第2話 3分間の契約と、スーツを着た魔導宰相
病室の空気が、奇妙な静寂に支配されていた。
先ほどまで僕の心臓を物理的にも精神的にも圧迫していた、専属ナース・セリアによる豊満な窒息アタックの余韻は、冷房の微風によってようやく霧散しつつある。
だが、僕の平穏は一秒たりとも戻ってこない。
目の前には、仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを完璧に着こなした銀髪の青年――異世界の魔導宰相、クロード・ヴァルツ。
ベッドの上の僕――神代蓮司。
そして僕の頭蓋の奥底には、セリアが退出した瞬間に『ぬおおお! あやつが四天王のセリアじゃったとは! 知っておればもっと肌を合わせよと命じたものを!』と僕の脳内で頭を抱えてのたうち回っている前魔王の魂、バアルゼブル。
三者三様の思惑が交錯する中、クロードは手にしたアタッシュケースから、分厚いファイルを音もなく取り出した。ベッドの可動式テーブルの上に、ミリ単位の狂いもなく真っ直ぐに滑らせる。
艶やかな黒のレザークリップファイル。そこに銀の箔押しで印字されたタイトルは、極めて事務的かつ無機質なものだった。
【対異界侵食危機管理計画書兼・四天王現代社会定着プログラム(極秘)】
「……なんだ、これは?」
「異世界と此方の世界における、合法的共生スキームの概要書でございます」
クロードは眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、淀みのない声でプレゼンテーションを開始した。その佇まいは、外資系コンサルティングファームのシニアマネージャーそのものだった。
「前魔王様の魂が蓮司様に宿られる兆候が観測され始めた時期に、異世界に残留していた四天王、および魔王城の次元制御コアが強制的な転移を起こしました。幸いにも肉体の損壊はなく、我々四天王の全戦力は現在、この神代総合病院の周辺半径500メートル以内に散開を完了しております」
『おお! クロードよ、余の可愛い四天王たちも無事だったのか! バルガの筋肉はどうでもよいが、ルルの安否はどうなっておる!? あの小ぶりで愛らしい尻尾と、モフモフの耳は無事じゃろうな!?』
「前魔王様、不規則発言はお控えください。議事録が汚れます」
『ぐぬっ……!』
脳内で騒ぎ立てるエロ爺を、クロードは蓮司の瞳を直視したまま完全にシャットアウトした。かつての主を「厄介なクレーマー」のようにあしらうその手腕には、一切の躊躇がない。
「セリアにつきましては、先ほどご覧いただいた通り、看護師としてすでに病棟へ潜入済みです。彼女の暗殺・諜報スキルは、患者の微細な体温変化や生体異常を察知するのに極めて有用であり、看護師長からも『手際の良すぎる新人』として絶大な評価を得ております」
「……彼女の胸元が開きすぎていて、僕の心拍数が限界突破しかけたんだが」
「セリア特有の精神弛緩フェロモンが過剰分泌されていたようです。後ほど厳重注意の社内通達を入れておきます。……さて、問題は今後の我々の活動維持費および社会的身分の確立についてです」
「まあ、あまり怒らないでやってくれ。彼女には悪気がなかったんだから。……あの質感には驚いたけど、嫌ではなかったからね」
『ほう? なんじゃ小僧、貴様も案外イケる口ではないか! ふはは、男の血は争えんな!』
「うるさいぞエロ爺。……それでクロード、問題というのは?」
クロードが滑らかな手つきでページをめくった。
そこに並んでいたのは、僕の想像を遥かに超えた生々しい行政書類の数々だった。
