Case002:本能
――月は、あの夜と同じように、静かに世界を照らしている。
その光が、遠くに見える街並みの影を、淡い銀色に染め上げる。
枢は、目を閉じるたびに思い出すことだろう。あの夜のことを。
彼がまっすぐすぎる眼差しで、胸の奥を震わせたあの言葉を紡いだ瞬間を。
――ボクには……貴女しかいないんだ。
迷いなく手を取り、膝をつき、忠誠を誓うように。
その瞬間、時間はまるで止まったかのように感じられた。
天ヶ瀬 玲――そう名乗った青年は、まるでずっと前から答えを知っていたかのように、片膝を付き手を取ると、十六夜 枢を見上げた。
黒髪の奥から覗く、深い蒼の瞳に宿る確信が、恐ろしいほど真実味を帯びていて、柔らかそうな髪が瞬きと共に揺れた。
枢の心は、小さく、けれど確かに動いた。
拒むべきだと思っていたのに、胸の奥が、まるで灼けるように熱くなったのだ。
手を振り払い、距離を取るべきだったのに。
それなのに、彼の言葉は、長い沈黙の奥に眠っていた何かを呼び覚ましてしまったかのように、枢を引き寄せた。
あの瞬間、枢は確かに感じたのだ。
自分が、何かに導かれるように動いていたことを。
これが運命なのか。それとも、抗えない過ちの始まりなのか。
いや、もしかしたら、それは――続きだったのだろうか。
だが、この時は何も知らなかった。
彼と出会ったあの時が、すべてを溶かし動き出すことになるだろうと――それが、逃れられない物語の始まりだと。
◇ ■ ■
そこは、どこか古めかしさを漂わせる街の一角だった。
霧の立ちこめる石畳の通りにはガス灯が等間隔に並び、琥珀色の光が淡く滲んでいる。煤と歳月に染まった煉瓦造りの建物が二階建て、三階建てと肩を寄せ合うように連なり、その一角に夜霧探偵事務所はあった。
事務所の入る建物は丸ごと所長の所有で、二階が事務所として使われている。三階と四階は従業員用の宿舎として貸し出されており、一階のテナントには現在、「forRent」の看板が掲げられていた。
「ええっ!?」
驚いた枢の声が、夜霧探偵事務所の中に響いた。
所長机に身を乗り出すようにして、迫る枢に黒羽 東真は眼鏡の端を光らせ口元に笑みを浮かべた。
「だから、十六夜くん。彼が、今日から君の相棒となる天ヶ瀬くんだよ」
所長の黒羽東真が、事も無げに言った先では、縄で縛られた玲が困ったように苦笑を浮かべている。
漆黒の髪を揺らし、枢は思わず声を裏返らせる。
「本気ですか、所長!? よりにもよって、こんな正体不明の男と?」
「ひどいなぁ。正体不明だなんて。ちゃんと、君に告白したじゃないか」
キッと睨む枢の視線の先で、場違いなほど柔らかな笑みを浮かべ、玲はヘラヘラしている。
何だか、どこか遠くを見つめるような、掴みどころのない瞳だ。
「君も既に気づいているだろうが、彼も『妖し返り』の一人だ。ただ、記憶を失っていてね。己が何者の力を受け継ぐ者なのか、本人にも分からないそうだ」
「記憶喪失? ますます、怪しいじゃないですか!」
信用できませんと、枢が疑いの眼差しを向けても、玲はにこにこと微笑んでいるだけ。
そんな彼らのやり取りを、事務所の奥から興味深々といった様子で、他の事務所の仲間が、様子を窺っている。
「君が相棒と長年契約が結べず、ずっと一人で働いてきたのは知っている。だが、この手の調査は二人一組が原則だ。それは分かっているだろう?」
「それは……っ」
反論しようとして、枢は言葉に詰まった。
この事務所に集うのは、妖し返りと呼ばれる妖を先祖に持ち、その力を持って現代に生まれてしまった者達である。
その特殊な力を持つが故、トラブルも多く。軍や警察に解決できないような特殊な案件を専門に解決するのが、この夜霧探偵事務所である。
当然、命の危険が伴う依頼も多く、単独行動を原則として禁じているのであった。
(……今までだって、相棒がいなかったわけじゃない。でも)
無謀な自分を庇って傷ついた者。気高い理想を掲げ不愛想な自分に、愛想を尽かして去った者。いつの間にか、「一人の方が、誰も傷つかなくて済む」という思いが、枢を頑なにさせていた。
明るい髪色と笑顔の青年、雷堂 光斗は、ハッカーで雷獣を妖し返り。その相棒で顔の半分を前髪で隠した物静かな薄影 澪は、諜報員で隠神の妖し返り。
