25 今日から別の色が見える
そんな事があってから、私の生活に少し変化があった。
まずは、いつもの勉強の時間。
「質疑応答……?」
「然様にございます。そう堅苦しいものでもございませんが」
向かいに腰掛けたウィルズ先生が、開いた本を前に言う。何でも“泉の乙女”の記録を残しておきたいので、今後週に一度程度、取材をさせて欲しいということだった。
「勿論構いませんけど私、大したこと知らないですよ。それでも大丈夫そうですか?」
「ええ。水儀に関してのみお聞きするという事ではございません。ミウ様のお人柄や、こちらにお住まいになられてどうお感じになられているか等、ぜひ記録に残させて頂きたいのです。いずれの日にか、ご敬称を決めさせて頂く際に参照させて頂きます故」
「はぁ、そうですか……」
話によれば、その内私にも“ナントカの乙女”と二つ名が付くらしい。私がここを去った後の話になるみたいだけど。
「それは、先生にお話しすれば良いんですか?」
「いいえ、それは……もうそろそろ、その者がこちらに参るはずです。ミウ様に、直接お願い申し上げたいとの事でしたので」
どうやら記録担当者は別の人のようだ。どうせなら先生が良かったけれど、忙しいのかもしれない。ただでさえ毎日何時間も拘束してるしね、それなりに偉い人っぽいのに。
とその時、部屋の扉がノックされた。リコが外から声を掛ける。
「おお、噂をすれば、ですかな?」
「そうみたいですね」
どうぞと返事をすると、よく磨かれたドアがカチャリと開けられた。
「失礼します」
部屋に心地よく響く、涼やかな美声。
「……クライン?」
驚く私に、香り立つような微笑が向けられる。
扉から現れたのは、クラインだった。今日も美しく身なりを整えた彼は、椅子を勧めると頷いて斜向かいに腰掛ける。
「突然訪ねてすまない」
「いえ、でも今日は何で……あ」
尋ねる自分の声で気付いた。もしかして、今の話って。
「お察しの通りでございます。学会と致しましては、記録官はこのお方にと考えておるのですが、いかがですかな?」
先生は、大らかな笑顔で私に伺いを立てる。ポカンとしていると、クラインからも改めてこの件の申し入れを言い渡される。
「ミウが嫌でなければ、承認して欲しい」
「それは勿論、いいですけど……」
「おお、では無事に決まりですな」
私は、良かった良かったと頷くウィルズ先生と、微かに笑みを浮かべているクラインを交互に見比べた。
あの日以来、クラインと顔を合わせるのは初めてだった。またぼちぼち話でも出来たらいいなと思っていたが、こんなにすぐに機会が回ってくるとは。
「そもそもは私のこの講師のお役目も、当初はクライン様にお任せするというお話だったのですよ。しかしこのお方、人にものを教える立場では無いとご謙遜されましてな」
ウィルズ先生は、眼尻を下げ何やら嬉しそうにあれこれと話す。彼はもしや、クラインの先生でもあるのだろうか。その様子はまるで愛弟子を前にしたお師匠様、もとい孫を前にしたお祖父ちゃんみたいだ。
「クライン様、早速、ご予定を組ませて頂くと宜しいでしょう。ミウ様、本日のご勉学はこれまでと致しますかな?」
「あ、そうですね……」
「では、年寄りはこれにて失礼する事と致します。ミウ様、何か質問などがおありでしたら、クライン様にお尋ねになると良いでしょう。私は本日はもう、学会の方へ戻りますよ。ではまた明日」
先生は道具をまとめると、よっこらしょと席を立ち機嫌よく部屋を出て行った。ドアが閉まると、部屋の中はしーんとする。
「質問官って、クラインだったんですね」
私から声をかけると、クラインは少しだけ親しげな顔つきになった。
「事前に知らせず驚かせた。此度の件、引き受けてくれて感謝する」
「いえ。私の方も、クラインが相手なら良かったです。先生じゃないって聞いて、全然知らない人が来ると思ってたので。……あのー、この前は、色々すみませんでした。しゃしゃり出て……」
「いや、こちらこそ迷惑を掛けた」
ぽつぽつ言葉を交わし、何となくお互いの空気を確かめ合う。なんせ前回会ったのが謎の修羅場だったもので。
「記録の前に、あの日の事について今、少し尋ねても良いだろうか」