「蓮司様。此方の世界の構造を数日かけて調査いたしましたが……誠に素晴らしい。この世界は暴力ではなく、『法』と『紙切れ』と『電子情報』によって完全に統制されております。戸籍なき者は不法滞在者として治安組織に拘束され、金銭なき者は住処も食糧も得られず飢餓に陥る。極めて合理的かつ冷徹な支配システムです」
「……君、その書類はどうやって手に入れたんだ?」
「私の影魔術は、電子データの改竄および物理的な書類偽造において極めて高い親和性を誇ります。市役所の基幹サーバー、法務局の戸籍データベース、ならびに国税庁のシステムへ微小な影の魔力回路を侵入させ、我々4名の正規住民票、個人番号、および過去20年分の納税証明書を正規フォーマットにて登録完了いたしました」
クロードは何気ない口調で、国家に対する重大なサイバーテロを事も無げに報告してみせた。
僕は思わずこめかみを押さえる。
「……ハッキングどころの騒ぎじゃないな。完全な国家中枢への侵入じゃないか」
「証拠は一切残しておりません。監査ログはすべて自動修復されております。さらに、神代総合病院の理事長――蓮司様の叔父上にあたる神代宗一郎氏の端末に影を走らせ、我々の採用稟議書を電子承認させました。これにより、四天王全員が合法的な労働対価を得られる体制を整えております」
クロードが提示した給与明細および雇用条件のページに、僕は目を落とした。
参謀・クロード(魔導宰相): 院長付特命秘書兼・医療法務アドバイザー。年俸960万(固定残業代含む)。
将軍・バルガ(鬼人族軍団長): 病院搬送センター・資材荷揚げ主任。月給22万円(交通費全額支給、社会保険完備)。
諜報・セリア(夢魔・暗殺頭領): 特別病棟専属看護師。月給34万円(夜勤手当・危険手当含む)。
殲滅・ルル(有翼獣人): 病院1階売店・レジ打ちアルバイト。時給1100円(制服貸与、昇給あり)。
『魔王軍の軍団長が時給1100円で働いておるのかぁぁぁっ!?』
脳内でバアルが両手で頭を抱え、絶叫した。
『なんたる屈辱! 我が魔王軍の誇る一撃必殺の焦熱爆撃機、数万の敵軍を更地にした殲滅のルルが……人間の小銭のためにレジ打ちじゃと!? バルガの筋肉も22万ぽっちで荷物を運ばされておるではないか! クロード、貴様、魔族の誇りはどこへやったのじゃ!』
「誇りでは電気代もガス代も払えません、前魔王様」
クロードは一切の感情を交えず、氷のような冷徹さで言い放った。
「此方の世界で無一文のまま暴れれば、警察と呼ばれる治安部隊に拘束され、精神鑑定ののち一生を鉄格子の向こうで終えることになります。魔王軍の軍規においても、『郷に入っては郷に従え』は兵站戦略の基本。彼らには此方の世界の資本主義社会の厳しさと、労働の尊さを身をもって学んでいただいております。ちなみにルルは『ピッてやると音が鳴るのが楽しい!』と大変ご満悦で勤務しておりますので、何ら問題ございません」
「……その姿が、目に浮かぶようだ」
会ったこともないケモ耳少女の様子が、容易に想像できてしまった。
僕が小さく苦笑すると、クロードは満足げに頷き、眼鏡の奥の怜悧な光を鋭く研ぎ澄ませた。
「さて、生活基盤の報告は以上でございます。本題に入りましょう、蓮司様」
クロードが指先を一閃させると、テーブルの上に置かれたクリアファイルから、淡い青紫色の光が立ち上った。
プロジェクションマッピングのように虚空に浮かび上がったのは、神代総合病院を中心とする半径5キロメートルの立体的な魔力流動図だった。病院の敷地を取り囲むように、幾重もの幾何学模様が結界として展開されている。
「これは……病院の敷地データと、大気中の魔力密度のヒートマップか?」
「ご慧眼、恐れ入ります。……蓮司様、貴方様はご自身の肉体が置かれている真の状況をご存知でしょうか」
「僕の身体? 単なる遺伝性の神経・免疫異常の難病患者だ。外出もままならず、激しい運動をすれば心停止を起こす欠陥品だよ」
