22 光
ヒエイは、ある風景をみていた。はじめ夢を見ているのかと思い、ひょっとしたら自分はもう死んで、そこはあの世とやらではないかとも思ったが、そのどちらでもないことにすぐに気づいた。夢にしてははっきりしていたし、あの世にしては現実的過ぎたから。なにせそこはあのマキ村の、あの小太りの親父さんの店先だったのだ。
薬屋の店先の路地で、親父さんは数人の役人風の男と話をしていた。ひょっとしたらハヤーの死について事情聴取を受けているのかもしれない。本人は大丈夫だと言っていたが、あの夜の出来事を考えればアンジュが一番怪しく、彼女を連れてきた親父さんが疑われるのは当然のことだ。
大丈夫だろうか。と、心配しながら眺めていると、程なく親父さんは解放された。役人たちの顔つきは穏やかで、親父さんものんびりとした様子だ。どうやら嫌疑は晴れたようだ。
役人たちを見送った親父さんは額の汗をぬぐうと坂道の真ん中まで進み出、山を見上げた。
「あいつら。今頃、どこらあたりにいるかな」
そう言って目を細める。そして突然手を組み合わせ、祈るように頭を垂れた。
「どうか……あいつらが、無事に山を越えますように」
突然場面が切り替わる。
そこもまたマキ村の一角だった。村はずれの小さな家の、小さな庭。その庭の隅で、若い夫婦が墓石に向かい手を合わせている。祈り終わって顔をあげた彼らの視線の先には、やはり山がそびえていた。
次にヒエイの前に現れたのは薄暗い部屋。窓際にベッドが置かれ、そこに横たわった老人が、外の景色を見上げていた。
まるで走馬灯のように、ヒエイの見る風景は次から次へと切り替わっていった。
そのどれもが、あのマキ村に住む人々の生活の一場面だった。窓辺に布団を干す主婦。道で遊ぶ少年。畑を耕す夫婦。窓辺で本を読む淑女。ハヤーの館で警備にあたるスタッフ……。それぞれ年齢も性別も立場も違う人々。あの村に住む人々の、しかし共通する姿。空を隔てるあの山を見上げ、あの山を越えたい、もしくは越えようとする人が無事それを果たしてほしいと、願う姿だった。
いつか越えたい。
あの向こうに行ってみたい。
お父さんはあそこを目指したんだ。
僕も目指す。
私も行くよ。
越えよう。
越える。
行こよ、いつか。
……いや、明日にでも。
ヒエイの視界に光が満ちて白く染まる。白い世界に彼らの声がこだましている。声たちは混ざり合い、いつか風になって彼の頬をなで背をさすった。
ヒエイは目を見開いた。歯を食いしばって立ち上がる。腹は痛い。視界もぼやけている。しかし不思議なことに体はすこぶる軽かった。
「へえ。立ち上がったのかい。根性あるね。でも、むだなあがきだよ」
メンフィスが、嘲るように言う。
「結局君は、手も足も出せずにやられるんだ」
メンフィスの姿が再びスージーのそれになる。
しかしもう、スージーの姿を見てもヒエイは動揺しなかった。
「それが、どうしたというんだ。確かに僕たちはスージーの姿をしたお前に手も足も出ない。でもね……」
ヒエイは目を閉じて大きく息を吐く。胸に渦巻くイメージが、喉から脳へと駆け抜ける。山のふもとの村。そこに生きる人々の祈る姿。願う声。それらが風となって山の斜面をかけのぼり、お花畑を吹き抜けていく。
「風にはごまかすことはできない。風を惑わすことはできない。どんなにスージーの殻を被ったところで、風の前ではお前の本性は筒抜けなんだ。風は、お前の意図など無視して自由に、どこまでも吹いていく」
ドッと地鳴りが響き、広大なお花畑のいたるところから風が吹きあがった。地面から淡い半透明の光が沸き上がる。それは波打ちながらぐるぐると渦をまき、やがて生き物のようなはっきりとした形へと変化していく。
「な……なんだこれは。蛇か? いや、これは……」
メンフィスは、恐怖に顔を引きつらせている。スージーとしての演技も忘れ、泣きまねをすることも忘れ、唖然とお花畑に渦巻く緑の光を眺め、そして驚きに目を見開く。
「これは……龍!」
メンフィスが言ったと同時に、それまで雌伏していた緑の光が突如空へ向かって吹きあがった。それは大瀑布が逆流するかのような勢いで、さながら半透明の龍が空へと昇っていくがごときだった。
いったん空に舞い上がった龍は、上空をひとまわりしてからまた降下してきた。その巨体をうねらせ、花々をまき散らしながら、メンフィスへと襲い掛かる。
「そんな……ばかな」
メンフィスを鎧っていたスージーのメッキが、花弁のように剥がれ落ち、散っていく。
「僕が、負けるなんて」
青白い少年の口元がその時吊り上がり、不吉な牙が光を放った。
「でも、結局君たちの負けだよ、お客さんたち。君たちは結局山を越えられないんだから。僕のつけた傷は深手のはず。結局ここで君たちは終わりなんだ」
しかし少年の邪悪な笑みは、すぐに驚きにひきつった。自分が倒したはずの三人の姿が地面になかったから。仰ぎ見ると、彼らの姿は空中にあった。正確に言うと、今まさに自分を飲み込もうとしている半透明の龍の背に、乗っているのだった。確かに刺し貫いたはずの傷は消え、その体からは血の一滴も流れていない。三人とも笑いながら、もはやメンフィスのことなど歯牙にもかけずにただ目の前の空を見上げている。
「そ……んな。な……ぜ」
メンフィスの顔が醜くゆがむ。その次の瞬間、彼の体は龍に飲み込まれ、激しい風の圧力により四散して消えた。
○
「がはは。すごいなこれ」
アトラスが、ヒエイの右隣で豪快に笑った。
「ほんと。どうなってるの? これ」
ヒエイの左隣で、アンジュも声を弾ませる。緑に光る半透明の生物の背を恐る恐る撫でて、彼女は物珍しそうに周囲を見渡した。
「私たち、飛んでるの?」
「ああ。そうだよ」
ヒエイは下方を流れていく斜面を見おろしながら答える。お花畑はとうに過ぎ、今下に見えるのは先程見上げていた岩肌だ。
「これって、龍だよな。ヒエイよ。お前、こんな秘術も使えたのか」
「傷もすっかり治ってる。あんた、すごいのね」
「すごいのは、僕じゃないよ」
ヒエイは顔を上げた。ここ数日、ずっとはるか彼方に見上げていた国境の峠が、みるみるうちにせまってくる。期待と確信に胸を膨らませながら、彼は言った。
「みんなが……運んでくれたんだ」
視界が突然ひらけた。
それと同時に光が……今まで見たこともないくらいに眩しく豊かな光が、見渡す世界いっぱいに満ち溢れた。
「越えたぞ!」
アトラスが叫ぶ。
「きれい……」
アンジュがうっとりとつぶやく。
ヒエイは言葉を発することもできず、息をのんで彼らと共に、食い入るように目の前に広がる景色に見入った。
そこにはいつも彼らの頭上に垂れ込めていた雲がなかった。信じられないほどに青い空がどこまでも広がり、光が、大地の至る所に降り注いでいた。空の色。森の緑。大地の色。すべての色が鮮やかで印象的だった。
色彩溢れる世界を見つめながら、やっと一言、ヒエイは絞り出す。
「越えたんだ」
その言葉に、彼の両隣の仲間もうなずいた。アトラスは力強く口を引き締め、アンジュは目を指先で拭いながら。




