ep4 雨宿り
ルネが自分からここに来たのは、今日で四回目になる。
初めは絵の購入を打診してきた日。それから、しばらく日を空けてはふらりとやってきて、ただ窓辺に立つ。いつも大体一時間くらい。彼の予定次第で描ける時間は多少変わる。
ルネは必要最低限しか口を開かないので、アトリエはいつも静かだった。僕も描くことに夢中だし、彼は何も聞かれないことを望んでいるようだから、余計な口はきかなかった。でも、ルネを観察している中で、僕はひとつの違和感を覚えた。
ルネは、まったく動かない。
大抵の人は二十分もすれば重心を変えたり、同じ姿勢のつもりでも少しずつ傾いたりする。それなのに彼は、不自然なほど体の軸がぶれず、視線は一点を見据え、固定されているかのように思えた。
(モデルをやり慣れてる人だって辛いもんだけど)
やっぱり彼は、どこか人と違うところがある。
いつでも休んでいいと伝えていたけれど結局、彼が姿勢を崩したところを一度も見なかった。
「終わりだ」
時計を見て、ルネは事務的に言った。今日は一時間と少し。絵はゆっくりと、しかし確実に進んで、彼を形作る光の反射を積み重ねている。
僕はイーゼルを部屋の端に寄せた。窓の外が数分前よりもずいぶん暗い。ルネがコートに袖を通す衣擦れの音。窓枠の隙間から流れ込む湿った匂い。
「あ……」
ざあ、と雨が降り出した。
彼を描いていた時の陽光が嘘のように雲が立ち込めて、大粒の雨があっという間に地面を黒く濡らした。僕の声に振り返ったルネが目線を外へ向け、ほんの僅かに眉を動かしたような気がした。
今日は晴天だったから、ルネは傘を持って来ていない。僕のものを貸そうかと思ったけれど、この勢いでは傘があったところで彼のコートや靴が濡れてしまうと思った。
だから言った。
「雨足が弱まるまで、コーヒーでも飲む?」
湯気の立つカップをルネに差し出す。細く女性的に見えてもきちんと節のある手が、それを受け取る。作業机のそばに椅子を寄せて座る。僕らの間には少しだけ距離があって、妙な感じだった。
ルネが無駄のない動作でカップに口をつける。それだけで絵になるのだから不思議だ。それに、不思議といえば彼が雨宿りに応じたことだった。多少濡れることも厭わず僕の傘を使って帰るかと思ったのに、黙って上着を掛け直したのだから。
沈黙と雨音が続く。ガラスを流れていく無数の水流が外の景色を曖昧に切り刻んでいく。
聞くなら今かもしれない。
いや、聞くと言うより、事実を述べるだけ。
「初めてだね、絵を描く以外でここにいるの」
「……この天気だ、仕方がない」
彼の視線が暗い街の景色に投げられる。きっと通り雨だから、しばらくすれば止むはずだ。長居させるつもりはない。だからこそなのか、この時間が少しだけ特別に感じられる。
「君って全然動かないよね」
「その方が描くのに都合がいいだろう」
「助かるよ。でも疲れない?」
「いや」
また沈黙。でも気にならない。ルネがどう感じているかは知らないけれど。
「遠いの?」
「何が」
「ルネの家」
「近くはない」
「じゃあここまで来るの、大変だ」
「別に」
素っ気ない返事に少し笑う。コーヒーの湯気が揺れる。近くはないと言い切る距離に住んでいるのに、彼がわざわざここへ来るのはどうしてだろう。
絵を買い取るには、僕が作品を完成させないといけないから?
僕の手元にルネを描いた絵があるのが嫌になったみたいだったけれど、それは何故?
気になってはいるが、無理に聞き出したいわけではない。理由はどうあれルネはここに来て、僕に描く機会を与えてくれる。それに人の心というものは、どれだけ口を閉ざしても体の全てに表れる。だから僕がルネを描き続ければ、きっといつか分かる。
「……あとどれくらだ」
「通り雨だろうし、三十分もすれば止むんじゃないかな」
「違う」
モデルをする時も、今も、ずっと外へ向けられていた眼差しが僕を射る。雨天の影のせいでいつもより緑色を濃くした、水底のような瞳。隙のない彼の中で唯一、そこだけは時々揺らいで見えた。ルネの置いたカップの底が作業机の天板を打つ。
「絵は、いつ完成する」
平坦な声。でもほんの少しだけ、普段の相槌なんかとは違う温度が混ざっていた。探るような、距離を測るような。
その時なんとなく分かった。
ルネがここに来るのは、僕に絵を描かせるためじゃない。
何かを確かめたがっている。
そのために、窓辺に立っている。
それが何かまでは僕には想像がつかないけれど、確信めいたものを感じた。
「まだかかるよ」
「具体的には」
「さあ。描こうと思えばずっと描き続けられるし」
僕の言葉にルネは露骨に眉を顰める。明らかな不快の表情を初めて見た。彼には悪いけれど、こんな顔もできるのかと少し心が弾んだのを自覚する。
「君は他の人より複雑そうだから」
「普通だ」
「それ本気で言ってる?」
「……早く仕上げろ。俺も暇じゃない」
「たまにこうやって一緒にコーヒーを飲んでくれたら、捗るかもね」
ルネがわずかに目を眇めて、瞳にかかる影が深みを増す。確かに僕の軽口に反応を返すところなんかを見ると、解き明かしていけば普通の人なのかもしれないと思った。ルネはそんなふうに普通であることを許されなかったのだろう。
「なら、せめてもう少しマシな豆を用意しろ」
「これが一番安いんだよ」
「まるで泥水だ」
「顔色ひとつ変えず飲んでそんなこと言うの?」
これ以上は会話しないとでも言うように腕を組み、再び視線を外へ向けたルネの横顔はよく出来た彫刻のようだった。隙がなく、洗練されて、綺麗。けれど初めて街中で見た時とは違う。モデルをしてくれている時に近いが、それよりもっと純度が高い。
今ここに座っているのは間違いなく、何の役割も持たない《ただのルネ》だった。