「はい」
「ミウは、全てを知ったのか?」
「ええと……」
クラインは、私が「引いた」という秘密について詳しく聞きたいようだ。そりゃ気になるよね、当事者だし。もし関係ない話だったとしても、私なら純粋に不思議現象として興味ある。
で、どう説明したものか。
「ブロットさんの目を通して見た感じなので、どれが全部かは分からないんですが。多分彼が知っている事で、アルス王子の質問に関係する内容を見たんだと思います」
クラインとブロット氏が初めて会ったシーンなどを軽く話すと、クラインはそうか、と静かに頷いた。もっとあれこれ聞かれるかと思ったけれど、それ以上掘り起こすことはせず、ただ物憂げな表情で思慮に沈む。
うーん。知られたくないことだったに違いない。
「あの……勝手に首を突っ込んでしまってすみません」
「いや」
クラインは否定した。
「そのようには思っていない。ただ――少し、戸惑っている。事情を知られていることに慣れない。今まで、ミウのような立場の者が居なかったから、正しい振る舞いが分からない」
「……振る舞いとか。適当で大丈夫ですよ、私本来庶民ですし」
あんまり堅苦しく筋を通されるよりは、普通に気安くしていてほしい。クラインは、こちらで貴重な話の合う相手なのだ。
「私からも、一つ質問してもいいですか」
幻の内容とは別に、私には気になっていた事があった。
それはクラインがあの日言った言葉――「生きていたくない」という一言だ。
「今も、そう思ってるんですか?」
「…………」
どう尋ねても不躾だけど、どうしても聞いておかなければいけない気がした。
クラインは逡巡するように視線を彷徨わせた後、その様々な色が入り交じる瞳をひたりと私にとめた。ほんの少しだけ、迷う心が見える。
「過去に、死んでしまいたいと思ったことはあった」
クラインは、ぽつりとそう言った。
……そっか。
「だが今は勿論、積極的に死にたいとは思っていない。アルスの事も含め、かつて兄上が止めてくださった。自分一人に国を押し付けて置いていくのかと」
「なるほど……」
さすが王様、効果的な止め方するな。こっそり感心すると恐らくクラインも同じ事を思ったのだろう、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
しかし、続いた言葉に心臓を抉られた。
「急がずとも、元よりそう長くはない。これまでも、目を患った者が最も多い。前例を見るに限り、後10年も長らえられれば良い方だ」
「…………」
私は思わずその左目を見た。痣があるはずの瞼は、前髪に隠れて陰になっている。
短命の“呪い”。
あと10年、たったの10年だ。私と同い年の彼は、人生をその尺で見ながら今を生きている。一体、どんな言葉がかけられるだろう。
消沈する私を、クラインの方が気遣わしそうに見る。
「すまない。そういう顔をさせると、分かっていて話した」
「いえ……、あの……」
何か言いたいけど、なんと言えばいいのかわからない。
「ミウ」
呼びかけと共に、その口元がふわりとほころぶ。私は思わず目を瞠った。
うわあ、綺麗――。
それは、淡くも華やかで上品で、なんとも言えない美しい微笑だった。例えるならお祝いの時に飲むシャンパンの、きめ細やかな泡みたいな。
見とれていると、薄い唇がきゅっと笑みを深めた。
「……私はやはり、あまり良い性質では無いようだ」
「え?」
「ミウが悲しむのを、嬉しく思う」
「えっ。どういう……」
……あ。つまり、心配してくれて嬉しいということ?
「そんなのは別に、悪いことじゃないです。普通だと思いますよ」
そんなことを気にするとは。この人やっぱ、自分に厳しすぎるんだな。立場以上に、性分なんだろう。
「クラインが話したいと思った事なら、何でも話してください。こんなんですから、気の利いた事は言えないんですけど……聞くくらいは出来ますから」
「本当に?」
「はい」
本心だと分かってもらえるよう、私は顔を上げて答えた。その不思議な力を知られた後も、クラインは臆することなく目の中を覗き込んでくる。
瞳に何を読み取ったのか、クラインはもう一度微笑み、「では丁度良かった」と言った。丁度良かったって?
