第二話 魔境と不死の魔術師
その地は、誰も近づかぬ“魔境”と呼ばれていた。
木々が生い茂り光が届かず、霧が絶え間なく立ち込め、人を迷わせる。
空は常に曇天に覆われている。人々は恐れ、足を踏み入れようとしなかった。
――だが、彼はそこにいた。
長く、長く、誰にも知られず、ただ一人で。
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その男の姿を知る者は、もうほとんどいない。
100年ほど前、王都で名を馳せた天才魔術師、カイ・ヴァルツ。
黒檀のような長い黒髪の、美しい男。
しかし灰銀の目に映るものすべてに、“恐怖”を刻みつける、生まれついての呪いを宿していた彼は、
恐れられ、人を避け、ついには自ら姿を消した。
解呪を目的とした古代魔術の失敗で、不老不死となってしまった今は、
誰も近づかぬこの森の中、
半ば朽ちかけた屋敷に、ひとり住んでいる。
人々は語る――
「この地には、かつて神に追放された特級の魔物たちも巣くっている」と。
実際、王都の騎士団すら足を踏み入れない。
そこは、凶悪な大型魔獣すらも“生き延びられない”ほどの地獄の森だった。
誰も近づかぬこの森にあって、
ただひとり、理性なき筈の魔物すら、彼を避けて進む。
その理由は簡単だ。
彼は、魔境の“頂点”に立つ存在だからだ。
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その日、霧を裂くように、かすかな泣き声が聞こえた。
「…森が騒がしい」
カイは歩みを止め、耳を澄ます。
彼にとってこの森で聞こえる音のほとんどは、獣の叫びや死者の呻き、あるいは風の幻声。
だが、今聞こえたそれは――
「……赤子?」
木の根元。
まだ血のにおいも残る布にくるまれ、震える小さな命。
「……私に抱かれるのは、嫌だろうが」
カイは、その小さな存在を見下ろし、そっと抱き上げ、灰銀の瞳が、赤子の澄んだ目と交わると。
赤子は、ほっとしたように花開くように笑い。
その小さな手をのばし、彼の頬に触れた。
「……っ」
カイの表情は動かない。
だが、心はひどく動揺していた。
本来、呪われた自分に触れる者は、皆怯えて錯乱する。
そのため、カイは長き年月を孤独に生き、それはこれからも変わらない。
そのはずだった。
それなのに、この赤子は――
「……笑って……いる?」
己を恐れぬものは、100年以上を生きてきたカイにとって、ーー自分の両親も含めーー初めてだった。
その手が頬に触れた瞬間、
彼の凍てついた心に、わずかな熱が宿った。
「フィリーネ」
「お前の目は、空の色に似ている。
……お前の名としよう」
その手に抱かれた赤子は、また満足げに笑い、目を閉じた。
魔境の森に、たったひとつ――
微かな命が生きながらえた。
かくして、不老不死の孤独な魔術師は、
捨てられた元王女を育てることとなったのであった。