Case003:家族
天に懸かるは不吉な紅月。地を埋めるは凍てついた白銀の雪原。
二人が紡ぎ出した、共鳴結界『紅月白界』の世界が広がり、十六夜 枢と天ヶ瀬 玲はその中にいた。
妖怪の力は人智を超えた脅威。
妖し返りが己の中に眠る異形の力を振るうとき、固有の領域である結界を展開することができる。それは現実を浸食し、平行世界の一点を引き寄せることで生じる隔絶された空間。
感情の昂ぶりに左右されるその領域は、他者の干渉を許さぬ絶対の檻であり、妖の血を引かぬ人間には認知することすら叶わない。
だが、一人で展開できる結界の力には限界がある。
だからこそ、妖し返りは互いの命と魂を預け合う「契約」を交わし、その力を何倍にも増幅させる『契約結界』を紡ぐのだ。
しかし――。
「……答えて。どうして、あなたと私の間で『契約』が成立しているの?」
枢は震える声で問いかけた。
契約とは、信頼の形の一つだ。互いを良く知り、その根源を曝け出し、命を共有するに等しい。勿論、相性もある。
それが、名前も知らない、出会ったばかりの、正体も知れぬ記憶喪失だというこの男と結んでるはずなどないのだ。
玲が何の妖し返りかは不明だが、あの異常な再生能力を有した妖怪などいただろうか。少なくとも枢の知識の中にはいない。
枢の追及を受けながらも、玲は相変わらずつかみどころのない、薄氷のような微笑を浮かべているだけ。
「理由、ですか」
玲は一歩、枢との距離を詰めた。
紅い月の光を弾く彼の瞳が、至近距離で彼女を捉える。
「……なっ、何を」
「ボクは貴方を護るために、ここにいる。それだけでは、理由になりませんか?」
「……っ!?」
身体を退こうとするよりも早く、冷たい指先が彼女の頬を滑り、そのまま耳朶のすぐそばで熱い吐息が零れる。
「それはボクが、心から貴方をお慕いしているからですよ、枢さん」
囁きは、まるで鼓膜に直接注ぎ込まれる蜜のようだった。彼の体温、匂い、そして胸の鼓動さえもが、自分のものと見分けがつかないほど鮮明に流れ込んでくる。
「な、何を……言って……ッ」
枢の顔は、意志に反して爆発したように赤く染まった。
心臓が警鐘を鳴らし、喉が熱く乾く。自分でも信じられないほど動揺し、思考が真っ白に塗り潰されていく。
「ボクが何者か、なんて……今は些細なことです。ただ、貴方の剣になり、貴方の盾になる。この魂のすべてを、今はボクという相棒に預けてください」
玲は誘惑するように、枢の手を優しく、だが逃がさぬよう強く包み込んだ。
その物腰は優雅でさえあったが、枢が抱いた得体の知れない恐怖は、肌を焼くような甘い熱とともに、いっそうその色を濃くしていく。
――っ、バチン!!
絶対零度の静寂を切り裂き、乾いた音が響く。その音を合図にしたかのように、ゆるやかに世界が砂のように崩れ始めた。
紅い月は夜の闇に溶け、足元の雪原は湿ったアスファルトへと姿を変えて。
静かに結界が解かれ、周囲には再び、淀んだ空気の立ち込める現実の夜が戻ってきた。
◇ ■ ■
「……~~~~っ!!」
枢は朝日が差し込むベッドの上で、毛布を頭から被り、のたうち回っていた。
(な、ななな、何を考えてるのよ、あの男は! お慕いしてるとか、護るとか、耳元で……っ!)
昨夜、玲に囁かれた甘い言葉と、至近距離で見つめられた瞳。その感触を思い出すたび、顔から火が出そうなほど熱くなる。 勢い余って彼をひっぱたいてしまったが、その時の自分の掌の熱までが鮮明に蘇って、枢は枕に顔を埋めて激しく足をバタつかせた。
「なんなのよ、あいつ! なんであんな、平気な顔で……っ」
昨夜の光景を思い出すたび、心臓がうるさいほど脈打ち、視界がちかちかと熱を帯びる。
人並み外れた身体能力を持つ枢であっても、あの至近距離で注がれた熱量を、どう処理すればいいのか分からなかった。ただひたすらに、理由のつかない落ち着かなさだけが全身を駆け巡り、彼女をベッドの上で悶えさせる。
(あんなの、戦いよりよっぽど消耗するじゃない……っ!)
