1.出会いは川底でした
アイラは殆ど完璧な公爵令嬢でした。
美貌も、家柄も、知性も、性格も。
ただ1つだけ、口にはしていない秘密がありましたが。
その運命的な出会いの時、アイラは5歳でした。
「久しぶりに休みが数日取れましたから、避暑地にでも行きましょうか」
そんな父親の鶴の一声で訪れたそこは、きちんと手入れされた木々が日の光を浴びて輝く、静謐で美しい森の中にありました。
「ここに来るのは初めてですわね……!なんて素敵な森なのかしら。それに、あちらこちらに可愛らしくて素敵な別荘が沢山あるのね。どれも素晴らしい意匠ですわ……!」
「ここは国内でも有名な避暑地だと聞いております」
「後で他の方々の別荘にご挨拶に伺った方が宜しいのかしら?」
「皆様休暇中でございますから、わざわざ挨拶などには伺わないのが不文律となっております」
公爵家の秘する花アイラ。
大事にされすぎたアイラは、同年代の子どもと遊んだことがありませんでした。
「残念ですが、仕方ありませんわね。こういった場所であれば、友達もできるのではないかと思ったのですけれど……」
「後ほど立ち寄る川には他の貴族が訪れることもございます」
「まあ……!」
アイラのしょんぼりした気分は、そこで少し回復しました。
川のそばには東屋がいくつか立っていました。
お付きの者たちがそこを整えている間、アイラは1人、川辺に近付いたのです。
「川にこんなに近付いたのは初めてですわ……!少しだけ川に足をつけてみてもいいかしら」
アイラは、その美しさに、つい靴を脱ぎました。
川面は太陽の光を反射してキラキラと輝いていました。川の水は冷たく、一気に身体が涼しくなる感覚があります。
「あっ!小さな魚が!」
夢中になり、知らず知らずのうちに川の中ほどまで進んだ時です。
「ひゃあっ」
ザブンッ
そんなアイラが川底の岩で足を滑らせたのは、本当にたった一瞬の出来事でした。
(あっ……!い、息が……!)
アイラは多少もがきましたが、水中では思うように動けません。
(どうしたら……。足が……!それに、何も見えませんわ……!)
助けを呼ぶことも出来ず、でも、今更どうすることもできず、彼女はそのまま川底に沈んでいきました。
そこにいたのがユアンでした。
美しい琥珀色の瞳に輝く山吹色の髪をした、貴族令嬢にしては少しふくよかな幼児らしい幼女。それがユアンでした。
「見た目だけはおっとりしていますのに……」
常々母親にそんな評価を貰って嘆かれていた彼女は、
「今日はサルの気分を味わってみるかな」
と森の木に登ってみたり、ある時は、
「雑草ってどんな気分なんだろ?」
と原っぱで何時間も寝転んで空を見上げてみたり、楽しく日々遊び回っていました。
その日試していたのは、川の中にいる魚たちの気分を味わうことでした。
ユアンの父親が、あまりにもお転婆な彼女に向かって、
「人間は水の中では呼吸することが出来ませんよ。魚にある鰓がないですからね」
と、親心にも忠告したのが、皮肉にも逆効果となってしまったのです。
(へー、それなら試してみないとな)
彼女がその時思ったのは、こんなことでしたから。
この日、既に何十回も川に潜っていた彼女は、父親の言は正しかったと認識していました。
ですが、(どんなに頑張っても息できるようにはならないかー)と、当然のことを、さも不思議そうに思っていました。
「どう頑張っても水中で息が出来ないなら、水中でどれだけ耐えられるかを試してみるしかないよな」
一体何のためにそんなことをするのか分かりませんが、少なくともユアンの好奇心はその一点に集中しました。
川に潜って、川面を見つめ、耐えられなくなったら上がる。
繰り返しているうちに、(川の上の方よりずっと下でじっとしてる方が楽だな)そんなことにユアンは気付きました。
まあ、気付いても、大抵の人間は実践しませんが。
「ま、川底でじっとしていた方が魚らしくもあるしな。魚が岩陰に隠れてるのはそれなりに理由があったってことか」
1人で頷いている幼児。
「川底でじっとしてたらどれだけ耐えられるか試すかー」
ユアンの好奇心は留まることを知りません。
訓練を始めるとそれに集中してしまい妥協出来なくなるのが、ユアンの弱点でした。
「まあまあ息を止めるのには慣れてきた気がする。やっぱり何事にもコツがあるな」
だからというか、何事もやりすぎというか、その日実験を始めたにも関わらず、彼女はお昼頃にはだいぶ長く息を止めていられるようになっていました。
「そろそろお腹空いてきたし最後にするかな」
ユアンがこう独り言を呟きながら川底に潜ったのは、アイラが足を滑らせるほんの1分ほど前のことでした。
ザブンッ
(ん?なんか派手な飛沫が上がったな)
ユアンの見上げていた水面に飛沫が上がった途端、川の中にキラキラしたものが沈んできたのです。
(うわ!勿体無い!川に物を捨てるならまだ山の中に捨てた方がマシだろ!水に濡れたら売れないし!)
