「世界を救いたかった女が、たった一人を守りたいと思った夜」
人は時に、一万人を救う理由より、
たった一人を守る理由の方が見つからない。
そして見つけてしまった時、
人生は静かに変わり始める。
朝だった。
プロスペリタスの空は相変わらず紫と灰色の境界を漂っていた。
風は穏やかだった。
法城ほうきろは荷物をまとめている。
いつも通りだった。
何も知らない。
昨夜のことを。
自分の夢の中に、誰かが入り込んでいたことを。
その誰かが、自分の過去を見ていたことを。
「準備できた?」
ステファニーが言った。
「ああ」
法城は振り返る。
いつも通りだった。
疲れていて。
少し無気力で。
どこか頼りなくて。
そして――
壊れそうだった。
ステファニーは何か言おうとした。
だが言葉が出てこない。
昨夜見たものが、まだ胸に残っていた。
机。
試験。
点数。
終わらない期待。
休息の存在しない日々。
親の声。
善意という名の圧力。
愛情という名の拘束。
法城ほうきろは、あまりにも長い間、
「自分の人生」を生きていなかった。
彼はそれを当然だと思っていた。
だから余計に痛々しかった。
「どうした?」
法城が首を傾げる。
「……別に」
ステファニーは微笑んだ。
嘘だった。
別にではなかった。
胸の奥が妙に騒がしい。
旅が始まる。
二人は再び歩き出した。
神ウィンフリンゼキを背にして。
プロスペリタスの広大な大地を。
歩きながら、
ステファニーは自分の人生を思い出していた。
ロサンゼルス。
裕福とは言わない。
だが恵まれていた。
父も母も働いていた。
教育も受けられた。
安全な家があった。
食べ物に困ったこともない。
暴力もなかった。
未来もあった。
世界には自分より不幸な人間が無数にいた。
そのことも知っていた。
だからずっと思っていた。
自分の苦しみは贅沢なのだと。
何かが足りない。
そんな感覚を抱く資格などないのだと。
だから旅をした。
世界を回った。
貧しい国。
戦争のある国。
忘れられた土地。
人々を助けた。
声を届けた。
資金を集めた。
学校を建てた。
井戸を掘った。
たくさんの人間の人生を少しだけ良くした。
それは間違いなく意味のあることだった。
だが――
満たされなかった。
何年経っても。
何万人を助けても。
心のどこかが空白のままだった。
何かが欠けている。
だが何が欠けているのか分からない。
その答えを探して、
彼女は世界中を歩いた。
そして今。
プロスペリタスを歩きながら。
ふと隣を見る。
法城ほうきろ。
少し猫背で。
荷物を抱えて。
眠そうな顔をしている。
世界を救える人間ではない。
英雄にも見えない。
弱い。
脆い。
放っておけば簡単に壊れてしまいそうだった。
なのに――
なぜだろう。
胸の奥で何かが灯った。
小さな火だった。
だが今まで感じたことのない種類の熱だった。
(守りたい)
その言葉が自然に浮かぶ。
驚くほど自然に。
世界を救いたかったわけじゃない。
人類を変えたかったわけでもない。
何万人も助けたかったわけでもない。
ただ。
この少年が。
これ以上傷つかないように。
そう思った。
その瞬間。
ステファニーは理解した。
自分がずっと探していたものを。
人生で初めて。
本当に初めて。
自分の進む理由を見つけたのだと。
夜。
再び野営。
二人は同じ天幕で眠っていた。
風は静かだった。
遠くで虫のような鳴き声が聞こえる。
そして。
法城ほうきろは再びうなされ始めた。
「……やめろ……」
小さな声。
苦しそうな呼吸。
震える指先。
夢を見ている。
昨夜と同じだ。
終わらない過去。
終わらない期待。
終わらない労働。
終わらない評価。
ステファニーは目を開けた。
しばらく彼を見つめる。
そして。
何も言わずに近づいた。
ゆっくりと。
静かに。
まるで母親が幼い子どもにするように。
彼の隣へ身体を寄せる。
そして――
そっと抱きしめた。
法城の身体がわずかに震える。
だが次第に落ち着いていく。
呼吸が整う。
苦しそうだった表情が少しだけ和らぐ。
ステファニーは何も言わなかった。
ただ抱きしめていた。
誰にも気づかれないように。
誰にも知られないように。
その夜。
法城ほうきろは知らなかった。
人生で初めて。
自分を守ろうとしている誰かが、
すぐ隣にいることを。
ステファニーはずっと世界を見てきた。
けれど今、
彼女が見ているのは世界ではない。
たった一人の少年だ。
そして時に、
運命を変えるのに必要なのは革命ではなく、
誰か一人を抱きしめることなのかもしれない。
次回――
「母ではない。恋人でもない。だが彼女は彼を守る。」
プロスペリタスの旅は続く。




