18 目覚め
兄、姉というのは甘え下手、らしい。
妹とは5つ離れているせいもあって、妹が産まれて以来おおっぴらに親に甘えた記憶がない。妹の前で「おねえさん」を演じたかったし、かいがいしく妹の世話をする私を両親は褒めてくれた。
子供はいつだって親に褒められたい一心で行動するものだ。
親に甘えなくなって数年。鬼の霍乱よろしく高熱でうなされたときが、久しぶりに訪れた母を独占できる時間だった。果物が食べたい、手を繋いで、寝付くまで傍にいて、と我が儘を言う私の髪を、母は優しく撫でてくれた。
優しく私の髪を梳る心地良さに揺られながら目を開けると、心配そうに見つめてくるオリエルがぼんやりと浮かんだ。
「……起きたか?」
頷いただけだが全身が気だるい。周囲は暗く、サイドテーブルに下げられたランタンが微かな明かりを広げていた。どうやら今は夜で、私はベッドに寝ていて、オリエルは枕元に腰かけながら私の頭を撫でていたらしい。
「…………」
彼女の名を呼ぼうとして、喉がカラカラに乾いていることに気付いた。少し手を動かそうとしただけでばきばきと関節が鳴る。何事だ。
「一日は寝ていたからの。急に動かさぬ方がいい」
オリエルはドアの方まで歩いていき、半分開けて外に何事か声を発した。若干距離があってよく聞こえない。すぐにドアを閉めまた近寄ってきて、今度は枕元ではなくベッド脇に置いてあった椅子に腰かけた。
「今水を持ってこさせた。食欲はあるか? スープだけでも飲めるか?」
言われて意識を胃に向けた途端、急激にお腹がすいてきた……ような気がする。頭に靄がかかっていてはっきりしないが、彼女の言う通り丸一日寝ていたのなら何か胃に入れた方がいいだろう。
ややあってドアがノックされ、侍女がお盆を持って現れた。ありがたいことに侍女が持ってきたコップは病人用の吸い口のある水入れで、私は寝ながらにして水を飲むことができた。水分が浸透し、いくらか脳の靄が晴れた。
オリエルは侍女からスープを受け取り、人払いをした。私が二口目の水を飲む頃には、侍女は一礼と共に去っていった。
「……ありがとうございます」
ようやく紡ぎだされた声は掠れていて、自分のものとは思えないほど弱々しかった。
節々が痛む上体をオリエルの肩を借りながら起こしてもらい、野菜をペースト状にしたドロドロのスープを食べさせてもらった。差し出されたスプーンを口に運ぶ、という、いわゆる「あーん」で。母の夢を見たせいか、献身的に世話をしてくれているせいか、どうにもオリエルが母とダブって見えてしまう。
普段なら気恥ずかしいし申し訳ないし、で遠慮しただろうが、その時は本当に無意識だった。
腹が膨れると全身に栄養素が巡り始めたようで、随分とスッキリした。同時に、否応にも血にまみれた惨状を思い出してしまう。
多感な思春期の少女ならともかく、ある程度世間の辛酸も舐めてきたつもりだし、今更人殺しがどうこう、と言うつもりはない。以前は帝国と戦争を繰り返したということだし、つまりそういう時代だということも理解していた。
クローバーの様子も落ち着いて考えれば分からないでもない。影響力のある領主様のご嫡男ともなれば、さぞ危険に満ちた生活を送られていることだろう。心が麻痺してしまっても―――敢えて麻痺させたのかもしれないが―――仕方がない。
「凄惨な場面を見せてしまったようじゃな。すまぬ」
私の表情が曇ったことで、何を思い出したか想像できたのだろう。オリエルは心底申し訳なさそうに私の手を握ってきた。
「いいえ……私こそ昏倒なんかしてしまって、ご迷惑をおかけしました」
「そなたの反応が正常なのじゃ。気にするな」
オリエルはまた優しく私の頭を撫でた。私を案じるように弱々しく微笑まれると、本当に母親のように思えてくる。
「クローバーもかつては危険な目に遭うたびに泣き叫んでおった。いつ頃からじゃろうな……表情を変えぬようになったのは。慣れたにしても心を閉ざしたにしても許されることではないの……そなたの反応が正しいのじゃ」
自戒のように呟く。私は何と言えばいいのか分からず、ただオリエルの手を握ることしか出来なかった。たとえ私が彼女を慰めたとしても、彼女はきっと表面上でだけ受け取って自分で納得できる答えを探す。
私も同じだ。どんなに優しい言葉を与えられても、私自身で乗り越えなくては意味がないのだ。
オリエルはいつからここにいたのだろうか。ランタンから漏れる小さな明かりに浮かぶ彼女の顔は、微かに憔悴の色を浮かべている。ただでさえ忙しい人が、私を心配して枕元に付いているなんて。
人の死を間近で見てショックだったことは確かだが、それでオリエルを心労で倒れさせでもしたら目も当てられない。
「私はもう大丈夫ですから、オリエル様はどうぞお休みになってください」
「ふふ……そなたは優しいの。大丈夫、もう少ししたら休ませてもらう」
その「もう少し」が、このままではだいぶ先になりそうな予感がする。私が寝ればオリエルも自分の寝室へ戻りそうな気もするが、一日寝ていただけあって目が冴えている。寝たふりで騙せそうな人ではなさそうだし、とりあえず会話で時間を消費することにした。
