7 光と激流
悶々としている間に、隣からノックと話し声が聞こえた。人員が到着したようだ。私は手紙を引き出しにしまって部屋を出た。
護衛だという人たちは、いかにも屈強そうな大柄の男性二人だった。この人達に挟まれて歩きまわるのは随分物々しいが、この際仕方ない。
私はリコとサニアに見送られて、数日ぶりに塔へ向かった。
◇
壁という壁がゴツゴツした水晶を張り巡らされた窓でできているこの小部屋は、直射日光を遮るための幕が引かれ、昼間は昼間で薄暗い。開閉可能な窓が全て開けられているせいか、風が入って意外と涼しかった。
護衛の人たちを置いて、私は中央の寝台へ歩み寄った。一緒に入ってこない所を見るに、彼らは塔兵では無いらしい。
寝台の横には敷物やクッションが沢山置かれていた。私がここへ来るようになってから、塔の方で気を使って用意してくれたのだ。その中へ分け入る様にして、いつものように跪く。
眠る水読の頬は、相変わらず白く血の気がない。何となくだが、実際にこうして見る顔は、夢で見たときより男性的に見えた。あの空間は水中だからか、それとも夢だからか、すべての輪郭がもっと甘く曖昧な印象だったのだ。
思い出しついでに、あの額の模様も探してみる。しかし、よくよく覗き込んで眺めてみても、逆涙型のあの印はどこにも見当たらない。夢と現実の違いに少し不安になる。
どうか、私の妄想じゃありませんように。深呼吸し、祈るような思いで骨ばった白い手を取った。その瞬間。
「あっ」
――水。
手から凄まじい激流のような感覚が這い上がってきた。驚愕して自分の手を見るが、見た目には何も変化がない。しかし確かに、腕を伝って渦巻く何かが内側へ入り込んでくる。それはあっという間に腕から体へ、そして足へと、うねりを上げて注ぎ込まれ、咄嗟に手を離そうとしても高圧水流のような力に抑え込まれ、とても指が動かない。
みるみるうちに手足が冷たく、ずっしりと重くなっていった。体の自由が奪われていく。内側から、荒々しい水に飲み込まれていくかのような感覚に恐怖する。
体から感覚が遠のいていく。
溺れる。
水も無いのに、体の中から溺れるって何?
一秒後にそれは頭まで到達し、私は一人、暗くて途方もなく深い場所へ落ちていった。
◇ ◇ ◇
「――……さん、美雨さん」
あれ……。
「水読、さん……?」
目を開けた私の前には、心配そうな表情をした水読の顔があった。現実ではない。今朝も来たあの水の中で、私は水読の腕にふわりと抱えられていた。
「あれ……私、塔に居たんですけど、眠って……?」
「いえ、塔に居らっしゃいますよ。すみません、ちょっと美雨さんにはまだ負担が大きすぎたみたいです」
「負担?」
「私の手に触れてくださいましたよね。お陰で美雨さんと私の力が直接繋がったのですが、こちらの力の方が強かったみたいで」
「はあ……」
よく分かっていないまま頷く。少し頭がぼーっとする。
水読は、よいしょ、と私を自分の腕に座らせるように抱え直した。彼が長身であることと、殆ど重さが無いから出来ることだが、今朝からまるで小さい子供の扱いだ。
「私、ここへ来てしまうはずじゃなかったんですね」
「はい。少々誤算でした」
水読はゆっくりと頷く。何やら予想と違った結果らしい。
失敗、なのかな。
「私じゃ、水読さんを起こせないんですか……?」
「いいえ、そんなことは無いはずですが……少し大変かもしれません。もう少し日をおいて、体を慣らしますか?」
尋ねられてはっとする。気遣いはありがたいけど水読には、出来れば一刻も早く起きてもらいたい。
「いえ、もう一度やってみたいです。でも、手を握ったらまたここへ来てしまうんでしょうか」
先ほどの塔での記憶を思い起こす。水に飲まれるようなあの感覚は、水読の力なんだろうか。この人を起こすはずが、逆に私の方が引っ張りこまれたということかな。
「そうですね。手に触れた時、体が重くなって、下へ落ちるような感じがしませんでしたか?」
「しました……」
「そうですよね。美雨さんが、それに耐えられるかどうかが要です。飲み込まれる感覚に抵抗してください。意識さえ保ってくだされば、時間は掛かりますが美雨さんの体が私を引き上げてくれますから。もし余裕があったら、私の中身を、逆に美雨さん側に引っ張ってください」