「記録官をするからですか?」
「……君があのような事を言うから、欲が出てしまった。私は、今後もミウと話す機会が欲しかった。出来れば、二人だけで」
「え?」
「自分の幸福も考えなければ、友人をやめると。だから、この今回のこの役目を譲ってもらった」
なんでも一度は辞退していて、他の候補に決まる予定だったらしい。
……ん? それが何で……。
「呆れるだろう。会わないと言ったり、会いたいと言ったり。――あれから色々と考えた。そして、ミウにも少し責任を取ってもらう事にした」
「は、はぁ」
秘密を打ち明けるような囁きに、なんだかどぎまぎする。こちらを見る目には相変わらず、非常に悩ましく魅惑的な光が宿る。王様といいこの人といい、なまじ見た目が美しすぎるので、私なんぞ雰囲気一つで右往左往だ。
視線を逸らせずにいると、クラインは僅かに首を傾げ目を細めた。
「私の話ばかりが過ぎてしまった。ミウの話を聞かせて欲しい」
何事もなかったかのように、持参した書類を取り出す。
私は、パチパチ瞬きしながら思った。水読の言葉じゃないが、確かにクラインは前より笑うようになった気がする。前は精々「笑ってるかも」という程度だったのに。……でもその些細な変化はきっと、彼にとって良いものだ。そこへ私が協力できたと言うならまぁ、やぶさかじゃない。綺麗過ぎて、ちょっと刺激が強過ぎるきらいはあるけれど。
しかし、それ以上の考えは、この先の予定を組む声に答える間に、どこかへ流れていったのだった。
さて、いま一人。
数日後の夜、私は塔の一番上、水読の住居のある階から更に上へ続く階段に腰掛けていた。
人を待っているのだ。
今夜月が昇った頃、ここへ来るよう呼び出している。
暗い廊下、段に置いたランプの届く範囲だけがじわりと明るい。
石壁の塔は最近、夜になると一層冷え込んだ。私はガーゼを重ねた肩掛けにくるまり、ひんやりした空気を吸い込む。付き合わされたジルフィーが、長い影を伸ばしじっと傍に立っている。座ればいいのにと声を掛けたが、予想通り断られ済みだ。ほんと、真面目なんだから。
……などと思っているうちに、遠くから階段を上る足音が聞こえてきた。
来たかな。
私は立ち上がり、迎える準備をする。
そして、待ち人が現れた。
「こんばんは」
「……ああ」
廊下を周り、暗がりのカーブから現れたのはアルス王子だ。今日もランタン無しでここまで上ってきたらしく、手には何も持っていない。
「あれ、ブロットさんは?」
「来ない。お前に宜しくだと」
「はぁ、そうですか」
何で来ないんだ、あのおっさん。気まずいのか。
アルス王子とブロット氏、両方を呼び出す事にしたのは、先日の一件のアフターフォローのつもりだった。勿論、関係改善は私自身の為でもある。口出しするのはこれで最後、そう決めつつ軽く様子を見て、ギクシャクしてたらもう一度だけ間に入ろうかなーとかね。予想に反して揃わなかったけどね。でもまあアルス王子に伝言してるって事は、ちゃんと仲直り出来てるのかもしれない。
「じゃ、行きますか」
私は階段に足を掛けた。ランプはジルフィーに任せ、そのまま石段に置いていく。ちなみに彼は付いてこない。一緒だと恐らくアルス王子が無駄に意地を張るので、外で待っていて欲しいとお願いしてあるのだ。無表情の中に渋る様子が伺えたが、3回くらい頼み込んだら許してくれた。
というわけで短い階段を上りきり、扉を開ける。以前はよく通ったこの小部屋だが、足を踏み入れるのは久しぶりだ。
暗い部屋の中はこの夜、薄い霧が漂っているかのように、どことなく白く光っていた。
今は闇色にしか見えないロイヤルブルーの床を踏み、部屋の真ん中まで歩く。中央に置かれていた寝台は片付けられ、ただの広間になっていた。勿論、毎日寝ずの番をしていた神官ももう居ない。
満月の、次の次の夜。
ゴツゴツとした水晶の壁の向こうには、ぼんやりした明かりが見える。遠い山脈の上、少し欠けた月が黒い雲に沈んでいるのだ。
「扉、閉めてもらえますか」
「…………」
背後でドアを閉める音がする。私は、それきり何も言わず待っていた。アルス王子もだ。
――そして、その時が訪れた。
叢雲から月が顔を出し、暗闇に光が差し込む。
薄めたミルクを流し込んだみたいに、部屋は白っぽい優しい光に包まれた。そして、一面に淡い虹色の輝きが浮かび上がる。
「うわぁ……!」
私は思わず声を上げた。
水色、桃色、薄紫、すみれ色。
夕映えの赤い雲、透き通るサファイヤの群青、待宵草の黄色、妖精の羽のようなパウダーグリーン……。
様々な色彩の印象が、一瞬の内に頭の中を駆け巡る。薄雲が掛かれば弱く、晴れればより鮮やかに。それらはオパールの遊色のようにキラキラと入れ替わり入り乱れ、自由に重なっては部屋中を飛び交っていた。
こちらの水晶はその形状に拘わらず、光を散らす性質がある。
そして関連したもう一つの特徴として、反射光に当てるとパステルカラーの虹が出る。ただし、熱加工していない物に限る。炉で溶かすと自由に形成できる代わりに、普通のガラスになってしまうという。
メルキュリア最大の反射照明が差し込む水晶造りのこの部屋で、私は移り変わる夜の虹に浸り、目も心も奪われていた。話を聞いた時から、ずっとこれを見てみたいと思っていた。本当は満月の夜がいいと思ったんだけど、雨が続いていたため今日になってしまった。
「……ここへ入ったのは初めてだ」
ぼんやりしていて、後ろでぽつりと呟かれハッとする。夢中で、呼び出しておいてすっかり忘れていた。
振り返ると、アルス王子は先程から変わらず扉の前に佇んでいた。そっぽを向いたまま、こちらを見てはいない。……そういえば、この人が今一番微妙な関係だったんだっけ。そりゃそうだ、直近のやり取りは喧嘩別れに等しい。
でも、今更構える気にもならない。虹色の光の美しさに、気まずさもこの前の一件もなんか吹き飛んだ。ブロット氏が来ないと聞いて少し後悔したが、この場所を指定していて良かった。こんなに綺麗な空間なら、私としては間が持たないという事はない。
少々楽観的になりながら、ドアの方へ向き直る。
「アルス王子の目って、ただ見れば嘘かどうか分かるんですか?」
これ、気になっていた。相手が喋ってる時に見ると分かるのかな。それとも、何もしなくても?