柔らかな桃色髪の風見 彩羽は、精霊の女の子で薬に詳しく、所長で悪魔が祖先だという東真と組んでいる。
この事務所の中で相棒が現在居ないのは、枢だけなのだ。
「わ……分かりました。彼と相棒を組みます。どうせ、もう他に選択肢はないんでしょ」
その通りとニッコリと笑う東真に、不服そうに枢は小さく唇を尖らせた。
「鬼神の末裔、十六夜枢くん。新人の天ヶ瀬玲くん。今日からキミ達は相棒だ。いいね」
「よろしくね、枢さん」
「……勝手に呼ばないで」
一瞬でスルリと縄を抜けると、軽い調子で玲は手を差し出し。枢はそれを、何とも言えない表情で見つめ、ぷいと横を向く。
空には美しい月が昇り、どこかで狼の遠吠えが響くのであった。
◇ ■ ■
翌日。枢と玲は、雑居ビルの地下にあるBar『月影』で、下働きをしている真神 悠真に話を聞きに来ていた。
伏し目がちに笑う悠真は、細身の体躯は無駄な力が抜けていて、どこか獣を思わせるしなやかさがあった。だが、濃い灰色の髪はやや長めで、無造作に落ちた前髪の隙間から覗く瞳は切れ長。時折鋭さが過るかと思えば、儚さを常に纏い、逆に目を離せなくさせる。
整った顔立ちではあるが、頬は少しこけ、顎の線はシャープで、たぶん喋らなければとてもモテそうだ。
「えーと、狼……真神の妖し返りで、今回の事件の容疑者ですね」
「お、俺はやってないよ。確かにその日の記憶はないけど、人殺しだけは絶対にやってない!」
事務所を出る直前、二人が所長から言い渡されたのは、連続殺人事件の捜査だった。
ここ数日、この近辺の裏通りで、不可解な死が立て続けに発見されているという。いずれも夜更け、人通りの途絶えた道端で倒れており、その遺体はまるで大型の獣に引き裂かれたかのような、目を背けたくなるほど凄惨な状態だった。
深く抉られた裂傷。肉に食い込む鋭い爪の痕。そして、噛み砕かれたような歯形。現場に残された傷跡は、どれも人のものとは思えない。
さらに状況を悪くしているのは、被害者が全員あのバーの常連で迷惑客だった。事件はいずれも店を出た後、帰宅途中に起きている。
そうなれば、疑いの矛先がどこへ向くかは明白だった。
真神悠真――夜と獣の血に縁深い彼は、真っ先に容疑者として名前を挙げられてしまった。しかも、犯行が行われたと思われる時間に、悠真は何故かゴミ処理場の中で獣化して暴れており、その間の記憶がないという
「なるほど。ゴミ処理場の柵の中、ですか。……なんだか、捨てられた子犬のようで、少しそそるシチュエーションですね」
玲は口元に手を当て、くすくすと楽しげに笑い声を零した。その瞳は細められ、まるで面白い玩具を見つけた子供のような、無邪気さと底知れなさが同居する光を湛えている。
「な、何がおかしいんだよ! 俺は必死なんだって!」
慌てる悠馬をよそに、玲は優雅な仕草で顎に指を添え、事件の概要をなぞるように独り言をこぼし始めた。
「さて、整理しましょうか。被害者は三人。全員がバーの常連で、酒癖が悪く、周囲に迷惑をかけていた……いわば、街のノイズのような方々。そして、その死体は獣に襲われたかのように、無惨に引き裂かれていた」
意味深に微笑みながら、玲は悠真の身体を爪を振り下ろすかのようになぞり微笑む。
「一方で、ボクらの悠馬くんは、事件の時間にちょうど記憶を飛ばして、ゴミ処理場に収監(?)されていたと……ねぇ、枢さん。これ、あまりにも『出来すぎている』と思いませんか?」
「そうね。都合が良すぎるわ」
全てが悠真にとって不利が揃い過ぎているのだ。
「真神っていうと、月や呪いによって姿を変えるのではなく、生まれながらにして狼の姿と人の理を併せ持つ存在だったと記憶してます」
枢が言うように、真神は良く知られている通常の狼男とは違い、必要とあらば人の姿を取り、人里に溶け込むこともできるが、その本質はあくまで誇り高き狼にある。
そして真神は群れを何よりも大切にし、血のつながりだけでなく、共に時を過ごし、信を結んだ相手を家族として認めるのだ。だからこそ、人間社会に溶け込み、仕事を持ち、店に立つこともある。それは、彼らにとって、それは仮初めの姿ではなく、自ら選んだ居場所なのだから。
「俺は、落ちこぼれなんだ。何故か月を見ると色んな感情がわーっとなって、獣化しちゃうし記憶もなくなっちゃうんだよ」
