用事のない生徒はすみやかに帰宅してください。
前も後ろも無くなった。
「三月うさぎ、四月うさぎ、ごっがつ、う・さ・ぎー」
風の吹きすさぶ屋上から、おかしな歌が聞こえてくる。
部活など理由がない生徒はすみやかに帰宅する時間だ。僕はそんなことを考えながら階段を上り、ドアの前で深呼吸を一つ。
「三日月うさぎ、四日でうさぎ、五月でらーびっとー」
歌っている人物は、まだ僕に気付いていないはず。彼女を驚かせるチャンスだ。
ノブに手をかけ大きく息を吸い、思い切りドアを開ける。
「桜坂名古! 屋上は出入り禁止だと、何度言えば分かるんだ!」
屋上へ一歩踏みいるのと同時に頭上から何かが降ってきた。その何かは、僕の頭頂部と衝突し、パコンと間抜けな音を立てる。それからコンクリートの床を転がり、すぐに動きを止めた。
痛みはさほどない。しかし、何が当たったのかが重要だ。動きを止めた何かはつま先をこちらに向け、無言のまま佇んでいた。
「明日も晴れだね!」
頭上から能天気な声が降ってきたが、返事をする余裕はない。僕はその何かが上履きだということに気付いてしまったからだ。
上履き、しかもその底面が僕の頭頂部を直撃した。その事実を認識した瞬間、僕は絶叫していた。
「うわぁぁぁああああああああ!!」
頭を掻きむしるように埃を払う。手で払うだけじゃダメだ! 水だ。今すぐ水で洗い流さないと!
「あっはは。やっぱりアンタだったんだね。おーっす!」
ペントハウスの上にいる少女がクスクスと笑いながら手を振っている。上履きの持ち主、桜坂名古だ。
僕は涙目になりながらも精一杯彼女を睨みつけ、怒鳴る。
「笑い事じゃない! 新品でもない上履きを人の頭上に落とすなんて、悪ふざけの域を超えているぞ!」
「そーなの?」
「当たり前だ! 上履きには教室や廊下の汚れだけではなく、中庭やトイレの汚れという汚れが付着していてだなぁ!」
「へー。あの短時間でそこまで意識しちゃう?」
「ちゃんと聞け!」
「私の話も聞いてほしいなぁ」
おもむろに彼女が取りだしたのは、水の入ったペットボトルだった。
「自販機で買った水。開封はしちゃったけど、まだ口はつけてないよ」
「ぜひともその水をよこせでございますませです!」
ばね仕掛けの玩具のようにその場へ土下座する僕を見て、彼女はまたクスクスと笑う。
「日本語、めちゃくちゃすぎるよ」
丸めた背にガツンッとペットボトルが当たる。上履きに比べてはるかにダメージが大きいがそんなことはどうでもいい。今は一刻も早く頭頂部を洗浄することが最優先だ。
制服を濡らさないよう、前かがみになって頭を洗う。
「潔癖症って大変だね。疲れない?」
からかう様な問いかけは無視。べとべとする水で洗い流し、ほっと息を吐いた。
「………………べとべと?」
ペットボトルを見る。すでに開封済みであることは知っていたが、それ以外はいたって普通の水だ。無色透明で光に透かしても異物は混入していない。水の向こう側にいる名古が得意げに微笑んでいた。
「それ、名古特製ロイヤルシュガー水」
「砂糖水!?」
全身から血の気が引いていく。顔面は蒼白なんて言葉じゃ生ぬるい。歌舞伎の隈取のような真っ白だ。
だって砂糖水で頭を洗っちゃったんだよ……? いくら気をつけていようとも、その飛沫は制服にだって付着しているはずだ。ただの水なら乾けばいいと思っていた。しかし、砂糖水なら話は別だ。
がくがくと震える僕を見て、彼女は輝くような笑みを浮かべながら、親指をこちらに向かって突き出した。
「かくし味にはなんと、国産はちみつをプラース!」
そこにいたのは、まぎれもない悪魔だった。
「お、覚えていろよぉぉおおおおお!!」
悪役のような捨て台詞を吐いて、屋上から一目散に逃げ出した。優しく追いかけてくれるのは、春風にのった桜の花びらだけだ。
残念なことに、これが僕の日常である。




