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 家に帰って、今日受けた授業の復習をした。やっぱり数学は変な読みになってしまい、使い物にならない。くすりと笑えてくる表現もあった。それでも、今日何をやったかくらいはわかる。これはこれで、謎解きみたいでいい勉強になるかもしれない。


「ご飯できたよー」

「はーい」


 キッチンから声が聞こえた。


「アルクト、読み上げとめて」


 言い残し、部屋を出る。

 僕の家には、特別な物は何もない。廊下にも、置物や飾りなんかはひとつもなく、さっぱりとしている。どこの部屋に入ってもそれは同じだ。床に置いてあるものは、椅子やテーブル。部屋によっては本棚と、衣装ケースくらいだ。両親がそういう趣味だとか、引っ越した直後だとかではない。僕が居るからだ。障害物になりそうなものは、極力排除した。体や頭をぶつけそうな物もない。おかげで白杖無しでも、壁を伝って移動できる。親には感謝してもしきれないし、申し訳なさもあった。僕が居なければ、もっと好きな部屋にできたのではないか、と。

 左手に一枚の紙を持って、ご飯の部屋に入る。ドアを開けた瞬間、卵が焼けるにおいに包まれた。

 テーブルまでは父が誘導してくれて、席に着く。


「ありがとう」

「学校、どうだった? やっていけそうか?」


 僕は頷く。


「なんとかなりそう、かな」

「そうか、それは良かった」


 父の仕事は、車の整備士だ。農機具の修理もできるらしい。近所の人からも信頼が厚かった。

 引っ越しで一番頑張ってくれたのは父だ。給食がある高校に僕が歩いて行ける。家はシンプルな間取り。自分より家族のことを想って条件を並べ、たくさんの時間とお金を使ってくれた。朝早起きして、前よりも遠くなった職場へ向かう背中はきっと大きいだろう。そのぶん母も、早起きしてお弁当を作っている。


「お父さん。委員会に入りたいんだけど、ここに僕の名前書いてほしい」

「おぉ、いいぞ。図書委員か」


 書類を見た父は、満足げに声を上げた。きっといま、腕を組んで、うんうんと頷いているだろうな。

 カタカタとペンを走らせる音がする。

 僕は自分の名前を書けない。というより、書けているのかわからない。だから、誰かに代筆してもらっている。このほうが早いし、みんなが読めるから確実だ。


「はい、明日、忘れるなよ」

「ありがとう」


 晩ご飯はなんだろうか。母の卵焼きは大好きだから、いつでも食べたい。


「今日はなに?」

「んー? おかず」


 テーブルの上に食器が並べられていく。ご飯、味噌汁もあるだろうか。


「いただきます!」


 僕は真っ先に箸をとって、おかずとやらを口に運ぶ。

 母は名前のない料理をよく作る。だから、料理名を訊いても、おかずとしか答えが返ってこない。致し方ないことだが、ちょっと不満だ。「何か食べたい物ある?」と訊かれ、前に作ってくれた物が食べたいとき、名前がないから説明しようがないのだった。

 今日はおそらく、昨日の晩ご飯に出てきたゴボウの炒め物に肉を追加し、薄焼き卵で包んだものだ。これまたご飯が進んで美味しかった。名前は知らないけれど。


「あぁ、そうだ。体育どうだったの?」


 母が訊く。普通学校に行くと決まって、心配の種だったひとつだ。


「うん。今日はね、雨が降って中に変わったから、得点板係してた。それでもひとりじゃできないんだけどね」


 相方は、隣のクラスの桂萱くんという男の子だった。所属する野球部で肘を痛めたらしく、安静期間だと言っていた。

 今日はこれで乗り切れた。けれど、これから先はわからない。体育の授業はもちろん、体育祭や文化祭の行事物も不都合が多い。僕だけじゃなく、先生も生徒も、だ。

 特別支援学校に通っていたときは、視覚障害以外の人もたくさんいた。そんな子たちもできるスポーツがあった。覚えているのが、パラリンピックにも出場した選手が講師としてきてくれたことだ。あの時は、僕を含めて誰しもが、自分の体もまだまだ捨てたもんじゃないなと思った。