「なるほど」
玲は一歩、悠真に歩み寄ると、その鼻先に顔を近づけ覗き込む。
「悠馬くん。キミは自分のことを『落ちこぼれ』だと言いましたね。月を見て理性を失い、衝動のままに動いてしまう……。でも、もし貴方が本当に理性を失って、空腹や怒りに任せて人を襲ったのだとしたら」
「だ、だからやってないって……」
「なぜ、わざわざ『質の悪い客』だけを選んで襲ったのでしょう?」
「え……? そ、それは……」
「本能で動く獣なら、一番近くにいる、一番仕留めやすい獲物を狙うはずです。それなのに、被害者はピンポイントで素行の悪い者ばかり。しかも、一人きりになったところを計画的に狙い澄まされている」
悠馬が呆然と口を崩すなか、枢も同意するように頷く。
「そうよ。理性が無くなっての犯行なら、もっと無差別に起きていてもおかしくないわ」
「まるで、誰かがゴミ掃除でもしたかのようですし……ふふ、面白いですね。家に帰るならともかく、狼が獲物を狩った後、わざわざこんな吹き曝しのゴミ捨て場に入り込んで眠るなんて。まるで、誰かに『ここで眠っていろ』と、ゴミと一緒に片付けられたみたいじゃないですか」
玲が言うように、理性を失った行動とは思えないほど、この犯人は相手を選び犯行を計画的に行ってるように思えると、枢は資料を見て唸った。
「というわけで。まずは手がかりを探しに行きましょうか」
玲が平然とした口調で提案してきたのは、意外にも薄汚れたゴミ集積所だった。
「……犯行現場からじゃないの?」
「そうですね。恐らく、犯人は悠馬くんの欠点を知っていて、利用した人物です。その人物は、悠真くんが目を覚ました時、自分でも俺がやったのかもと思い込んでくれたらと罠にかけるような相手だ。たぶん、犯行現場の証拠は偽装されているはずです」
レイは人差し指を立て、どこか挑戦的な笑みを浮かべた。
「つまり、ここなら見落としがあるかもしれないと?」
「そーゆーことです」
不満そうな表情を浮かべながらも、枢は玲の説明に納得していた。
「でも、この中から探すって……」
目の前に積まれたゴミの山に、枢は思わず溜息を零す。
いったい、手がかりと言っても、何を探したらいいのだろうか。
「犯人はここに理性を失った真神さんを閉じ込めて、アリバイを無くさせたかったのよね。ということは、ここに鍵が掛けられる人物」
「御名答」
さっそく、一同は事務所へと向かった。
◇ ■ ■
世の中は不平等だ。
ゴミ収集車が回収した街の排泄物を吐き出させながら、男は舌打ちした。
「……チッ、どいつもこいつも」
吐き捨てるように毒づいた。手にした軍手は生ゴミの汁で湿り、鼻を突く悪臭が鼻腔にこびりついている。 だが、彼にとっての本当の不快は、この仕事でも臭いでもなかった。
脳裏にこびりついて離れないのは、あのバーの暖かな光。そして、そこで不器用で失敗も多いくせに、だが店のオーナーからも、客たちから愛しげに弄られている真神悠馬の姿だ。
「神の眷属? 誇り高き狼? ……笑わせるな」
「——おやおや。随分機嫌が悪いようですね。お疲れですか、千賀谷さん?」
背後から、場違いなほどに軽やかで、鈴の鳴るような声が響いた。
千賀谷と呼ばれた男の背筋に、氷を押し当てられたような戦慄が走る。 振り返ると、そこには笑顔を讃え玲が、全てを見透かしているような双眸を向けていた。
「な、何だお前は……!?」
焦り振り返った男は、玲のさらに後ろに隣に立つ枢と悠真の姿が目に入る。
最初に千賀谷に浮かんだのは、焦り。
すぐさまヤバイと感じたのだろう。
焦燥に駆られた千賀谷は、手近なゴミ袋を力任せに投げつけると、ポケットから小型のプロジェクターライトを掴み出した。
「お前だって、同じ獣のくせに!!」
レンズから放たれたのは、不気味なほど鮮明な『満月』の映像。それが壁に投影され、悠馬の瞳に映った瞬間、彼の体内で獣の血が沸騰した。
偽りの月光に当てられ、悠真の体が膨れ上がり、理性が剥ぎ取られていく。
「あ……あぁ、アアアアアッ!!」
苦悶の咆哮と共に悠馬の姿が膨れ上がり、人狼へと変貌した。
更に、その混乱に乗じて、千賀谷が体を小さくして物影へ潜り込もうとしする。
「おっと、逃がしませんよ」
玲は涼やかにそう言うと、素早く回り込み、千賀谷の行く手を防いだ。