この胸の騒ぎをどう定義すればいいのか。答えに辿り着くのを拒むように、彼女は枕に顔を埋めて、沸騰しそうな思考を無理やり抑え込んだ。
どれほどそうやって一人で格闘していただろうか。ふと、階下から香ばしい、それでいてどこか優しいコーヒーの香りが漂ってきたことに気づく。
「……あ、コーヒー」
そういえば、今日から一階のテナントスペースを喫茶店にすることになったのだ。
探偵社のあるビルは、所長である黒羽 東真の持ち物だ。
一階が店舗用のテナント、二階が探偵事務所、そして三階以上が枢たち所員の居住スペースとなっている。
そこへ今日から新しく加わったのが、昨夜の事件で容疑者に仕立て上げられていた真神 悠真だ。彼はこれ以上、恩義のあるバーの店主を騒動に巻き込みたくないと、夜霧探偵事務所の世話になることを決めた。
とはいえ、いきなり危険な現場に連れ回すわけにもいかない。まずは見習いとして、所内の雑用から。そして、本人の強い希望もあって、一階の喫茶店の切り盛りを彼に任せることになったのだ。
何でも、喫茶店を開くことが夢だったとか。この匂いならきっと優しい味のコーヒーが出来上がるだろう。
昨夜の刺すような冷気とは対照的な、穏やかな日常の予感に、軽く笑みを浮かべ。枢は少しだけ火照った頬を鎮めると、ベッドから這い出した。
その時。枕元に置いたスマートフォンの通知音が、短く鳴った。
画面を覗き込んだ枢の眉が、ピクリと動く。
手にしたスマートフォンの画面に映っていた差出人と本文に、思わず枢は笑顔を弾ませ、今日を始めるための着替えの服に、勢いよく手を伸ばした。
◇ ■ ■
自分のデスクで、最新のニュースや依頼メールを確認するのが、東真の朝のルーティンワークだ。
そこに、今日からは淹れたてのコーヒーが加わった。
「どうぞ。お口に合うか分かりませんが」
「ありがとう。朝から美味しいものが頂けるなんて嬉しいねぇ」
タブレット端末の画面から顔を上げた所長は、湯気の立つカップを受け取って目を細めた。
おずおずと差し出されたコーヒーは、悠真の心配をよそに美味しそうな香りを漂わせている。
どこか、少し落ち着かない様子で悠真が事務所を見渡すと、集まってきた探偵社メンバーが、それぞれの席へと散っていく。
「本当に……良かったんですか? 働き口だけじゃなく、住むところまでお世話になっちゃって」
「気にすることはないさ。部屋はまだ余ってるし、君みたいに制御が苦手な人を放って置くわけにはいかないからねぇ」
そうカップを持ち上げ、軽く口にすると嬉しそうに表情を緩めた。
「それに、君のおかげで朝からこんなに美味しいコーヒーが飲めるようになった」
所長が穏やかに笑い、悠真の顔にも笑顔が浮かんだ。
コーヒーの香りに誘われたのか、一人また一人と、探偵社のメンバーが集まり。最後に、眠そうに目をこすりながら玲が降りてきた。
「……ふわぁ、おはようございます……。皆さん、早起きですね」
「れーくんは、朝は苦手っスか。最後っスよ?」
朝からやけに明るい声で、雷堂 光斗がパソコンの向こう側から声を掛けてきた。
元気だなと寝癖のついた頭をさすりながら、玲は事務所内を見渡し枢の姿を探した。だが、もう出掛けたのか彼女の姿は無く、眉を寄せる。
「あれ、枢さんは? もう仕事ですか。姿が見えませんが」
「くーちゃんなら、今日はお休みよ。『彼』に会いに行くって、嬉しそうに出かけていったわ」
大きめの鏡をデスクに広げメイクを確認しながら、風見 彩羽がひらひらと手を振って答える。
その瞬間、玲の眠気が一気に吹き飛んだ。
「――彼? 枢さんが!?」
涼し気な温和な笑顔はどこへやら。玲は目に見えて動揺し、椅子の脚に足をぶつけ、フラフラと壁に衝突した。
「ちょ、ちょっとれーくん!? 物凄い音がしたんスけど……」
「そう。毎月この日は、くーちやんはお仕事お休みするのよ」
彩羽が何やら説明していたが、ショックの大きい玲には何も聞こえていなかった。
まさか、枢に彼が居たなんて想像もしていなかったのだから。
普通に考えれば、あれだけ可愛らしい人なのだ。彼氏がいたって何もおかしなことはない。ないのだが……。