自嘲気味に答える僕に対し、クロードは静かに首を横に振った。
「いいえ。貴方様の肉体は欠陥品などではございません。あまりにも高次元のエネルギー受容体に特化しすぎたがゆえに、この世界の希薄な大気ではバランスを崩していたのです。そして今――前魔王様の魂を受け入れたことで、貴方様の肉体は両世界を繋ぐ【生体次元アンカー(固定楔)】として覚醒いたしました」
「生体次元アンカー……?」
「左様でございます」
クロードは空中に浮かぶ立体図の、ちょうど僕の病室にあたる中心点を指し示した。
「現在、異世界と此方の世界は、見えない次元の歪みによって衝突の危機に瀕しております。その歪みを一点に引き受け、緩衝地帯として受け止めているのが、この特出病室――そしてベッドの上に鎮座する蓮司様ご自身なのです。もし貴方様がこの病室から一歩でも外へ出れば、空間の歪み係数が崩壊し、病院を中心とした街全体が異世界の魔力暴走に呑み込まれることでしょう」
「……」
僕はベッドの上で、自分の細い指先を見つめた。
一歩も病室から出られない。
幼い頃から僕を縛り付け、同年代の少年たちと同じ空の下を走ることを禁じてきたこの呪わしい身体の足枷。
それが――世界を救うための絶対の防衛線だというのか。
(……なんだ、それなら話は簡単じゃないか)
僕の唇の端が、無意識のうちに微かに吊り上がった。
「つまり、僕はここから一歩も出ず、ふかふかのベッドの上で毛布にくるまりながらゲームでもしていれば、それがそのまま世界平和に貢献している……そういう理解でいいんだね?」
『ぬっ!? 小僧、なぜそこで嬉しそうなんじゃ!? 男ならば外へ飛び出し、広大な大地を駆けて武名を轟かせたいと思わんのか!?』
「思わないな。ネット回線と最高スペックのPC、快適な空調と清潔な寝具があれば、人間は病室から出る必要性など皆無だ。外出など、紫外線と花粉と交通事故のリスクを背負い込むだけの非合理的行動だよ」
『き、究極の引きこもり気質じゃあ……! 余の器がこのような根暗ゲーマーだったとは……!』
脳内で絶望の叫びを上げるバアルを無視し、僕はベッドサイドの特注PCのコンソールへ手を伸ばした。
クロードが展開した魔力ホログラムの数値を読み取り、僕の量子サーバーへ直結させる。
「クロード、君の魔術式と、僕のサーバーのセンサーネットワークを統合できるかい?」
「ほう……? 異世界の魔力波形を、此方の機械言語に変換なさるおつもりですか?」
「可能だ。エネルギーの周波数を数値化して、防犯カメラの映像データとバイタルセンサーのログに重ね合わせるだけだ。ほら、できた」
エンターキーを静かに叩く。
壁面の大型マルチディスプレイに、神代総合病院の俯瞰マップが鮮明に映し出された。
そこには、搬送センターで巨大な酸素ボンベを片手で軽々と持ち上げているバルガ、1階売店で楽しそうにバーコードを読み取っているルル、ナースステーションで涼しい顔をしてカルテを整理しているセリアたちの生体波形やステータスが、リアルタイムストラテジー(RTS)の味方ユニットとして情報閲覧が可能な状態でグラフィカルにマッピングされていた。
「……素晴らしい」
クロードの眼鏡の奥で、知的な賞賛の光が灯った。
「これならば、現場に出向くことなく、病室のモニター上から四天王の配置と防衛線をリアルタイムで采配することが可能ですね。まさに安楽椅子の魔王様だ」
「指示はすべて君の内線と暗号化チャットで出す。僕の手足となって、完璧に盤面を制圧してくれ」
「御意のままに。我が主」
クロードが深々と頭を垂れた。
完璧な指揮系統が確立されたかに見えた、その瞬間――。
