ep1 邂逅
煌びやかな照明と、グラスを合わせる音、華やかな衣装に人々の話し声。俺は静かに人の流れを追い、壁際で休むふりをする。
紫煙と香水が入り混じったここは社交場だ。誰もが権力を持ち、真実を隠し、打算で動く。血の流れない戦場なんて言うがそれは嘘だ。でなければ俺は呼ばれていない。
「楽しんでいるかな」
男が一人、自然な動作で隣に立った。この辺りでは名の知れた実業家で、顔は広いが敵も多い。俺のところに仕事が来たのもそのせいだ。
ゆっくりと微笑み返す。品良く、柔らかく。そして、この男好みのあどけなさを残す。
「ええ。ただ少し、人に酔いまして」
「私もだ」
男の手元を見る。酒の入ったグラスだが、あまり減っていない。軽く手を挙げ、通りがかりの給仕を呼び止める。別の酒を選び取り、隣の男へ差し出した。
「こちらの方がお好みでしょう」
「どうしてそれを?」
「以前、おっしゃっていたので」
嘘だ。初対面だが、数多の人間と会っているこの男は大した肩書きのない者は覚えていない。俺のそばには、容姿で寄ってきただけだ。けれど調べた情報を元に話せば「そうだったか」と途端に気を許し、距離が詰まる。男からグラスを受け取り、交換するほんの一瞬のうちに、手元に仕込んだ毒を溶かす。呼吸と同じくらい馴染んだ動作にミスはない。
男がグラスを煽るのを見届けるため、他愛のない会話をしばらく続けた。離れる間際、男が俺の肩を軽く抱く。
「よければまた会おう」
ジャケットの胸ポケットに、小さな紙が一枚落とされる感覚。是とも否とも言わず、ただ微笑みだけを残して俺は顔を下げた。
また、なんてものはない。
今まさに男の体内に巡っている毒が、数時間の後に命を奪うのだから。
◇
仕事を終えた翌日、市場へ買い出しに来た。一日の中で最も人が多く、溶け込みやすい時間帯。数えきれない靴底が石畳を叩く音がする。パン屋で紙袋を受け取り、通りを抜けようと歩き出した時だ。
強く、腕を掴まれた。
振り返れば背の高い陰気な男。かすかに油のような独特な匂い。手の甲が汚れている。おそらく絵の具。画家か。俺を掴む動作も重心の動かし方も、一般人のそれだ。仕事絡みではない。
「あの、絵のモデルになってくれないかな」
昼日中、通りのど真ん中でそんなことを言われるとはさすがに予想していなかった。男の表情を窺う。この様子では諦めそうにない。無視するのも振り払うのも得策ではないだろう。ここで押し問答になれば群衆の視線がすぐに集まる。
仕事柄、目立つのはまずい。
ほんの少しだけ、迷ったような素ぶりを見せ視線を揺らし、答えた。
「……人目につく場所でなければ」
「じゃあ、僕のアトリエに。そんなに遠くない」
「一時間だけだ」
「ありがとう」
男は表情を緩める。とんでもなく面倒だが、事を荒立てるよりはいい。素直に応じて満足させ、深入りせず二度と会わなければすむ。俺の判断は間違っていない。
男の半歩後ろについて、帰る方向とは真逆の通りを進んだ。警戒心のかけらもない背中を観察する。最低限の手入れで済まされた短い黒髪も、毛羽立った黒い服も、履き古した靴も、この画家がさほど売れていないことを物語っている。
「名前、聞いてもいい?」
沈黙が苦だったわけでもないだろうが、男は少し振り返って言う。
「断る」
「呼び名がないと不便だ。嘘でもいい。僕はゼノ」
一回きりのモデルに呼び名が必要とは思えなかった。しかし先に名乗られた上、執拗に名前を伏せたがるのも不自然だ。もともと偽名のようなものだから、そのまま答えることにした。
「……ルネ」
「いい響きだね」
男——ゼノはそれだけ言ってすぐに前を向いた。
しばらくして、古い家や集合住宅が並ぶ路地に着く。その一番端に立つ石造の家の前で足を止めた。
「ここだよ」
川の気配が近く、空気に湿度と冷たさが含まれている。ざっと見渡しただけでも街灯が少なく、建物に囲まれ、立地的にも夜間の人通りはほとんどないと想像できた。何か起きた時に助けは期待できないが、画家にとっては広さの割に安く、静かで、邪魔が入らない有料物件というわけだ。
「どうぞ。散らかってるけど、気にしないで」
扉を押さえたゼノに促されるまま、中へ。おそらく元々工房の類だったのだろう、一階建てだが天井は高く北側に大きな窓がある。部屋自体も広くはないが、狭すぎない。簡単なキッチンと、奥には水場へ続く扉がひとつあった。