ふらふらと起き上がった玲は、上着をひっつかむと、無言で事務所を飛び出していってしまった。
残された一同は、静まり返った店内で顔を見合わせ、呆れたように肩をすくめるしかない。
「あらら……。久しぶりにお兄さんに会いに行っただけですのに、せっかちさんですわね。最後まで聞かないなんて」
ワザトだろと言わんばかりの視線が周囲から刺さる。しかし、彩羽はどこ吹く風で、にこやかな微笑を絶やさない。
彼女はただ、玲が逃げるように去っていったドアの向こう側を見つめ、まるでお気に入りの映画の余韻に浸るかのように、楽しげに微笑むのであった。
春先の街は、まだまだ肌寒い。
だが桃色に色付いた桜舞う並木は美しく、その下を歩いていた枢は銀糸に舞い落ちた一枚を摘まみ上げると微笑んだ。
久しぶりに会う兄と、何を話そうか。そんなことを考えながら歩く枢の足取りは軽い。春の柔らかな光に目を細め、彼は軽やかな足取りで目的地となるカフェのドアを潜った。
海沿いの遊歩道に面したガラス張りのカフェ。潮風にパラソルが揺れ、カモメの声がのどかに響く。
テラス席の片隅、周囲の視線を独り占めにしながら、その青年は静かに椅子に深く腰掛けていた。
艶やかな黒髪を後ろで一つに束ねた彼は、ミルクティーを思わせる柔らかなベージュのコートをゆったりと羽織っている。座った姿勢に合わせて流れる生地は、まるで外套のような優雅な稜線を描き、細やかな陰影を浮かび上がらせていた。
特に目を引くのは、テーブル越しでも存在感を放つ、独創的なフロントの二重構造だ。
ジッパーとボタンが複雑に重なり合うそのデザインは、クラシックな装いを未来的な感性で再構築したかのようで、彼の彫刻のように端正な横顔に不思議なほど調和している。
都会的な洗練を纏い、ただそこに座っているだけで一枚の絵画を完成させてしまう――そんな人を寄せ付けない圧倒的な気品が、彼には備わっていた。
彼が誰かを待っているのは明らかで、時折スマートフォンを確認し、静かにコーヒーを口へと運んでいる。
「遅くなりました」
聞き慣れた澄んだ声に顔を上げると、淡いワンピースをなびかせたルナが、少し息を切らして立っていた。
女の子の登場に、周囲の視線は一度沈むが向かいに座ればどこかしらか互いの顔を似て居ることに直ぐに気が付く。
「要兄様、随分とお待たせしてしまいましたか?」
「いいや、俺も今来たところだよ、枢」
先ほどまでの、周囲を寄せ付けない無機質な鉄壁の美貌はどこへやら、今はただ目尻を下げて、愛しくてたまらないといった様子で優しく微笑んでいる。
だが要の目の前にあるコーヒーからは既に湯気が消え、彼が相当な時間、枢を待ち続けていたことを物語っている。
何でもないように、涼しい笑みを浮かべる要に、枢は呆れたように、けれど嬉しそうに吐息をこぼし向かいの席に座った。
枢の兄である要は、有名なアイギス・ファーマという製薬研究所の中枢を担う、若き天才研究員である。
探偵社の寮に入り、自立の道を歩み始めた枢とは、現在こうして別々に暮らしている。
だからこそ、月に一度、あらかじめ決めた場所で顔を合わせるこの日は、二人にとっては兄妹水入らずの時間。いや、要にとっては、何物にも代えがたい聖域のような時間であった。
「探偵社での生活は変らないかい? 危ない目にはあってないか? 困ったことがあれば、いつでも言ってくれ。僕の力と権限で解決できることなら、何でもするつもりだからね」
若干前のめりに話す要の枢を見る視線は、慈しみに溢れている。妹が可愛くてしかたがないと言っているようだ。
「大変ってわけじゃないけど、この間は広場が凍りついちゃう事件があったわ」
運ばれてきたソーダの氷をカランと鳴らし、ルナが最近の話を楽しげに語り出す。
アイスのキッチンカーを営む氷鬼の妖し返りの女性が強盗に襲われ、パニックで広場を凍らせてしまった事件。さらには、先日解決したばかりの暴走吸血鬼事件の顛末。そして、新しい相棒の話。
「……相棒、だって?」
要はそれまで熱心に聞き入っていた顔を上げ、冷めたコーヒーカップをカチャリと音を立ててソーサーに置いた。
枢の声音に何かを察したのだろう。一人の過保護な兄として、要の瞳には鋭利な光が宿っていた。
