ほら、うちは放任主義だから。
「お前の母さん心配しているぞ」
僕がぼやくように言うと、名古がきょとんとした顔で首をかしげた。先端のチョコレートを舐めとられたポッキーが消え、ごくんと喉が上下した後、僕に問いかける。
「なんで?」
「ピアノのレッスンさぼって、こんなところにいるからだろ」
名古は小さい頃からピアノを習っているのだ。だから歌の音程が正確で、リズムも取れている。平凡な僕にはない特技。僕としては全然羨ましくないけれど、名古が人から称賛される唯一の特技だった。
「レッスンかー」
小さくつぶやき、ポッキーを口に運ぶ。笑みが消えただけの普通の表情だけれど、ひどく憂鬱そうに見えた。名古は笑顔であることが標準であるせいかもしれない。
「私、ピアノより本が好き。だって本には私の知らない物語があるもん」
「楽譜は物語だって、昔は言ってたじゃないか」
「たしかにそうなんだけどね。演奏はたまーにでいいかな。私は受け身でいい。本は読むもの、ピアノは聴くもの。そんなかんじ」
名古が目を瞑って両手を前にだす。そこにはない黒と白の鍵盤が見えた気がした。
演奏という名の独白がはじまる。
「楽譜っていうのはね、5本の線の上に音符が並んでいるの。ピアノは両手で弾くから二段セットになってる。全部で10本の線。それが紙から飛び出して、私の指に1本ずつ絡まるんだ。それで音符が流れてくると指が動く。決められた順番で、決められた鍵、全部ぜーんぶ決まっている。まるで操り人形、マリオネット。私は人間だからグラン・ギニョールかな。私はピアノも人形劇も好きだけど、だからって人形になりたいわけじゃないんだよ」
僕には理解できない表現。知らない単語。けれど彼女の言いたい事は分かる。
「もっと自由がいいなー」
つまり彼女は自由を欲しているのだ。僕がとうの昔に諦めたことを彼女はまだ諦めていない。
空を見上げて彼女が笑う。すでに演奏を終え、人差し指だけで鍵盤を弾くような投げやりな様子だった。
「こんな小さな世界じゃ飛べないよ」
笑っているのに笑っていない。それが僕の心を締め付ける。
僕は名古の持つポッキーの箱から一本取りだすと、やわかそうな薄紅の頬をつついた。
「上を向いてちゃ食べられないだろ」
確かにその通りだね、といつも通りの笑みを浮かべて、パクリとポッキーを咥える。
これでいい。名古は甘い物が好きな普通の女の子でいいんだ。そして、普通の女の子を出入り禁止の屋上で一人にさせるわけにはいかないのだ。