クロードの怜悧な面持ちに、微かな、しかし決定的な緊張が走った。
「……ですが、蓮司様。一つだけ、極めて深刻な懸念事項がございます」
やや声を潜めたクロードが顔を上げ、ベッドの縁へと歩み寄った。
「懸念?」
「異世界の歪みから零れ落ちてくる魔獣の中には、我々四天王の現場対処だけでは物理的に押し切れない特異個体――いわゆる使徒級の存在が含まれる可能性がございます。その際、防衛線の崩壊を防ぐためには、蓮司様ご自身が肉体に眠る『魔王の権能』を解放し、直接敵を殲滅せねばなりません」
「僕が……直接?」
「左様です。……しかし先ほど、前魔王様との会話の中で耳にいたしました。『3分間ルール』。あれは誠の制約でございますか?」
クロードの問いかけに、脳内のバアルが待ってましたとばかりに割り込んできた。
『そうじゃ! よくぞ聞いてくれたクロード! この小僧は余に「最長3分間、一度使えば72時間は完全休眠」などと狂った制約を押しつけておるのじゃ! 大結界を展開するどころか、ドラゴンのブレスを一度防ぐのが関の山ではないか! 魔王の権能を舐めるのも大概にせよ!』
「カップ麺にお湯を注いで待つ時間で世界を救うのが、僕の流儀なんだよ。バアル、お前は黙っていろ」
僕は薄いパジャマの胸元にそっと手を触れ、自らの微弱な心音を確かめた。
「クロード。君なら僕の身体のデータを見ればわかるはずだ」
僕はサブディスプレイをスワイプし、先ほどの心停止から蘇生に至る詳細な心電図と血流速度のグラフを表示させた。
「僕の心筋と神経系は、常人の数分の一の負荷で焼き切れる。バアルが魔力を流し込んで僕の身体を強制駆動させた場合、血圧は瞬時に200を超え、心拍数は220を突破する。体温は41.5度まで跳ね上がるんだ。……医学的に見て、この状態を維持できる限界値が180秒――ゆえの3分間なんだよ」
「……」
「180秒を超えれば、脳の毛細血管が破裂するか、心室細動を起こして即死する。僕が死ねばバアルの魂も消滅し、次元アンカーが外れて街は崩壊する。3分というのは僕が勝手に決めたワガママじゃない。物理法則と人体の限界から僕が導き出した、絶対のデッドラインだ」
一切の感情を挟まない、純粋な医学的論理の提示。
クロードは腕を組み、長い睫毛を伏せて沈思黙考した。
脳内のバアルもまた、蓮司の冷徹な自己分析の前に、反論の言葉を見つけられずにぐぬぬと唸り声を上げている。
「……なるほど。理屈は通っております」
やがてクロードは静かに息を吐き、アタッシュケースから羊皮紙に似た奇妙な光沢を持つ紙を取り出した。そこには、古代魔導文字と日本語の条文が二重螺旋のように美しく織り込まれていた。
「ならば、その限界を前提とした防衛プロトコルを策定いたしましょう。蓮司様、前魔王様。以下の【魔王権能行使三原則】に、魂の調印を願えますか」
クロードの指先が、空間に浮かぶ条文を厳格になぞっていく。
主権の絶対性: 肉体の統御権は神代蓮司に帰属し、バアルゼブルの権能解放には蓮司の【明確な口頭承認】を必須条件とする。
タイムリミット: 権能の最大稼働時間は180秒(3分間)。170秒経過時点でクロードによる遠隔強制解除術式を作動させる。
完全冷却: 使用後、蓮司の心身の安全を確保するため、72時間の魔力完全休眠期間を設け、一切の権能行使を禁ずる。
「この契約書は、魂の法廷に捧げられる不可逆の魔導契約。破れば魂そのものが引き裂かれます。……前魔王様、異論はございますか?」
『ええい……! 理詰めで余を追い込みおって! よいわ、認めよう! その代わり小僧、3分間きっかりで相手を粉微塵にするような、効率的な戦術を組み立てよ!』
「言われなくてもそうするさ。無駄なターンを消費するのは、ゲーマーとして一番嫌うプレイングだからね」