「……いや。目を見て質問するのが条件だ」
アルス王子が答える。そういう彼は私の目を見ないので聞いてみた。
感情を抑えたような声は、いつもより少しだけ低かった。相手は緊張しているらしい。
そうなんですか、と返事をして、私は虹色の影を落とす水晶たちの輪郭を目でなぞる。シャボン玉のように漂う淡い輝きの中、気付かない位のゆっくりさで、月の角度が変わってきている。
「俺も聞きたい」
ボーっと見ていると、向こうからも質問があった。
「はい、何ですか?」
「……今日、何で呼んだんだ」
「え、いや……その後どうかなと思いまして」
「…………」
戸惑いがありありと伝わってくる。気まずさを紛らわすみたいに、アルス王子は私と反対側の壁に向かって数歩進み、立ち止まった。
「お前は、腹が立たないのか」
「……別に、私は直接どうこうじゃないですから」
口からは、無意識に柔らかい声が出た。
正直、未だに腹が立っているという事はない。事情に同情したのもあるし、呼び出しに応じてくれた時点でちょっと許してしまったし、大体そんな顔色を窺うような空気で聞かれたら怒れるものじゃない。
というか、私についてはいいんだよ。この人とブロット氏やクラインとの関係がマシになってくれれば満足で、夢見も良くなるってものだ。
私がそう言う間、アルス王子は氷砂糖で出来ているような壁を見詰めていた。決してこちらを見ないのは、やはり彼なりの気遣いだろう。そういえばアルス王子は前から、目が合うと逸らす素振りを見せていたっけか。
後ろ姿を見ていると、ふわふわの後頭部がポツリと言う。
「全部、あいつの為か?」
「はい?」
「お前、あいつが好きなのか?」
この子が”あいつ”って言ったら、十中八九クラインの事だ。
「何で……? いや、そういうアレじゃないんで」
私はすぐ誤解を解く。うん。これもちょいちょい聞かれる質問だな。何で皆、何かといえば恋愛絡みだと思うんだろう……クラインの見た目のせいか。何なら、私の目を見て聞いてくれてもいいぞ。
「じゃあ、水読は」
「え!? あの人は論外……」
……うーん。
言いかけてから、ちょっと言い淀む。いや、論外は論外なんだけどね。
水読に関しては実は、泣き顔を晒してしまった日からちょっと対応に困っているのだった。何か言われれば今まで通りばっさりやってしまうが、ほんの少し申し訳無いと思わなくもない。微妙だ。
「水読さんはなんて言うか、んー……同僚みたいなもんです。どのみちそういうの無いんで、あんまり邪推しないでください」
職場にあんなの居たら、ソッコーで胃に穴開きそうだけどな。
「何でそんな事聞くんですか。そういう風に見えました?」
「や、別に……そうなのかと思っただけ」
見えたのね。
話題はそこまでで、しばらく沈黙が落ちる。
アルス王子はまだ何か言いたそうな雰囲気だったが、待ってみても一向に何も言わないので、私も黙って飛び交う虹を眺めた。複雑な光の模様は、色とりどりのステンドグラスを思わせる。沢山重なった所は白く、そうでない所は淡く色づき床を染めている。
ふと、溜息が聞こえた。
「……もう戻る」
「あ、そうですね」
そうだ、そろそろ戻らなければ。外にジルフィーを待たせているんだった。
幻想的なプリズム空間をもう一度だけ振り返り、名残惜しいけど出口に向かう。アルス王子は扉を開け、私が来るまで待っていてくれた。
廊下に出ると、闇に沈む階下からランプの橙色が覗いている。
「ミウ」
ごめん、と、ありがとう。
ドアが閉まる音に紛れて、背中に小さな呟きが聞こえた気がした。




