イリセ・アイゼルト
掃討波が消し飛んだ。
内側から捩れて、何かの覆いが引き剥がされるようにして捻れて消えたのだ。空中高くに銀の残滓が飛び散り、それを追うようにして白い光の欠片がきららかに宙を舞った。砂埃が柔らかく上がる。機巧兵は相変わらずそこにある。
感覚が麻痺するほどの驚きがアレンの脳裏を真っ白に灼いた。他も同じだ、硬直している。
そんなアレンが絶句という反応を示すよりも、他が驚きという感情を覚えるよりも早く。
レフが唇を覆って膝から崩れ落ちた。華やかな青い目が極限まで見開かれ、息の調子が速い。手が震えているが、それは恐怖からでも寒さのせいでもなく。
掃討波を消し飛ばした力が巻き起こした砂埃が収まり始めた。その中を、機巧兵に囲まれていた人物が動くのが見えた。一瞬の硬直の後、一歩を踏み出す素振り。次の瞬間その姿は掻き消え、アレンたちの目と鼻の先にその人物は転移した。
単独での転移――尋常でない魔力の証。
だからだろうか。自分に匹敵する魔力の持ち主だから振り切らせたのだろうか。それにしてはレフの様子はおかしい――。
アレンたちの混乱を他所に、その人物はレフだけを見ていた。
二十歳そこそこの、若い女性だった。漆黒と濃灰色が見事に織り合わされた古風な衣装を身に纏い、肩からは青い天鵞絨の袋のような鞄を下げている。肌は抜けるように白い。そしてその肌と対象を成す、豊かに艶めく漆黒の髪。腰の下にまで滑るように流れて靡く。そして長い睫に囲われて、濡れたように輝くのは、今は驚愕に見開かれた、漆黒の星のような不思議な目。どこまでも深く黒い色でありながら、突き抜けるように澄んで明るい。そして驚きと喜びに半ば開いた唇は、レフのそれよりもほんの僅かに色が濃い。
レフに比肩する美しさを、アレンは初めて見た。
彼女は息を止めてレフを見ていたが、やがて、大きな声を上げたら相手が死んでしまうと案じるかのように、壊れ物を扱うように大切そうに、そっと、優しく、何にも勝る楽の音の声で呼んだ。
「――レフェアイゼ?」
レフが両手をぱたりと下ろした。見る間に彼女の大きな目に透明な涙が浮かんだ。銀の睫に宿った雫が頬に落ち、玉のように滑って零れた。
レフが初めて泣いている。
彼女は座り込んで、漆黒の髪の少女を見上げた。唇が震えてなかなか声が出ない。それでも、何度も息を呑み込んで、やっと嗚咽交じりに彼女を呼んだ。
「――イリセのお姉さま」
アレンが驚愕の目でレフを見下ろした。レフは気付かない。彼女を――二千と五百の年を経てなお、変わることのない姿の、イリセ・アイゼルトだけを見ていた。
イリセ・アイゼルトは微笑んだ。泣くのを堪えているような、そんな笑顔だった。
「レフェアイゼ――よくわたくしを憶えていてくれたこと」
レフが次から次へと涙を零し、しゃくりあげ頬を手の甲で拭いながら返した。
「忘れるはずがないでしょう? わたしの――お姉さま。ユヴィリアイゼさま」
ユヴィリアイゼ=イリセ・アイゼルトは、そっと一歩、レフに近付いた。それと同時に、俯いたレフが涙を拭いつつ、絞り出すようにして言っていた。
「お姉さま、なぜ――」
ユヴィリアイゼは首を傾げる。その仕草はレフにとても似通っていた。
「なに?」
「なぜ戻って来てくれなかったのですか!」
レフが叫んだ。顔を上げたその目に、間違いなく激情が閃いていた。
「お姉さまが出て行ってから千五百年で、わたしは独りぼっちになりました。寂しかった――怖かったし悲しかった。なのになぜ! 戻って来てくれなかったのですか!」
ユヴィリアイゼは顔を歪め、それでいてレフと違って美しさは損なわれることなく、痛ましげに彼女の妹の声を聞いていた。
「ずっと待っていたのに! 外には自由も楽しみもあるってオーヴェルのお蔭で知ったのに! それでもあそこに帰りました! ずっと守ってきました! なぜお姉さまは帰って来てくださらなかったのですか! 外を見ればみんな誰かといました。誰かに名前を呼ばれたり――誰かに見られたり――少なくとも世界全体に忘れられているのではないかなんて心配する必要はなくて――不幸を嘆く機会すらないわたしのことなんて知りもしないで嘆いたり、何もない毎日を送るしかないわたしのことなんて思い出しもしないで笑ったり、――全部わたしの欲しいものでした!」
レフェアイゼ=リノ・アイゼルトは絞り出すように絶叫した。
「どうしてわたしには手を伸ばすことさえ許されなかったんですか!」
ユヴィリアイゼは手を伸ばした。招くのではなく赦しを乞うように。
「ごめんね」
震える声でそう言った。
「わたくしが約束したことのためなの……」
背後で機巧兵たちが、金属が軋るような音を立ててこちらを向いた。それはまるで獲物に逃げられたかのよう。撃孔が一斉に開いてこちらを狙った。
振り返りすらせず、ユヴィリアイゼはただ一言を苛立たしげに言った。