僕はベッドサイドのペン立てに視線を走らせた。
そこにあるのは、10年前――僕がこの病室に隔離される直前、海外で行方不明になった父・神代宗一が遺していった一本の古い万年筆だった。漆黒のエボナイト軸に、銀の細工が施されたクラシックな品だ。
僕が何気なくその万年筆を手に取り、契約書の署名欄にペン先を走らせようとした、その時――。
――チリッ。
ペン先が羊皮紙に触れた瞬間、青白い微小な燐光が火花のように散った。
「……!?」
クロードの細い眉が、ピクリと跳ね上がった。
その双眸に、これまでに見せなかった戦慄という名の稲妻が走る。
サラサラと音を立てて、僕の署名――『神代蓮司』の文字が紙に刻まれる。
次の瞬間、羊皮紙全体が淡い光の粒子となって僕の胸元へと吸い込まれ、霧散した。魂の奥底で、カチリと冷たい錠前が下りたような感覚が走る。契約の成立だ。
「……蓮司様」
クロードが、普段の慇懃な態度を忘れ、真剣な眼差しで僕の手元を凝視していた。
「その万年筆は……一体どこで手に入れられたのですか?」
「え? これか? ……10年前に失踪した父さんの形見だよ。僕がこの病室に入るとき、『勉強のお守りだ』って手渡されたんだ。何か変なところでもあるかい?」
「……いえ」
クロードは眼鏡の縁に指を添え、深く息を吸い込んで平静を取り繕った。だが、その瞳の奥の動揺は完全には隠せていなかった。
「その万年筆のペン先……『神代鉱石』の純度100パーセントで鍛造されております。此方の世界の技術では加工不可能なはずの代物です。……さらに、微かではございますが、我が魔導帝国が誇る最高位の結界術式の痕跡が刻まれておりました」
「……父さんのペンに、異世界の金属と魔術が?」
「……神代宗一氏。単なる巨大財閥の当主補佐とは思えませんね。調査の優先順位を最上位に引き上げておきます」
失踪した父の影。
僕がこの病気になったこと、そして前魔王の魂が僕に引き寄せられたこと――それらは本当に、単なる偶然だったのだろうか。
胸の奥に冷たい疑問の雫が落ちた。
張り詰めた空気を打ち破ったのは、無機質な電子音だった。
――プルルルルル、プルルルルル。
ベッドサイドの壁に設置された、院内専用の内線電話がけたたましく鳴り響いた。
僕とクロードが同時に視線を向ける。受話器の液晶画面には、【1F売店・レジ直通】の文字が表示されていた。
「……出てもいいかい?」
「どうぞ。私の管理下にある安全な回線です」
僕が受話器を耳に当てた瞬間――鼓膜を突き破らんばかりの甲高い少女の声が炸裂した。
『まおうさまー! 大変なのです! 国家存亡の危機なのですー!』
「うわっ……! 耳が痛い……! 誰だ、ルルか?」
『はいなのです! 殲滅のルル、ただいま病院の1階売店にて最前線を死守中なのです! 聞いてくださいまおうさま! 店長さんが「今日のプレミアム生クリームエクレア、賞味期限が30分過ぎたからゴミ箱にポイしちゃうね」って言ったのです!』
「……エクレアの賞味期限切れか」
『ゴミ箱にポイなんて絶対ダメなのです! あのサクサクの生地とトロトロのチョコは、世界を救う宝物なのです! ルルが時給1100円のお給料を前借りして3つ買い取ったので、今すぐまおうさまの病室で一緒に食べるのです!』
電話の向こうから、ガサゴソとコンビニ袋を握りしめる激しい音と、荒い鼻息が聞こえてくる。
『な、なにぃぃぃっ!? エクレアじゃとぉぉぉっ!?』
今度は脳内のバアルが歓喜の雄叫びを上げた。
『あの表面に黒き蜜を塗りたくり、中に純白の甘美なるクリームを充填したという伝説の洋菓子か! でかしたぞルル! さすがは余の愛弟子じゃ! 小僧、今すぐ許可を出せ! エクレアの甘みを余の魂に流し込ませよ!』