アイラの銀色の髪は、川の中でも光を受けてキラキラと輝き、どんな魚よりも存在感を放っていました。
(銀色……人形か……?いや、動いてる!)
ユアンはすぐに認識を修正し、川底の石を蹴ってアイラの方へと向かいました。
(危ねー!ただの人形だと思って放置するとこだった!人なら助けなきゃな)
ユアンが川の中にいたことこそが、公爵家にとって最高の幸運だったと言えるでしょう。
(落ちたか?落とされたか?とりあえず水面まで運べば誰かどうにかしてくれる事を願うしかないな)
ユアンはアイラの体形を見て、(私だけで引き上げられる獲物じゃない)と瞬時に判断しました。判断は釣り基準でしたが。
ユアンは、沈んできた彼女に下から近づくと、ゆっくりと背中から押し上げました。
(鳥にしろ、獣にしろ、大概は背中が弱点だからな。こうすりゃ安全に押し上げられる)
まさかの狩り基準でした。
(うわっ!これドレスか?ドレス重すぎだろ!こんな服で川に入るアホがいるか?)
水面まで押し上げる途中、眉間に皺を寄せながらユアンが考えていたのはこんなことでした。
(服が水に浸かったら重くなるのは常識だろ!そんなことも知らないのか?こいつ絶対貴族かなんかだな)
ユアンは更に腕に力を込めます。
(重……すぎ……!川に、こんな無駄に布がついてる服で来るなよな!)
心の中では文句の嵐でしたが。
(自然の中じゃ風にも水にも流れに逆らうのはまずいからな。上にだけ集中、集中……!)
背中からしっかり両手で掴まれて押し上げられたアイラは、まるで甲羅を掴まれた亀のような状態でしたから、どんなに手足をバタつかせても、掴んでいるユアンにしがみつくことは出来ません。
水難事故では、大抵溺れた側が助ける側を必死に掴むため、どちらも亡くなることが多いのです。
(こいつ暴れすぎだろ!陸に上がった鯉かなんかか?)
ユアンの方はバタついているアイラに対して、少し苛ついていました。
(何かに掴まれていますわ!どうしましょう!引き摺り込まれて死んでしまうのかしら……)
片や、アイラはこんな事を思って暴れていたのです。
(お父様!お母様!助けて!)
そのどちらでもなく、見知らぬ野生的な幼児がアイラを助けようとしていたのですが、そんな事、誰が想像出来るでしょうか?
(あら?息が……出来ますわね)
息ができるようになっていることに気付いたアイラは、流石に少し落ち着き、手足を弛緩させました。
(こいつやっと静かになったな。助かったー!暴れる鯉も押さえ続けるのはしんどいからな。かといって見捨てるのもなあ……)
ユアンも流石に消耗し始めており、これ以上腕に力を入れることができません。
(川ってもしかして浮きやすいのかしら?)
ユアンが必死に押し上げてくれているとは知りもしないアイラは、ようやく落ち着いたかと思えば、呑気なことを考え始めていました。
「アイラ様!大丈夫ですか!?」
「お怪我は!?」
ようやく近づいてきたお付きの者たちに、アイラは抱え上げられました。
アイラが川で足を滑らせてから、もう3分以上経っています。
「え、ええ……ありがとうございます」
アイラはようやくホッとしました。身体中からエネルギーを吸いとられたかのような気分です。
(私……、私、助かったのですわね……!)
「気付くのが遅くなって申し訳ありません!」
「助かったのですから構いませんわ……」
その時、川からユアンが出てきました。
(いやー、しんどかったわ。そろそろ限界だった。水中耐久はまた今度だな)
いくらユアンでも流石に、かなりの体力を消耗していました。
そして、まるで河童のようにその下から出てきたユアンは、今更わらわらと集まってきたお付きの者たちを見て、なんとなく苛つき、こう叫んだのです。
「なー!あんた達!私がいなかったらその子は今頃水底にいるって分かってんのか?小さい世間知らずのお嬢様なんだから、少し水場に慣れさせてから川に連れて来なよ!」
お付きの者たちは目を丸くしました。
「どうせあんた達、貴族なんだろ?家にプールもない程度の貧乏貴族とか?それでも風呂ぐらいならあるよな?貴族の使用人が風呂で幼児から目を離すような仕事してんのか?」
見ると、貧相で簡素な下着のようなものしか身につけていない、頭からつま先までずぶ濡れの幼児が、肩を怒らせながらこちらを睨んでいるではありませんか。
(この子がアイラ様を助けてくださったのでしょうか?それとも一緒に溺れただけでしょうか?まさか川に落としたわけではありませんよね……?)