しかし、枢はそんな兄の心境の変化に気づく様子もなく、不満そうに言葉を続ける。
「記憶喪失とかで正体は分からないし、勝手な事や無茶ばかりするし。いっつも笑っているし」
語られる不満の数々。要はそれを聞きながら、内心で不穏な結論を下し始めていた。
だが、不意に枢の言葉が途切れる。
「それに……」
脳裏に蘇ったのは、事件の余韻が残る中。玲に突然手をとられ、真っ直ぐに告げられた、あの言葉。そして口にした玲の血の味――。
それらをを思い出した瞬間、枢の白い頬が、ほのかに色付いた。
「……っ!?」
言葉を継ごうとするものの、心臓の鼓動が急激に速まり、喉の奥が熱く詰まる。
先ほどまでの勢いはどこへやら、枢は赤くなった顔を隠すように俯くと、視線を泳がせて黙り込んでしまった。
その沈黙と、妹のあまりに乙女な反応を目の当たりにした要の指先が、不穏に震えた。
「枢……念の為に確認するが、その相棒というのはもしかして男性なのかな?」
その声は、テラスに吹き込む風よりもずっと冷たく、静かな響きを帯びている。
問いかけに対し、枢が消え入りそうな動作でコクンと小さく頷いた――その、刹那。
パキィッ、と硬質な音が響いた。
要が手に取ろうとしたコーヒーカップの持ち手が、彼の指の力に耐えかねて無残に砕け散ったのだ。
(……どこの馬の骨ともしれない男が、僕の可愛い枢を、あろうことか悩ませているだと……? 万死に値する、許さん!)
内側に渦巻く激情とは裏腹に、要は薄く微笑んだ。その瞳の奥にチラつく殺気を抑えながら。
「……なるほど。少し、その男の身辺を精査する必要がありそうだ」
「え、そ、そうね。正体が分からないままなんて、良くないわよね」
微妙に噛み合っていないが、それでも兄が自分を案じていることだけは確かだ。枢は不安を打ち消すように、自分に言い聞かせるように言葉を続けた。
「大丈夫か、枢?」
「大丈夫よ、要兄様。それに、私だって結構強いんですから」
小さな胸を張る妹を眩しそうに見つめながら、要は懐から小瓶を取り出した。
「忘れるところだった。血錠タブレットだ」
「ありがとう、兄様!」
枢が無垢な笑顔でお礼を言うと、要の理性は脆くも崩れ去った。
(ああ、なんて可愛いんだ、僕の枢は! この無垢な笑顔を守るためなら、俺は何だってできる……!)
胸の内ではそんな重すぎる情熱が渦巻いていたが、表向きはあくまで優雅に、慈しむような手つきで妹の頭を優しく撫でる。
洗練された美形の兄と、可憐な妹。テラス席にいた誰もが、その絵画のように微笑ましい兄妹の別れを、温かな眼差しで見守っていた。
やがて、名残惜しそうに手を振りながら枢と別れた要は、満足げに駅へと続く道へ足を進める。
(……さて、枢を悩ませている相棒とやらは、一体どこの不届き者かな?)
彼の正体を暴いて見せると、まだ見ぬ外敵を排除すべく要は思考を巡らせる。
その時だった。枢を探しに来た玲が、逆方向からその角を曲がってきたのは。
見知らぬ男との密会――玲にとってそれは、到底見過ごせる事態ではなかった。
(枢さんに、既にデートするようなお相手が居たなんて……一体どこの害虫でしょうか……)
胸を焼くような焦燥に突き動かされ、玲は周囲を鋭く射抜くような視線で歩く。
すれ違いざまに交わされたのは言葉ではない。互いに、まだ知らぬ“敵”へと向けていた鋭い殺気だった。肩が触れ合うほどの距離で交差した二つの影は、一瞬だけ重なり合い、そして冷たく離れていく。
やがてお店の前に枢の姿を見つけた玲は、弾かれたように彼女のもとへ駆け寄った。
「心配しましたよ、枢さん」
勢いよく詰め寄る玲に、枢は驚いたように目を瞬かせる。
「あなた!? どうしてここに――」
「枢さん、あなたのいる場所なら、どこへだって駆けつけます! 一体、誰と会っていたんですか?」
その剣幕に面食らいながらも、枢は口を開いた。
「え? あぁ、あれは――」
「兄よ」と続けようとしたその言葉は、運河から一斉に飛び立ったカモメたちの騒がしい羽ばたきにかき消された。
すれ違った二人の男が、互いの正体を知る由もないまま。
穏やかな午後の陽だまりの中で、新たな波乱の種だけが、静かに芽吹いていた。