「バアル、勝手に僕の記憶を読み取るな。……断る。僕の食事制限を何だと思っているんだ。糖分と脂質の過剰摂取は即座に主治医の怒りを買う」
『一つ! いや、一口でよいからぁぁぁっ!』
受話器の向こうのルルと、脳内のバアルが、奇跡のユニゾンでエクレアを要求してくる。
だが、事態はそれだけでは収まらなかった。
ピピッ、とクロードの胸ポケットのPHSが鳴った。
クロードが端末の画面を一瞥し、すっと眉を寄せる。
「……蓮司様、緊急事態です。ナースステーションのセリアより業務連絡が入りました。『先ほどの心停止アラームの精密検査のため、特大の直腸用体温計と水銀血圧計を持参し、これより蓮司様の全身清拭およびリベンジ検温を実施する』とのことでございます」
「ひっ……!? ち、直腸用……!?」
「セリアは本来、一度狙った獲物の状態異常を見逃さない完璧主義者。先ほどの蓮司様への措置の不手際を深く恥じ入っている様子。名誉挽回のために極めて濃厚な看護を行う所存のようです」
『うおおおおおお! セリアの濃厚看護! リベンジ検温! 見たい! 余はあの至高の肢体を今度こそ穴が開くほど凝視するぞぉぉぉ! 小僧! 余が許す。あの豊満な我が儘ボディをその手で堪能して良いぞ!』
バアルの煩悩が限界突破し、枕元のモニターが再び不穏な電子音を刻み始める。
ピッ、ピッ、ピッ――【Heart Rate: 135 bpm】。
そして――。
ドズゥゥゥゥン……ドズゥゥゥゥン……。
病室の厚い床を微かに震わせる、重く巨大な地響きが廊下の彼方から迫ってきた。
「……ねえクロード。この、ビルが解体工事を始めたような振動は何かな?」
「ああ。搬送センターのバルガですね。『新魔王様が病弱で貧相な体つきだと聞いた。男たるもの筋肉こそが最大の鎧! 俺が毎日飲んでいる特製マッスルプロテイン(生卵10個と馬肉エキス入り)を差し入れする!』と叫びながら、巨大な寸胴鍋を抱えて階段を駆け上がってきているようです」
「……」
売店からエクレアを抱えて全速力で突撃してくる有翼獣人の少女。
特大体温計を手に名誉挽回のお色気検温を狙う夢魔の専属ナース。
謎の激マツプロテイン鍋を抱えて床を揺らす鬼人族の筋肉将軍。
そして脳内でエクレアとセリアの裸体を要求して暴れ狂う前魔王。
「……クロード」
「はい、蓮司様」
「僕の病室の防音扉に、今すぐ三重の物理ロックと魔導結界を張ってくれないか? 僕の心臓が物理的にも精神的にも破裂する」
「申し訳ございません、蓮司様。彼らは全員、此方の世界で合法的な身分証と院内通行許可証を所持しております。正当な手続きを踏んだ見舞い客を、秘書の権限で排除することはコンプライアンス上不可能です」
「コンプライアンスなんてクソ食らえだ……っ!」
タタタタタタタタッ――!
廊下の向こうから、猛烈な勢いで接近してくる複数の足音。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――!!
心拍数モニターのけたたましいアラームが、嵐のような大混乱の幕開けを告げるように病室中に響き渡っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
バアル『おい小僧! 余の威厳がカップ麺扱いされた挙句、扉の向こうから怪獣どもが押し寄せておるではないか!』
蓮司『誰のせいだと思ってるんだ……。早く誰かあの筋肉と直腸体温計を止めてくれ……』
次回、第3話『検温、ダイブ、プロテイン』。
病室の生体モニターがかつてない音階で警告音を奏でます。お楽しみに!
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