私はコクリと頷いた。
感覚的な事は分からないが、実際やってみるのが早いだろう。先ほどここへ落ちる前の感じを思い出して、少しイメージトレーニングしてみる。
「ちなみに耐え切れずに飲み込まれてしまうと、体の方は気を失います。ですがもしそうなっても、こうしてここへ来てしまうだけですから、怖がらなくて大丈夫ですよ」
水読の励ましで、激流への恐怖がかなり減った。意識が飛んでも、ここでこの人が待っていてくれる。
よし、じゃあいっちょリトライしてみますか。
意気込んだところで、大事なことに気づいた。起き方が分からない。
「私、どうやったら体に戻れるんですか……?」
「うーん……今は、私たちの体が触れていますからね。どなたかが異変に気づいて離してくれれば、また浮上すると思いますが」
なるほど、そういう仕組みなのか。
あの部屋には番をしていた神官も護衛の人たちも居たから、戻るのはそう難しくなさそうだ。
思考する間、水読は手持ち無沙汰なのか、私の手にその長い指を絡めていた。まるで現実の様子を再現しているかのようだ。全く嫌な感じはないが、先ほど実際に彼を見た時の男性的な印象を思い出して、ほんの少しだけ緊張する。
しかしその手は、幾らも経たずにすり抜ける事となった。
水読がこの空間の上方を、少し眩しそうに見やる。早速、体の元へ誰か来てくれたらしい。
「美雨さん、お呼びのようです。……これは、国王陛下ですか」
「えっ」
予想だにしていなかった人物に驚く。
何で王様が?
「わ、わっ」
私の体がフワフワと浮かびだした。体に戻る前触れだ。
「流石に強力ですね……」
小さく何事か呟く水読に、私は急いで呼びかける。
「じゃ、じゃあ水読さん、行ってきます!」
「はい、お願いします。……ああ、そうだ美雨さん。もしどうしても大変でしたら」
陛下に手伝ってもらうべきかもしれません――。
水読の言葉は、ギリギリでそこまで聞き取れた。
王様に? 疑問は残るが、それはひとまず起きてからだ。
私の体は、今までに無いくらい急激に浮上していた。青い水はあっという間に消え去って、眩しい光の中に突っ込んだみたいに、視界は真っ白に焼き尽くされる。
次の瞬間、私は寝台に頭を預けて俯せていた。
じわっと、手足の先に退いていた熱と感覚が戻って来る。それから、肩に自分のものではない体温。
「――ミウ」
深く艶やかな声が、耳の傍で響く。
「しっかりしろ」
「……王様」
目を開けると、鮮やかな緑眼が私を覗き込んでいた。相変わらず神々しい。めまいの余韻かクラクラする。
王様は、片手で私の肩を支えていた。ていうかすごい近距離だ。一瞬で体が緊張し、目線は勝手に寝台へ逃げる。
「どうした。大丈夫か?」
「は、はい」
いつものように挙動不審気味に答えると、肩を支えていた掌が離れた。
その瞬間、右手から不意打ちの水圧を受けて意識が飛びそうになった。私の指は、まだ水読の手をしっかりと握っていた。よろめくと、大きな手がもう一度私を受け止めた。慌てて水読から手を離すと、引きずり込まれるような感覚から開放された。危なかった……。
……さて。
では気を取り直してもう一度……といきたい所だけど、それは不可能だった。すぐ隣から、説明を求める脅威のプレッシャーが放たれている。ここ数日穏やかだったのにな、そのオーラは、今日はバリバリ絶好調らしい。つまり超怖い。
「……あの」
「何だ?」
「今朝、水読さんが夢に……」
目を合わせられないまま、蚊の鳴くような声で言う。
「ほう。奴は何と?」
「私なら出来るので、自分を起こして欲しい、と」
「成る程。ただ塔に顔を出すだけかと思えば……お前、そういうことは先に俺に相談しろ」
「す、すみません」
ため息と呆れ声に、私は益々縮こまる。
実を言うと、報告してからの方が良いのでは、という考えは一応頭にあった。でも一刻も早く現実を確かめたかったので、ちゃっかり無視したのだった。まさか水読を起こす際、気を失うなんて思わなかったし。
「王様は、どうしてここに……」