お付きの者たちは、アイラが溺れるところを見ていませんでしたから、判断がつきませんでした。アイラが極悪人だった場合、ユアンは危うく犯人にすらさせられる可能性まであったのです。
でも、ユアンの怒りは至極全うでした。2人の幼児が死ぬところでしたから。
むしろ、そんなに体力を消耗していたのに叫ぶ体力が残っていたことを褒めるべきでしょう。
「アイラ様を助けていただきありがとうございました」
あまりにも失礼で大胆な物言いに、お付きの者たちは、(これだから田舎者は……)と苦々しくも思いましたが、能力の高い彼らは、そんなことは口にしませんでした。
「ほんとに分かってる?そのドレスは川に入るのに向いてないよ」
「はい、勿論でございます」
お付きの者たちは慇懃無礼に対応しました。
(なんだこの偉そうな幼児?)と思っていたからです。
ですが、(もし上級貴族や王族のご落胤であったら大変ですから、ここは念の為畏っておきましょう)とも思いましたから、丁寧な対応を心掛けました。
「ねえ、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいかしら?」
「アイラ様!?」
アイラは、(こんなに小さな子が私を助けてくださったのですね……!しかも物凄く元気ですわ……!)と感動していました。
確かに元気です。間違いありませんでした。
その時、ユアンは初めて真正面からきちんとアイラを見て、目も口も丸くしました。そこには今まで見たこともないほどの美しい人形……のような幼女がいましたから。
(なんだこのキラキラした生き物!?)
でも、次に思ったのは、(やべ、こりゃ流石に上級貴族だな)ということだったのですが……。
「ユアン」
ユアンは下を向き、一言だけ答えました。
「まあ、ユアン様とおっしゃるのね!ユアン様のご家名もお伺いして良いかしら?」
「ただのユアン」
ユアンは完全に庶民のふりをしました。
(やばいやばい、まずいことにならないように、庶民のふりでもしとこう。貴族じゃなきゃ、こいつが上級貴族だったとしてもギリ許されるだろ。幼児だし)
「ご家名はおありにならないの?」
「……」
アイラが再度聞いても、ユアンは口を固く閉ざしたままです。(上級貴族と王族には注意しろって、おやじに散々言われてるからな)
ユアンの父親は賢かったと言えるでしょう。確かにユアンは、無自覚にも上級貴族の前で無礼な物言いをしたわけですから。
(庶民ならまだセーフ。たぶん)
ユアンは目を逸らしていました。
(見た目からすると、どこかの貴族の方のご子息だと思うのだけれど……)
アイラはジッとユアンを観察しました。
よく見ると顔自体はわりと整っていますし、髪も肩ほどまでで切り揃えられており、おっとりした容姿にも関わらずふてぶてしい態度。
(恐らく貴族子息かそれに連なる者でしょう)
アイラはこのような貴族子女を見たことがありませんでしたから。
もし貴族の子女であれば5歳にもなると体形や服装を気にしてある程度心掛けますが、ユアンはどう見ても頓着していません。
実際、ユアンはそんなこと全く気にしていませんでしたから、そこは正解なのでしたが。
「そう、それならユアン様。私からも改めてお礼を申し上げさせてください」
「アイラ様……このような者にそんなことなさらずとも」
「いいえ、助けていただいたのは事実ですもの。私はユアン様がいなければ、あのまま神のところまで運ばれてしまっていたでしょうね」
お付きの者もとうとう口を噤みました。そんなことになれば、確かに彼らの失態です。ここに来ているお付きの者たち全員が物理的に首を切られてもおかしくはありません。
「別にいい」
ユアンはぶっきらぼうに答えました。
その物言いも、性別を勘違いされる原因でした。
「次からは不用意に川に入らないと約束いたしますわ」
アイラがそう言うと、ユアンは軽く頷き、その場を後にしました。
(あー、お腹すいた。早く帰らないと。それに、こいつらの前にあまり居たくないしな)体力をだいぶ消耗しているのは事実でした。
(やばかったなー。ありゃ間違いなく上級貴族だ。銀髪、碧色の瞳。どこの貴族かな……)
彼らから離れた木陰で、ユアンは少し疲れた様子で下品にも身につけている下着を脱いで雑巾のように絞ると、また着ました。
ユアンはまだ、大して貴族としての幼少教育を受けていませんでしたから。
それに、近所の下町の子どもとばかり遊んでいたため、いつの間にかこのようになったのです。全てを両親の教育のせいにするのは酷でした。
「先ほどのユアン様のご家名を調べてくださらないかしら?」
別荘に帰ると、アイラはお付きの者たちに言いました。
