ep2 今日は仕事
いつも通りの朝だ。
部屋にはまだ夜更けの冷たさが残っていて、自分の体温が移った毛布から離れがたい。こうして横になったままぼんやりと、薄青い光が広がるアトリエの窓を眺めるのが好きだ。世界の何にも縛られず、自由で、澄んでいる。
昨日は筆が乗って遅くまで絵を描いていたから、少し寝不足気味だ。しかし二度寝をするのはもったいない。食料や画材が欠け始めているし、朝食を済ませたら早めに市場に向かい、それから腰を据えて制作の続きに取りかかろう。
顔を洗って、コーヒーを淹れて、パンを切り、テーブルに運ぶ。食べ慣れた小麦の味と豆の香りを堪能しながら、なんとなく視線を流した。部屋の隅に置いたキャンバスの中で一つだけ、布をかけたものに目がいく。
あれは、ルネの絵だ。
一週間前に偶然出会ってモデルを頼み、それきり。一時間で描いた油絵は未完成で、絵の具が乾いたらすぐに布をかけて隅に寄せた。まだらにオークルが透けるその絵が視界に入ると続きが描きたくなるけれど、想像で色を重ねるのはいやだった。人に見せないという約束もしたし、そうやって隠すように置いておくのが一番都合がよかった。
「やっぱり、完成するまでモデルになってもらうべきだったかな」
こんなことを呟いてしまうのも、一度や二度ではない。だけど強引に描かせてもらったのだから、彼の意思を尊重するのが筋だろう。それに、彼はその場をやり過ごすため仕方なく着いてきてくれた様子だった。悪いことをしたかな、とも思う。
「……今更か」
考えたって仕方がない。過ぎたことは戻らないし、変わらないのだ。
朝食の最後の一口を飲み込んで、外出の準備をする。
◇
市場は街を交差する通りと、中央の小さな広場を囲むように広がっている。石造りの建物の軒下や、扉の開け放たれた店内を見て回る。普段より早い時間帯に訪れたからか、どの店もまだ混み合っていない。
普段は近場の店で済ませるけれど、せっかく時間があるので家から遠い側にある画材屋へ向かった。そちらのほうが品揃えがいいから、あえてあまり来ないようにしていた。そして予想通り、目当てのものから余分なものまで買い揃え、元より軽い懐がさらに軽くなる。
「食費で調整すればなんとかなるか」
画材を買い終えた頃には、市場に活気が溢れていた。なるべく安い青果店を目指して広場沿いを歩いていると、カフェに目が留まる。店内と、軒下にも少し席を設けた人気の店。そこで立ち止まる人物がいた。
「ルネ……」
一時間も描いたのだ、見間違うはずがない。
肩口で結えられた灰を含んだ金髪。光を受ければ緑を、影に沈めば青を宿す水底のような瞳。そして何より印象的なのは、異様なほど自然に周囲へ溶け込む完璧な佇まい。
彼は扉の前で、小さな木製棚に置かれた新聞をほんの数秒流し見て、また人混みに紛れて歩き出す。一連の動作に無駄がなく、まるで誰も彼に気がついていないのではとさえ思える。そのまま人の流れに合わせて歩き、油屋で小瓶を一つ取り、店主の顔も見ずに値段きっかりの硬貨を渡した。そして再び、人の流れに乗る。
どうしようかな、と考えた。
さっきから僕はルネを追うように歩き続けている。意図しているわけじゃなく、目的の方向が同じだけだ。とはいえそれを幸運に感じている自分もいる。声をかけるなら今だろう。でも。
(このまま、歩く姿を見ていたい気もする)
あんなに目立つ容姿なのに静かで、ここにいないような希薄さ。なぜか、視線を外せば見失うという確信がある。市場の喧騒が耳から遠のく。瞬きも忘れて歩いた。
ルネが、振り返る。
まるで自分の歩みが連れを置き去りにしていないか確認するような、日常の中にありふれた自然な仕草。
「俺に用か」
淡々とした言葉に棘はないが、温もりもない。ルネは僕が追いついたその瞬間にすぐ歩き出す。行き交う人の流れを止めない動きだった。
周囲の誰も僕たちを気にしない。
元々二人で買い物に来ていたみたいに、足並みを揃えられていた。
「えっと。こんにちは、ルネ」
「つけるならもっと上手くやれ」
「違うよ。この先の店に食材を買いに行くんだ」
「そうか」
ルネは前を見たまま言う。彼の荷物は最低限。僕は大きな紙袋を左腕に抱えている。ルネは余計な買い物などしないのだろうな、と思った。
着いてくるなとも言われないまま、何となく進む。この前は彼が後ろを歩いていたから気にしていなかったけれど、こうして並ぶとルネは平均よりも少しだけ背が低いと分かる。僕が大体の人より高いというのもあるかもしれないが。
そのおかげで、僕は頭半分ほど高い位置からルネの様子を窺えた。感情を乗せない目を縁取る睫毛が影を落としている様子さえ。
「あの絵はどうした」
勘定の声、雑談、袋を開ける音、足元を抜けていく風。それらに紛れるように、だけど隣にいる僕には届く静けさでルネが言った。
「置いてあるよ。布をかけて」
僕の返答に、ちらりと説明を求めるような視線が投げられる。それに違和感を抱く。ルネは分かっていないふりをしているようだった。僕がわざわざ布について言及した理由に、見当がつかないわけもないだろうに。
「誰にも見せるなって言ってたし、念のため」
「そうか」
「でも本当はそれだけじゃない」
また同じ視線。促されるように僕は事実だけを口にする。願望ではない。
「見ると、続きを描きたくなっちゃって」
「勝手に描けばいい」
「想像ではちょっと」
「お前の腕なら描けないわけではないだろう」
「出来る出来ないの話じゃなくて」
そう返しながらも、ルネがたった一度訪れた僕のアトリエを見て、技術を評価してくれていることに驚いた。そして言う通り、想像で描くことだって、きっと出来る。あの日の景色は目に焼きついている。それでも。
「もう一度、ちゃんと君を見て描きたいから」
ともすれば見逃しそうな刹那、ルネの体に緊張が走ったような気がした。
「またアトリエに来てって言ってるわけじゃないよ」
彼の様子を見て付け加えた言葉は嘘ではないが、もちろん来てほしいに決まっている。今朝だって、あの絵について考えていたところなのに。
「心配しなくても行く気はない」
ルネが、南へ抜ける道の前で止まる。
僕もつられて足を止めた。
「今日は、仕事がある」
「あ、うん」
「だからここまでだ」
それだけ言って、ルネは通りを歩いて行く。コートの裾が翻る。僕は追いかけない。アトリエへの帰路は反対側だし、まだ買い出しが終わっていない。けれど僕はその場に縫い留められたかのように動けず、遠ざかる彼の背中を見ていた。
「……今日は?」
いやいや。
都合良く捉えすぎるのはいけない。彼はただ事実を述べただけだ。また会う約束だってしていないじゃないか。
「困ったな」
本当に困った。今日は午後から売るための絵を描くつもりだったのだけど。
この調子では、帰っても制作に身が入る気がしなかった。




