて言われると腹が立つ。つい恨めしげに睨んでしまった。
「もう諦めています。出発ですか?」
「少し早いが、君が地理に明るくないことを考慮して早めに発つことにした。これに着替えてくれ」
やけに色とりどりの布を手渡される。なるほど、流浪の民の衣装らしい。後ろに蝋燭を持ったハリアが控えていた。蝋燭を渡すだけかと思いきや、物置にハリアもついてきて、着替えを手伝ってくれた。手伝ってもらうような年でも立場でもないので遠慮したかったが、流浪の民の服は、長い布を不規則に巻いたり後ろに紐がついていたりと複雑で、一人ではとても着られなかった。
加えて、髪の色を隠すためにターバンを巻きつけるのだが、これがとても念入りだった。後れ毛一本も残さず布の中に押し込まれ、ほどけないようにきつく締め付けられる。こめかみが悲鳴を上げている。頭痛を覚悟した。
「……マナミ様」
パレオ風に巻きつけた黄色の布を後ろで結びながら、ハリアは小さく口を開いた。
「は、はい、なんでしょう?」
彼女に話しかけられたことも、様付けで呼ばれたことにも驚いて、声が上ずってしまった。
「数々のご無礼、お許しください」
「え、いえいえ、私こそお手数をおかけして……」
「ご無事を、お祈り申し上げております」
布を結び終え、ハリアは私に完璧な一礼を見せた。コバルトブルーの瞳に、見送る側の決意と、私を案じる優しい光が見えた。不意に、ハリアと分かり合えたような気がした。
「ありがとう。次にもし無事に会えたら、色々お話がしたいです」
「わたくしでよろしければ、喜んで」
蝋燭に照らされたほのかな笑みが、作られたものではないと信じたい。
旅の荷物をまとめたという大きなリュックサックを受け取ると、既に玄関にガルヴェインとアークがいた。
当然ながら、ガルヴェインも流浪の民の服らしきものを着ていた。ターバンを緩くかぶり、ゆったりとしたローブとボトムスにカラフルな布を無造作に巻きつけてある。そのくせ眼光だけは変わらず鋭い。どこぞのアラブの王様か、と心の中でツッコミを入れた。
「行くか」
「はい、お願いします」
「困難な道だが、よろしく頼む」
宵闇の中を先に行くガルヴェインの背を夢中で追いかけた。
アークの言う『困難な道』の終着点が、途方もなく遠いものだとは気づきもせずに。