「ですが、あれはあの地域の農民の子なのでは……」
「いいえ。あの山吹色に琥珀の瞳。薄くてとても綺麗な色ですもの。絶対に貴族のご子息か、そのご落胤ですわ。探していただきたいのです」
「承知いたしました」
「いえ……、もしかしたら女性かもしれないですわ!その線でもくまなく探してくださいませ」
この時点できちんと性別の勘違いの可能性に気付いたアイラは、やはり優秀と言えるでしょう。
そして、それから数日後、アイラの元に報告が届きました。
「やはり貴族の方だったのですね!ユアン様は男爵令嬢……!女性なのですね!」
お付きの者たちは川で一瞬アイラから目を離してしまったとはいえ、身体的にも、情報収集などの知識的にも、きちんと教育されていたのです。
そんなこととは知らないユアンは、その日も、
「どこまで細い枝まで登れば折れるかなー」
木に登って、こんな実験していたのですが……。
まさかアイラに数分で庶民ではないと見抜かれ、男児ではない可能性にまで辿り着かれるとは、つゆほども思っていませんでした。
「やはり皆様は優秀ですわね。こんなに早く彼女の身元が判明するなんて」
「男爵家に抗議いたしますか?」
「いいえ。私はあの方を気に入ったのです。それに、助けていただいて抗議するなど、そんな恥知らずなことは出来ませんわ」
「しかしあの物言いは……」
「まだ貴族としての教育を受けてらっしゃらないのでしょうね。そういう下級貴族も多いと、この間の授業で学びましたもの」
「ではこのまま放置されるのですか?」
「私、あの方を気に入ったのです。調べましたら、下級貴族の方は上級貴族の屋敷に行儀見習いとして侍女や執事になることもあるとのこと。5歳は少し早いですけれど、違法でもないと分かりましたの」
「では……?」
「私、あの方を公爵家の侍女として迎え入れますわ!」
こんな驚きのヘッドハンティングを、ユアンは予想もしていなかったでしょう。
「明日の朝、朝食の時間にお父様とお母様にお願いしてみます。あなたたちもどうか彼女がこちらに来られたら、優しく教えてあげてくださいね」
「承知いたしました」
そして、次の日の朝、
「お父様、お母様、お願いいたします。どうか、このユアン男爵令嬢を、私の侍女にしていただけませんか?」
アイラはユアンの調査書を提示しながら両親にお願いしました。ちょっとだけ上目遣いも意識しながら。
「こちらが身元調査書になります。年齢、家名、性別。何もかも、我が家の侍女に迎え入れるのに問題なさそうでしたわ」
「まだ5歳の男爵令嬢だそうですね」
「アイラ、そんな幼い者よりも既に雇っている我が家の使用人の方が余程優秀だと思いますよ」
母親は心配そうに、父親は少し眉間に皺を寄せています。
「幼い頃から教育を始めた方が良いというのが、お父様やお母様の考え方ではないですか。現に私はこうして既に教育を受けています。私はそれを幸せなことだと思っておりますわ。ですから、私を助けてくださったあの方にもそうして差し上げたいのです」
「アイラ……」
「あなたは本当に優しい子に育ちましたね」
アイラは両親をどう説得すれば良いかもきちんと理解していました。これは教育の賜物ではなく、元々の素質であったと言えたかもしれません。
賢さは遺伝が全てではなくとも、遺伝の影響も多分にして受けるのです。
「5歳であっても、行儀見習いであれば採用に違法性はないと理解しましたわ」
「確かにそうですね。行儀見習いは我が国の、資金が厳しい貴族たちへの救済処置ですから」
「それに、彼女の勤務スケジュールも給金も、きちんと私が調整いたします」
「そこまでとあればいいでしょう。将来の役にも立ちますからやってみるのは悪くありません」
アイラの両親は、やれやれ、という顔をしました。
普段あまりわがままを言わない彼女の強い要望でしたから、よほどの思い入れがあるのでしょう。
アイラにとっては、これが初めての自身による従業員……ひいては侍女の雇用でした。
(権力、財力、知識はこうやって適切に使わなければ国のためになりませんわよね)
アイラにとって、ユアンは国と同列になっていました。歩く国家、ユアンが爆誕していたのです。アイラの価値基準では。
(全て合法、問題ありませんわ!)
そうしてアイラは、無事にユアンを公爵家の侍女として迎え入れました。
その後、アイラはユアンとの出会いを回想するといつも微笑んで、
「自身も裕福ではない男爵家の娘でしたのに、私の命の危機に怒って、私を護衛すべきお付きの者たちに、おまえら貧乏貴族か?と憤ってくださったあの時のユアン様は、今思い出しても、とても素敵な王子様だったと思いますの」
と頰を染めました。まるで昨日のことのように。