「邪魔」
瞬間、機巧兵たちが潰れた。
文字通り、上から強く押さえ付けられたかのようにぐしゃりとひしゃげて地面に張り付いたのだ。
いや、それだけではない。
機巧兵たちを中心として円形に、地面が深く抉れたようになっている。地面ごと何かで押さえ込まれたかのようだ。ふわりと優雅に、黒い光の霞が漂う。
中央の守護者固有の力、重力鎚。
アレンたちの感情にはまるで気付かずに、レフがふらつきながら立ち上がり、そのままよろめくように姉に向かって踏み出した。ユヴィリアイゼはそれを受け止めて、思い切り抱き締めた。
「ごめんね、レフェアイゼ――寂しかったでしょうし辛かったでしょう。でも会えて嬉しい」
レフは泣き止もうと必死なようだった。
「ごめん、なさい。お姉さま。わたし――ずっと独りでいるうちに、笑えなくなってしまいました。でも――お姉さまに会えて本当に嬉しいの。何度も恨んだことは本当。憎く思ったことすらあります。でもこうして顔を見たら、嬉しさの方が勝りますね」
語尾には涙が滲んだ。そうしてしばらく、彼女がずっと欲しかった温もりの中にいてから、レフは一歩退いて漆黒の瞳を覗き込んだ。
「お姉さま。他の――お姉さまは? みんな出て行ってしまったの。今お姉さまが使ったのはレナのお姉さまの力ですよね? レナのお姉さまは……、でも、ですけど、お姉さまが何とかしてくれていますよね? 大丈夫ですよね? みんな元気ですよね?」
ユヴィリアイゼは沈黙した。
頼む、嘘だけは吐かないでくれとアレンは祈った。この質問の答えでレフを欺くことは惨すぎる。
レフの脚が震え始めた。言葉を重ねることも出来ないでいる。細い繊細なレフの指がユヴィリアイゼの肩をぎゅっと掴む。ユヴィリアイゼはその銀色の髪を撫でた。
「ケステアイゼの【剣戟域】も――シェリアイゼの【嵐壁】も――セレアイゼの【矢雨息】も――みんな、わたくしの中に戻っているの」
その意味が分かって、今度こそレフが号泣した。
(アイゼルトの死後は、その固有の力は長姉に還ります)
レフの言葉を思い出して、アレンも知った。レフの最後の希望が打ち砕かれたのだ。
レフはひどく泣いていた。これまでの一切の悲しさも寂しさも、洗い流してしまおうとするような泣き方だった。縋り付かれたユヴィリアイゼはその背中を撫でて宥め、理屈ではなく直感として、この人もまた長い間、こんなことがしたかったのだろうなと、アレンは思った。
「じゃあもう、いないんですね――」
レフが嗚咽しながら言った。ユヴィリアイゼは刺されたようにびくりとした。
「……ごめんね」
レフは啜り泣いた。
「でも、アイゼルトはわたしだけじゃないんですね――」
「うん、わたくしがいる」
ユヴィリアイゼは言って、レフの泣き方が大人しいものになったのを見計らって、穏やかに声を掛けた。
「ゆっくり、落ち着いて。大丈夫よ」
レフはこくこくと頷いて、涙を拭った。ユヴィリアイゼはそれを見て、少しレフを離す。
「――レフェアイゼ。ところであなたは――どうしてここにいるの? 大丈夫なの? 苦痛――いえ、ひどいことはされていないの?」
レフは首を傾げた。その仕草はユヴィリアイゼにそっくりだった。
「アゼイラの勅使が来たのです。わたしは北方の守護者ですし――」
「勅使?」
ユヴィリアイゼは訊き返し、漆黒の髪を手で梳くように押さえた。
「なんてまあ――余計なことを」
レフが少し向きになったように言い返した。
「余計なことではありません」
「いいえ」
ユヴィリアイゼは大変きっぱりと申し渡し、レフをしっかりと見詰めた。
「いい、よく聴いて。あなたはすぐに〈記録〉に戻りなさい。今回の機巧兵のことは、あなたが口や手を出していいことではないのよ。アイゼルトの称号が邪魔をするなら一時剥奪も考えるわ」
どこか遠くで、水滴が水面を穿つような澄んだ高い音が数回した。ユヴィリアイゼはそちらを見て、焦った顔をする。
「ああ、どうしましょう。連れて行くわけにもいかないし……。レフェアイゼ、分かった? 帰るのよ、いいわね?」
レフは訳が分からないという顔をした。
「あの――?」
ユヴィリアイゼは再び同じ音を聞いて、ますます焦った顔を――そしてレフと離れるのが手足をもぎ取られるように辛いのだという顔をした。しかし何か、非常に重要な、大切なことが彼女を駆り立てているようだった。
「お願い、分かったわね? わたくしも多分近いうちに戻れるわ。もうすぐ大掃除が始まるのよ」
「お姉さま――?」
レフの声にユヴィリアイゼは辛そうな顔をして、それでも一歩後ずさった。転移の術式を展開する。
「――お姉さま!」
レフが呼び止めようとしたが、ユヴィリアイゼは一切の苦痛を押さえて微笑んで、もう一度念を押した。――帰るのよ? と。
ユヴィリアイゼの姿が掻き消えた。レフは呆然として、そこに残された。




