ep5 夜
中央区の劇場で仕事があった。
観劇の幕間には貴賓席の客もロビーで交流する。俺は疑いを向けられない同列の立場で、握手と酒を交わすだけ。夜更けには毒が回る。異変に気づいた時には手遅れだ。
終幕に合わせて劇場を出てコートを羽織る。時計を確認すれば針は二十時に近いが、外はいつも以上に賑わっていた。昨日からこの街では冬祭りが開かれている。劇場も祭りに合わせた演目を用意し、別の街からも上流階級の者が集った。人が動けば様々な思惑も働く。
拠点へ帰るため市場に沿うように通りを歩いた。中央広場には篝火が焚かれ、屋台がひしめき合っている。夜とは思えないほどに明るい。歌声や踊る男女の喧騒。これがあと三日続くらしい。
「なあ、聞いたか」
屋台を素通りしていれば、酒を手にたむろする男たちの会話が耳に届く。雑音として聞き流すはずが、そうはいかなくなる。
「火事だって」
歩調を緩める。並ぶ屋台を見る。ワイン、菓子、装飾品。どれも俺には必要ないが、客としての振る舞いをしながら耳だけをその会話へ向けた。
「どこで?」
「南の、ほら……港から住宅地に抜ける通りだよ」
「警吏が規制してるんだと」
「お前今日は帰れねえなあ」
「どうせ朝まで帰らねえだろ」
火事は拠点のすぐ近くのようだった。このまま南に戻っても無駄足になる可能性が高い。なるべく警吏にも近づきたくはない。別の場所を当たる方がいい。
現在地は中央広場の外周通り、北西付近。
東のはずれにもセーフハウスがある。しかし祭りのせいで広場を突っ切ることはできない。ここから向かうなら、いつもより時間がかかって面倒だ。
そう考えながら歩いていれば、コーヒー豆が並ぶ屋台が視界に入った。足が止まる。ここにあるはずのない油と絵の具の混ざった匂いが鼻を掠めた気がした。キャンバスを筆が擦る音。泥水のような飲み物。大きな窓から見える街並み。——アトリエなら、今いる場所から一番近い。
「……左の豆を百四十グラム」
「はいよ」
店主は慣れた手つきで俺の言った通りに豆を量り袋に詰める。釣り銭の出ない額を渡して、最小限のやり取りで屋台を後にした。
北へ向かう。
ここから近く、一晩を明かすのに不便がなく、たまたまコーヒーの屋台があり、これを渡しておけば次に行く時に泥水を出されるリスクが減る。あの性格なら、祭りの夜に出歩いている可能性は低い。
アトリエを利用するのは、合理的な判断だ。
「こんな時間にどうしたの?」
扉を叩けばすぐにゼノが出てきた。迷惑という様子ではなく、純粋な疑問の声色。夜に訪ねたことはないから当然だろう。
「一晩ここを貸りる」
少しの間。それから、初めて俺をアトリエに連れて来た時と全く同じ調子で「どうぞ」と扉を押さえた。
「散らかってるけど」
「知っている」
「そんなことないとか言ってよ」
戯言は無視して紙袋を棚に置き、コートを脱いだ。壁際のハンガーに掛ける。ゼノが窓辺の椅子を少し引いて示す。この部屋に椅子は一脚しかなかったが、俺が三回目に訪れた時には増えていた。わざわざ買い足した理由については興味がない。
「珍しい格好」
言って、ゼノが俺を見る。テールコートにベスト、クラバット。祭りの市場には馴染んでも、画家の家には浮いた装い。
「仕事だ」
「そうなんだ」
「それだけか」
少しだけゼノの表情を窺う。本当に「そうなんだ」としか思っていない顔。何度会ってもゼノは俺の仕事や生活について深く聞くことをしない。褒められた仕事ではないだけに好都合ではあるが、いっそ不気味だ。それにこいつは核心に触れていなくとも、俺について少なからず察しているようなところがあった。
「探られたいの?」
「違う。しかし普通は聞く」
「普通じゃないとはよく言われる」
声だけで笑う気配。テールコートからも袖を抜いて、椅子に座る。窓の外、遠方に見える街がいつもより強く光を放っている。
「コーヒー飲む?」
「淹れるならそれにしろ」
目線で入り口横の棚を示せば、紙袋に気づいたゼノがそれを手に取って開けた。あの屋台で一番いい豆だ。雑に淹れたとしても、この部屋にあるものより幾分ましな味になるだろう。
「いいの?」
「またあれを出されたら俺が困る」
「そんなに変わるものかな」
「淹れ方にもよる」
「じゃあ、お手本見せて」
「……」
断る理由もなく、立ち上がる。
豆を挽いて、湯を入れて、蒸らす。決まった手順さえ守れば何も難しいことはない。手を動かしている間、ゼノはカップだけを用意して黙って見ていた。並べられたカップは二つ。日頃ゼノが使っているものと、来客用なのだろう——以前俺に出されたもの。コーヒーを注ぐ。ゼノが香りを嗅いで口をつける。
「おいしい」
「正しい淹れ方を覚えろ」
椅子に戻る。作業机にカップを置き、ゼノも近くに座る。窓の外に雨の気配はない。今日は足止めを食らっているわけではない。自分で判断してアトリエに来た。先のことを考えれば効率がよかった。
それだけだ。正しかった。
そのはずなのに。
(……静かだ)
以前ここに座った時も同じことを思った。
そしてそれが音の有無の問題ではないと自覚する。これは考える必要のないものだ。思考を切り捨てる。
「お祭りどうだった?」
遠くに見える中央区の灯りで思いついたのか、ゼノが言う。
「なぜ俺に聞く」
「その服なら、劇場とか行ってたのかなって」
「……演出は凝っていた」
「へえ。僕も一度くらい観てみたい」
「この街に住んでいて、行ったことがないのか」
「うん。場違いだし」
観劇に行くなら確かに身なりを整えるべきだが、ゼノがそういった服を揃えているとは思えなかった。それに、行ったとしてこの男が演劇を楽しめるかは分からない。筆を動かす時、作品に向き合う時、俺に向けられていた眼差しを思い出す。
役という仮面を被った演者も、あんな目で見られたらたまったものではないだろう。
日付を跨ごうとする頃、寝支度をすませたゼノがそばに立った。俺は何をするでもなくずっと外を見ていた。緩やかに暗闇の中で雲が位置を変えるところや、建物の灯りが消えていくところを。
「ルネ、ベッド使って」
言われて、ゼノに顔を向ける。その背後にソファがある。眠るのに場所はそれほど重要ではない。
「そこでいい」
「部屋を貸すんだから、家主には従ってほしいな」
静かだが有無を言わせない口調。意外、とは思わなかった。この男に強気なところがあるのは腕を引かれた時から知っている。だからそれ以上言うのはやめてベッドへ移動した。ゼノはソファに乗った物を適当に床へ下ろし、ランプの灯りを落として横たわる。
「おやすみ」
自然に投げられる言葉に返事はしない。そんな言葉を人と交わしたことがない。ゼノは気にした様子もなく、ただ衣擦れの音だけが響いた。しばらくすれば聞こえる呼吸が深くなる。
秒針、外の風、家鳴り。それらに混じる規則的な寝息と、染みついた絵の具の匂い。他人の寝具に包まれている違和感。
この空間は自分の領域ではない。
本来なら注意を払うべきことばかりなのに、何故か、ひとつも気にならない。
その事実を直視しないように寝返りを打ち、目を閉じる。
眠りたいわけではなく、思考を切るために。