驚く千賀谷は、頭部と四肢が巨大な鼠へと変じた半獣化した姿で、強固な前歯と爪で襲い掛かろうとしてきた。
「どけぇ!! どいつもこいつも、不愉快なんだよッ!! 俺を汚いものでも見るような目をしやがって……。特にあんただ、真神!」
どんなに千賀谷が真面目に働いても、だれも見向きもしない。
同じ獣なのに、どうして真神ばかりが周りから慕われ助けられるのか。
何もかもが気に食わない。
人狼へと姿を変えた悠真は、理性を失い暴れており、それを何とか鎮めようと枢が必死に応戦しているが、大刀だけでは押され気味だ。
「真面目に働いても、俺には誰も見向きもしない。なのに、どうしてあんたばかりが慕われる! 何が真神だ! 狼の皮を被った化け物のくせに、どうして皆に助けられるんだよ!!」
狂ったように叫び散らしながら、千賀谷は笑う。
「見ろよ。あんたの方が、理性を失えば何人も噛み殺せる危険な猛獣じゃねぇか。だから……教えてやったのさ。あんたが本当は獣なんだって。俺と同じ、暗がりにふさわしい怪物に引きずり下ろしてやるためにさぁ!」
ゴミの山から漂う腐敗臭が、チガヤの歪んだ執念を肯定するように周囲を包み込む。
枢と玲の冷徹な眼差しと、真神の悲痛な咆哮が響く中。千賀谷は初めて自分に集まった注目を、皮肉にも悦びに浸るように受け止め笑い続けていた。
「見るに耐えないですね。あなたは性根は心底ドブネズミのようだ」
これ以上、聞く必要はないと冷徹に、玲は千賀谷を軽々と投げ飛ばし、気絶させた。
後は、暴走している悠真を正気に戻すだけ。
しかし、彼の荒ぶる力は、今の枢の許容量を遥かに超えていた。
振り下ろされる鋭い爪を血の大刀で受け止めるものの、枢の足が地面を削り、じりじりと後退させられる。
「くっ、何て力なの……!」
均衡が崩れ、悠馬の一撃が枢へ迫ったその時。
玲が音もなく割り込み、自らの腕と身体を盾にしてその爪を受け止めた。
「玲さん!?」
「ふふ、案外痛いものですね……でも、安心してください。こう見えてもボク、傷の治りが早いんです」
痛みに僅かに顔をしかめながらも、玲は優美に微笑んで見せた。
避けた彼の傷口から、枢にとって甘く陶酔を誘うような芳香を放つ血の香りが溢れる。
枢の喉がゴクリと渇きに小さく鳴ると同時に、芳しい誘惑に軽い眩暈が彼女を襲った。
「枢さん、血を……僕の血を飲んでください。今の貴方の力だけでは、彼を傷つけずに止めることは不可能です」
「だけど……私は……!」
「迷っている時間はありませんよ? このままでは、彼が街へ出て、本当の殺人を侵してしまうかもしれませんよ?」
玲の言葉が枢の胸を刺した。ここで止めなければ、悠馬は一生消えない罪の意識に焼かれることになる。枢は覚悟を決め、玲の腕に刻まれた傷口へと、その唇を這わせた。
その瞬間、枢の瞳が深紅に燃え上がるように輝く。内側から溢れる力が、彼女の力を増し、同時に世界を白く包む。
刹那、世界から音が消失した。
街の喧騒もゴミの悪臭も、すべてが虚無の彼方へと消え去り、見渡す限りの終わりなき雪原に、禍々しくも美しい紅い三日月が――否、紅に輝く大刀が空を斬る。
風も熱も凍りついたその絶対零度の世界は、枢と玲の紡ぐ共鳴結界――紅月白界。
結界内では、枢の四肢に人知を超えた身体能力が宿る。一方で、他の者は立っていることすらままならない。肺を焼くような冷気が、その生命力を刻一刻と奪っていくからだ。
振り下ろされた人狼の爪を大刀で受けても、今度は膝をつくことさえなかった。
枢はそれを軽々と弾き上げると、流れるような動作で刃を返し、一閃。渾身の峰打ちが悠馬を叩きのめし、間髪入れずに広げた血の縄が、その肉体を強固に縛り上げた。
静寂が支配する雪原の中、枢は大刀を消し、隣で悠然と佇む玲に向き直る。
涼やかな笑みを浮かべて枢を見つめる彼は、宣言していた通り、負ったはずの傷を既に完治させていた。
「ね、言ったとおりでしょ。傷の治りが早いんですよ」
あまりの異常さに、枢の口から問いが漏れる。
「君は……いったい何者なんだ?」
玲は天に懸かる紅い月を見上げたまま、つかみどころのない微笑をさらに深めた。
「ボクは貴方の相棒。――今はそれだけで、十分でしょう?」
紅い月が照らす雪原に、二人の影だけが長く、深く重なっていた。