「塔の会議に出席していてな。お前が突然倒れたと知らされ駆け付けた」
なるほど。塔の会議室はここへ来る階段の下にある。
「全く、驚かすな。体調が悪いなら悪いと言いなさい」
「い、いえ、体は大丈夫なんです。あの、水読さんを起こせるまでここにいても良いですか」
「それは構わないが、確かに起きると言ったのか?」
「はい。上手く行けばですが」
訝しげな王様に断って、私は再びゆっくりと水読の手に触れた。
激流、暗転。
しかし今度は、一瞬あの水中を見たかと思うと、もう目を覚ましていた。
「本当に大丈夫なのか?」
やはり倒れかけたのであろう私の肩を、またしても大きな掌が支えている。王様の声は懐疑的だったが、私は必死に頷いた。まだ水読の手には触れたままだが、今度は何とか持ち堪えられていた。
……なるほど、そういう仕組みか。
「あの、王様」
「何だ?」
「手を、貸してくださいませんか」
油断すれば持っていかれそうな意識と緊張に抗いながら、私は美貌の主にそういった。そして文字通り手を借りようと、肩に掛けられたそれに指を伸ばす。
私がそっと触れると、王様は少し驚いたようだった。しかしすぐに、何となく笑みを深めたような気配と共に、その手がしっかりと掴み直される。
「――なんなりと。“泉の乙女”」
私をそう呼ぶ声と、力強い熱が頼もしかった。私は短く呼吸を整え、双方に繋がる両手をぎゅっと握り込んだ。
私の予想は正しかった。
王様の手が触れていると、飲み込まれそうになっても耐えられる。そして、私は水読と接触したままでもこちらに“浮上”できるらしい。
何故かは分からないが、思うに「王族だから」じゃないだろうか。
確かメルキュリア人の始祖というのは、その身に水と、火……日の力を両方宿していたと言っていた。最初の王様がその日の力に優れ、太陽を作ったとか。
近年の王族には特別な力は無いという事だったけど、それでもこの王様は何らかの点に置いて、水読の力と釣り合いが取れているのかもしれない。
双方の手を握りながら、私は自分の中で何が起きているか知覚しようとした。
目を閉じ、意識を内側へ集中させる。
水読と繋がる左手からは相変わらず強烈な水流のような圧が掛かり、体の中に荒々しい波が押し寄せて来ていた。気を抜けば体ごと持っていかれそうだ。
そして王様に触れる右手側にも、それとはまた違ったものを感じていた。
それは、いつもこの人から発せられている、あの恐怖の威圧感のような気もしたが、実のところよくわからない。水読と違って、それには特別具体的な感覚は無かった。強いて言うなら空気圧とか、光の圧力とか? 暗い感じや冷たい感じはしないし、重たさもない。
とにかくその何かのお陰で、体に注ぎ込まれる激流のような何かが先程より少なくなっていた。まるで、体の中に仕切りが出来たみたいだ。水の入り込める容量が半分くらいになったような。
ただしその配分は、私の気の持ちようで多少揺らぐらしい。気を緩めればそのどちらかが、あっという間に体を飲み込んでしまうだろう。私は無意識に、その二つの力の間でバランスを取った。
ひたすら黙って神経を研ぎ澄ます私を、王様がじっと見ている気配を感じた。
大した説明もしていないし、端から見れば意味不明だろうに、不用意に声を掛けて来ないのが流石だ。
水読は、意識を保ちさえすれば、私の体が勝手に起こしてくれると言った。
多分この王様の方の力に意識を傾け、完全に受け入れてしまえば、私は水圧と戦う必要はない。もしあっても、ごく少量になると思う。それなら普段通りに近い感覚で、ただ水読の手を握っていればいい。
でも、そうする気になれなかった。何となくだけれど、水流の圧は多いほうが良い。これは水読の力だからだ。私の側に沢山抱えていた方が、彼が早くあの深淵から上がって来られる気がする。
そうして意識を集中させ始めてから、2、30分は経っただろうか。私はまだ、水読を起こすに至っていなかった。
内側では、相変わらず二つの圧力が混在していた。
空気のような実体の無い何かと、重厚な水の流れと、バランスを取って同じ割合で拮抗させる事にはこの数分で随分慣れた。