「あの、ジュスさんとガルヴェインに助けてもらったお礼を言いたいのですが……」
もう遅いから明日にでも、という流れを期待して持ちかけてみたが、途端にオリエルは瞳を煌めかせた。
「だ、そうじゃが……どうする?」
空に向かって声を投げかけた。独り言にしては声量があるし、呼びかけるような言葉に首をかしげていたら、カーテンから黒い影が音もなく現れた。思わず後ずさってしまったが、影がランタンの光が届く距離まで近づくと、それがジュスだと分かった。いるならいると最初から言ってくれ! 私の心の叫びが顔に出たのか、能面のような無表情が今日はどこか物寂しげに見える。
「これもそなたの身を案じていての。わらわに同行させていた」
何も物陰に隠れさせなくてもいいのに! 顔をしかめた私を横目に、オリエルは喉を鳴らしながら目を細めた。先ほどのしおらしく暖かな母の顔はどこへ消えたんだ。
「あの、ジュスさん」
意を決して、距離を取ったまま俯いているジュスに声をかけたら、叱られる子供のようにびくり、と肩を揺らした。そこまで怯えなくても……。逆にこちらが罪悪感を抱えてしまいそうだ。
「きちんとお礼も言わずごめんなさい。助けてくれてありがとうございます」
「……礼など、不要にございます」
か細い声だ。視線は床に伏せたまま、こちらを見ようともしない。
「私の配慮が足らず、従者様に不快な思いをさせてしまいました。到底許されるとは思っておりません」
「でも、あのときあなたがいてくれなかったら私たちは無事では済まなかったと思います。ジュスさんは命の恩人ですよ」
もし彼が犬だったら、その言葉で耳をぴんと立てて、ゆらゆらと大きく尻尾を振ったことだろう。それほどまでに彼の表情が一転して明るいものになった。
「……慈悲深きお言葉……身に余る光栄にございます」
丁寧な深い一礼の後、また俯いてしまった。暗がりではっきりしないが、頬が緩められている気がした。人形だなんてとんでもない。表情の動きが分かりづらいだけで、彼だって喜びを感じるのだ。
気がついたら朝の陽光が部屋に広がっていた。
あの後、オリエルたちは意外にも早々に退室した。もしかしたらジュスを謝らせたくて待機させていたのかもしれない。私が持ちかけた時のオリエルの嬉しそうな目の輝きを思い出した。
私も空腹が回復してまた睡魔が出てきたのか、知らず眠っていたらしい。
大きく伸びをすると間接がばきばきと鳴ったが、昨夜のような重苦しさはなかった。身体が重いと感じたのは、精神的な疲れだったのかもしれない。
私が起きたことに気付いたのか、侍女が入室してきた。晴れやかな気分の私を見て、侍女は安堵のため息をついた。昏倒して運び込まれたときは、それは血の気の失せた顔で、一瞬死んだのかと思ったらしい。医師に心労と診られた後は、侍女を退け、オリエルが不休の看病を買って出てくれたそうだ。改めて彼女にお礼を申し上げなければ。
朝食を頂いた後、侍女に頼んでガルヴェインを呼んでもらった。人を使って何かをするというのは気が引けるが、あの生真面目な騎士様は、私が直接会いに行くとどうせまた「婦女子が男の部屋に来るとは云々」と文句を言いそうなので避けた。
手持無沙汰で部屋をウロウロしてたらガルヴェインがやってきた。不機嫌そうに眉をひそめるその顔は久しぶりだ。だから何故アンタが怒ってるんだよ。
ガ、と言いかけた私を遮って、
「すまない」
突然謝られた。頭こそ下げなかったものの、雰囲気だけなら平身低頭の勢いだ。身体中に悔恨が渦巻いている。
そこでピンときた。彼の不機嫌の理由は、私へではなく自分への怒りからなのではないか、と。都合のいい解釈だが、今にも土下座しそうなガルヴェインを見ていると、あながち外れではない気がする。
「私こそ迷惑かけてごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「君が謝る必要も礼を言う必要もない」
まあ、そう返されるだろうな、とは思っていた。私の謝礼に眉ひとつ動かさず苦虫を噛み潰したままのガルヴェインは自嘲気味に続けた。
「軽蔑してくれて構わない。人殺しには変わりない」
「しませんよ。あっちこそ殺す気で襲ってきたんだもの。ジュスとガルヴェインがいなかったら、私たちは死ぬよりひどい目に遭っていたと思う」
詭弁だろうが彼らを責めるつもりはない。ここは現代の日本ではない、別次元の別の国なのだ。ここではここの常識があり、それを私が文句言うことなど出来ない。
「不快にさせて恐縮だが、今後同じようなことが起こったとしても、私は容赦なく相手を斬るぞ。命乞いをしたその直後に背後から襲いかかってきた奴もいる。一寸の同情もしない」
「そうやって守ってくれるんでしょう?」
薄い微笑みを投げかける。努めて明るく振る舞おうとした私の気を察してくれたのか、ようやく彼も険しい表情を緩めた。
「……守るとも」
さしあたっての私の目標は、凄惨な血の海の場面を忘れることと、不謹慎にもガルヴェインの笑みにいちいち跳ねる鼓動を押さえつけることだ。