ゼノの言う通り、室内はかなり散らかっている。大量のキャンバスと画材が無作為に置かれている中に、生活を感じさせる木製のテーブルと椅子が一脚、ベッドは隅にとりあえずというように置かれていた。
「窓の前に。立っても座っても、好きなようにしてくれたら」
俺に選ばせるような最低限の要望だけを述べて、ゼノは背を向けて画材の用意を整え始める。
少し迷い、窓辺に軽く重心を預けて立つ。北向きといえど昼も過ぎているからか、建物の壁によって淡く拡散した光が部屋を満たしていた。
「疲れたら言ってね。途中で座ってもいい」
「……ああ」
イーゼルに、小ぶりなキャンバスが立てかけられる。絵の具と油を混ぜた匂いが広がる。一時間で油画をやるのか、と思った。油画は塗り、乾かし、重ねるものだ。仕上がるわけがない。
(非効率的で、無駄な生産だな)
けれどこいつが満足して解放されるなら、仕上がりなど俺の気にするところではない。
目線を窓の外へやり、規則的に鳴る掛け時計の音にだけ集中した。
三十分が経っても、ゼノは俺に対して何も言わなかった。仕事はとか、どのあたりに住んでいるとか、個人的なことに一切触れてこない。その上、モデルとして選ばれたなら避けては通れないと思っていた容姿についての言及も、ない。見られることには慣れているが、今感じる目線は人生において経験したことがない温度で俺に向いている。値踏みせず、価値を見出すこともない、もっと単純な何か。
「どうして俺を選んだ」
聞くつもりではなかった。しかし俺の中に答えがないものならば、知る必要がある。いつだって知らないことは不利だ。俺の立場ならなおさら。
「直感かな。目を引いた」
「つまり外見か」
手を止めず、俺とキャンバスを交互に見ながらゼノは否定した。
「ルネは確かに綺麗だね。でもそれは描きたいと思った理由じゃない」
「では何だ」
「市場で見た君は完璧だった」
大きくもない声だ。それなのに、やけに部屋に響いて聞こえた。遅れて、筆が布地を擦る音が響く。俺は目線を合わせないように努める。
「作り物みたいにね。だから、そうじゃない、ただ窓辺に立っているだけの君という一個人を、美化せず描いてみたかった」
「……意味不明だ。時流にも合わない」
「はは。だからあまり売れてないよ」
おどけるように、肩をすくめる気配がした。視線を少し窓からずらして、室内を探る。置かれたキャンバスの中には完成品と思われる人物画がいくつか見えて、そのどれもが上手い。陰影の捉え方、筆致、色の選択。技術は申し分ないと分かるのに、なぜか全て——。
(生々しい、というべきか)
この時勢、絵を買う人間が求めるものは美化された世界だ。それに対してこいつの描く絵は、あまりにも人間が生っぽく、本質を描き出されているような居心地の悪ささえ感じる者もいるだろう。そういう絵は好まれない。
量は少ないが、風景画も描いているようだ。売れているのはこちらだと分かる。確かにこいつの方向性ならその方が合っている。自然は、美化せずとも美しいものなのだから。
きっちり六十分。最後の一秒まで色を重ね続け、ゼノは筆を置いた。
「一時間だ」
「満足したか」
「うん、ありがとう」
腕を伸ばして体を緩めるゼノを横目に、俺は置いていた荷物とコートを持って戸口へ向かった。
「見ないの?」
背後でゼノが立ち上がる気配。床板が軋み、距離が近くなる。コートに袖を通しながら「興味がない」とだけ答えた。
「そう」
「ただし、他人には見せるな」
「分かった。そもそも未完成だし、売るつもりで描いてないから安心して」
扉を開ける。風が抜ける。出る間際にゼノを見やれば、穏やかに目元を緩めているばかりだ。
「むしろ、完成しなくてよかったかも」
「どういう意味だ」
「完成したら、ここに来る理由がないし」
「未完成でも来る気はない」
「そりゃそうか。一時間だけの約束だ」
俺よりも頭一つほど高い位置で、ゼノは残念そうな様子もなく笑っている。本当にこの一度だけという気持ちで声をかけ、それに嘘はないと分かる。
そうだ。
この男にはずっと、嘘がない。
絵を描く間に向けられる眼差しにも、端的に選ばれる言葉にも、不純物が混じらない。それは、俺の生きてきた世界にはなかったことだ。
「気をつけて帰ってね」
それ以上何も言わず、ゼノは俺を送り出した。
すでに約束は守られた。振り返らない。二度と来ない。これで終わりだ。
そのはずなのに。
柔らかな光と絵の具の匂い、純然たる眼差しが、俺の中に居座り続けた。