最早、体の感覚は殆ど無かった。
今私は更に、その次の段階へ手を伸ばそうとしている。
両者の均衡を保ちつつ、激流の方へ神経を差し向ける。水読の言っていた「中身を私の方へ引く」ということをやってみようとしていた。
暗く冷たく、破壊的な程の激しい質量。それに負けて飲み込まれても、拒絶し向こうへ押しやってもいけない。受け入れつつ、そのさなかへ細く手を伸ばす。
真っ向から叩きつける水流の中に、一筋の糸のようなものがあるのを感じた。
その瞬間、直感する。
これが、水読と繋がる線だ。
眩しい光のような力を背に借りながら、その糸を掴もうとする。しかし、それを取り巻く激しい流れに腕が折れそうだ。それでも強引に意識を伸ばせば、ここぞと流れ込んでくる水に溺れそうになる。
不意に気が遠くなりかけるたび、私は無意識に右手にぎゅっと力を入れた。その都度、安心させるように温かい手が握り返す。視界がみるみる明るく晴れる。
二度、三度と挑戦して、四度目。遂に私はその糸を掴んだ。
「っ……!!」
掴んだ瞬間、体に今までとは比べ物にならない程の凄まじい負荷が掛かる。
純粋な「重さ」に近い。勿論実際の体はそんなこと無いんだろうけど、感覚的には腕が千切れそうなほどの重量を感じた。その先に地球まるごと括りつけた紐でも掴んでるみたい。
引きずり込まれると焦った時、グッと肩を掴まれた。消失していた体の感覚が俄に戻る。多分、また倒れかけたのだろう。
私は目を瞑ったまま、もう一度集中して意識の中へ潜り先ほどの糸を探る。……今度は素早く見つけることが出来た。でもこのまま掴みに行っても、またきっとあの重さに耐え切れず失敗するだろう。
じゃあ、どうすれば。
そういえば、左手の光の方には同じような糸は無いのかな……?
私は再びその力の狭間に立ち戻って、双方へと目を向けた。その根源、核となるものを見出す。
水の方は、はっきり見える。
光の方は――……ある。見つけた。
未だかつて無いほど、神経が研ぎ澄まされる。
自分がどこにいるのか、そもそも自分などというものがあったのか。
“私”という概念すら消え去っていた。
ただひたすら、拮抗する対極の「芯」を探る。
両方を受け入れ、しかし支配されず、同時にその中核を掴む。
それは不思議な感覚だった。
一瞬、全ての圧力が無くなった。
一切の振動、そして音の無い、無限の空間に浮かんでいる。
意識だけがスローモーションの様に、何が起きているのかを知覚する。
一筋の光、そして細い水の流れのような透き通る力。
それぞれ反対の方向から伸びてきたその力は、丁度真ん中の所で相まみえ、一本の線に繋がる。
――ああ、やった。これでいい。
確信と同時に意識が遠のく。
全てが綺麗な一直線に繋がったのを見届けて、私は深い深い安堵の中に沈んだ。
◇
さほど、長い時間は立っていなかったと思う。
「――ミウ」
「――ミウさん」
重なる呼び声に、私は意識を取り戻した。
「……あ」
返事をしようと思ったのに、掠れた変な声しか出なかった。
もうそこには、体内を揺るがす圧力は無かった。ただ体を包む熱と、額を冷やす微風を感じる。
「良くやったな。大丈夫か?」
まだぼんやりとしている私に、よく通る深い声が尋ねる。
「ミウさん。どうもありがとうございます」
そして夢で聞くばかりだった、あの穏やかな声も。
瞼を上げると、なめらかに輝く薄水色の髪が見えた。ぐったりと横たわる私を、星のように瞬く不思議な色の目が覗き込んでいる。
私はゆっくり瞬くそれをじっと見返した。やっぱり、髪と同じような水色の目だった。微笑む顔は、現実の方がはっきり見えるしとても綺麗だ。
水読は、王族のような華やかさは無いが、また別の清廉な美しさを持つ青年だった。幽かに薄い青を感じる瞳はきらきらと透明感に溢れているが、夢の中より地に足のついた印象があって、鼻筋の通るすっきりした顔立ちによく似合っている。
この目は、長らく閉じられたままだったものだ。
ずっとこれが開くのを待っていた。私も、他の人達も皆。
……ああ、良かった。私、ちゃんとできたんだ。
優しげに見つめる瞳に、私は弱々しく笑い返した。