「美味しかった、ご馳走さま」


 食器を重ねて、右手で持った。左手でテーブルや壁の位置を確認しながらキ

ッチンに入る。


「そうだ、誠一郎」

「ん、なにー?」

「日曜日にでもドライブに行かないか? このへん見て回りたくて」

「うん! 行く!」


 思いがけず楽しみができた。この町には何があるのだろうと気になっていた所だった。クラスのみんなは何もないと言うけれど、そんなことはないと思う。遊ぶ場所、買い物をする場所、この地域のイオンはどんな店が入っているのか。


「お母さんも行くのー?」


 母は「えぇ」頷く。宿題は金曜日の内に終わらせたほうが良さそうだ。

 自室から着替えを持って、脱衣所に向かう。近くには洗濯機、ラッグ、片付けられたカゴくらいしかない。それらの場所を引っ越し初日に頭に叩き込んだ。父も母も勝手に場所を変えることはしない。


「はあぁ……」


 湯船につかる。改善しようと思っても、なかなかリラックスして歩くことはできない。常に強張っている僕の体は、お風呂で癒すしかなかった。

「アルクト、小説読んで」

 呼びかけると、お願いして付けてもらった防水スピーカーから返事がくる。

「かしこまりました」

 昨日はどこまで聞いたっけ。体をお湯に預けて息を吐いた。


『丸い枠の限られた空間で、絵を描くように針を動かしていく。丁寧にゆっくりと、でもスピーディーに。完成に近づいていく小鳥の絵。僕はこの鳥が完成しても飛べないことを知っている。それは無残なことだと思う。「羽にはビーズを付けようかな」糸にビーズをくぐらせて、羽を重くした。動きを制限するリードのように見えた。僕とおそろいだ、と思う。僕を笑顔にするためだけに産まれてきた鳥。僕はその鳥を、優しく撫でさする。「未来ー、ちょっとー」母の声がした。枠に収まる小さな鳥を、布団の中に隠す。その行動は、自らの首にリードを付け直す行為だとわかって。母の元に駆け寄り、笑顔でこたえる。「どうしたの?」「この瓶の蓋が開かなくて、未来とってくれる?」受け取った瓶は、茶色い液体が入っていてちゃぷちゃぷと揺れている。母の手が震えていたからなのかもしれない。僕は瓶の蓋を軽々開けた。「あら、すごいわね、さすが男の子だわ」母が笑って瓶を受け取った。母が氷の入ったコップに茶色い液体を注いでいく。こぼれるかこぼれないかのギリギリのところまで。部屋に充満する古いアルコールのにおいと、今開けた新しいアルコールのにおいが混じった。そんなことにすら気が付いていない母は、液体を一気に躰へと取り込んだ。母は生き返ったと言わんばかりに、産声のような声を発する。僕がいい子にしていれば、母の機嫌は良い。学校の成績も、運動も、家事や妹の世話も。そうすれば、母は仕事に行ってくれて、生活できるお金が手に入る。なんの問題もない。いつの間に、妹はここにいたのだろう。真奈が僕の服の裾を掴んで言う。「これ、明日までって」見ると、保護者会の通知だった。参加の可否とサインが必要らしい。どうせ行くことはないだろうが、訊かなければならない。さっき接した感じ、今日は機嫌がいい。僕は「お母さん」と小さめの声ではっきりと言う。「これお母さんに書いてもらわないといけなくて。保護者会、行くなら〇してサインしてほしい」母は、ぎろりと紙に目をやった。「なんで未来が言ってくんの」ドキリとした。嫌なところを突かれた。「これ、真奈のでしょ。なんであんたが言うの。本人が言わないと意味ないでしょ」言い訳を考えていなかった。たじろんでいると母は立ち上がり、真奈に近付いた。これから起こることを、僕は知っていている。それでも、躰は動かなかった。』

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