9. パンダである。
パンダである。
およそ三十頭の、ひと抱えほどの大きさの、ずんぐりむっくりした愛くるしいパンダの赤ちゃんである。そのうちの一頭がつぶらな黒目で、こちらを見つめていた。
「明けの明星、光の反逆者、堕天した金星ルーキフェル・ウンブラだって、だっさくね?敢えて公称に反逆とか堕天とかアナーキーな単語使っちゃう青臭い神経がわかんねーよ、お前ら揃いも揃って何歳だよってカンジ」
ある個人に対する容赦のない口撃が放たれる。そうかと思うと別の子パンダが、ふわふわの白黒の毛並みでタイヤにすがりついたままちょっと振り返る。
「神の使い・伝言者・闇裂く光ジブリール・ヌールこそ笑止の極み。使いやら伝言やら他人の威光をかさにきて、謙虚な自分に酔っているのが見え見えだろうが一族で。一族全体で」
二人はそれぞれ白と黒の炎の閃くような瞳で睨み合う。もちろんパンダではない。『パンダ・パラダイス』という地上世界の写真集を中央に挟んで草の上に座り込む、ジブリールとルーキフェルであった。
「てめーが先に『パンダって変な名前』って言ったからだぞクソが」
やがて下々位天使のような粗布一枚の軽装に裸足であぐらをかいた天使が、抜けるように白い頬っぺたをやや膨らせる。今日は戦闘時のようなアウラを燃え立たせてはおらず、糸のような銀髪を束ねて後ろに流しているのみだ。これにやっぱり粗布一枚を身体に巻いた下々位階悪魔スタイルのルーキフェルが、真紅の瞳のまなじりを釣り上げて口答えする。
「事実を言っただけだ」
「変でもいーだろーが、かわいいんだから!」
「否定はしない」
素直でない言い方だったが、楽園では嘘つき、天邪鬼、ひねくれ者でコミュニケーションなどほぼ不可能と考えられている悪魔族が一応の同意を示したことで、楽園の先鋒・ジブリールもとげとげしさをおさめる。戦闘員とは思われないほっそりした純白の指先でカラーのページを繰ると、森の中の遊技場に白黒のパンダが一列に寝かされお昼寝している見開きがあらわれる。
「クッッソかわいい……」
「この寝ないで隣のヤツにちょっかい出してるのが一番かわいい」
ため息混じりに言った天使に、地獄の門番と呼ばれる悪魔貴族が宣言した。ちらりと覗くその頑固そうな八重歯にジブリールは(らしいな)と思うにとどめた。
ここは『地獄』と『楽園』の国境付近、数百キロに渡る荒寥とした不干渉地帯。戦時の他は天使も悪魔も近寄らない広大な砂漠地帯である。その中にも小さな泉とまばらな植生、それに数本の樹木からなるささやかなオアシスが陸の孤島として点在している。奇妙な取り合わせの二人が初めて個人的に言葉を交わしたのはこの約十日前、同じ虹色の水際の木陰でのことだった。
「本はこの一冊か?もっとないのか?」
「無ぇ」
「パンダのものをたくさん持ってると言ったろう。この前ここで退避中に出くわした時も、これみよがしにパンダのぬいぐるみストラップを下げて」
「『ウンブラの隊だクソが、終わったここで全員決死戦だ』ってとこでてめーがどくどく血ィ流しながら話しかけてきた時な」
「話しかけてない。貴様なんぞに話しかけるか」
「『なんて動物だそれ』って呟いてたろ!日本語で!」
「覚えていない……朦朧としていたせいだ……」
「部下達にすげー怪しまれたぞ。俺も瀕死だったから、それこそあのパンダストラップをガキどもに形見にと部下の一人に託しかけてたとこで」
「大規模戦闘にあんなもの持ってくるのが悪い。どう見ても地上マニア垂涎のグッズを」
「大規模戦闘だからこそ持ってったんだよ、同じ趣味のやつに声かけてもらえるかなと思って!まさか悪魔に声かけられると思わなかったよ‼︎」
気を抜くとすぐ言い合いになる。相性が悪いせいだ、わかりきっている。努めて冷静になろうと咳払いしたのはジブリールである。
「パンダグッズは部屋にはいっぱいあるけど、今日は急いでて持ち出せなかった。まだ長時間は持ち場を離れらんねーんだよ。あの戦闘のせいで人員が足りねぇ」
「もう十日も経つのにか。傷もろくに治せぬポンコツ揃いだな」
「そっちだって国境警備に大体てめーしか飛んでねぇって聞いたぞ」
「だからパンダを楽しみにしていた……」
「……。その本、貸してやるよ」
日陰の涼風に艶やかな癖の強い黒髪をなびかせ、つまらなそうにしていたルーキフェルが、驚いたように切れ長の目を瞬いた。ジブリールだって、当然ながら天使と悪魔で物の貸し借りをしたことなど生涯で一度もなかった。第一、国法で許されていない。年齢はちょうど自分と同じ程度と聞いていたが、非戦闘時は存外に幼い印象を受ける、生意気な少年のような浅黒い顔に向かい、ジブリールはしかつめらしく釘を刺す。
「誰にも言うんじゃねーぞ。悪魔と通じてるとか思われたらソッコーで城も階位も取り上げだ」
「それはこちらも同じだ」
可愛らしいパステルカラーの装丁の、決して厚くはない写真集を尖った爪の両手で受け取ると、ルーキフェルは改めてページを繰って息をつく。
「なぜ地上にはこんな白と黒の混ざった動物がいるのだ。地獄にはほとんど黒しかいない」
「へー。うちの方は白一色だけどな。あとみんなやたら賢くてかわいくねぇ」
「白黒混ざった世界を見てみたいものだ」
「……」
ただただモノトーンの毛玉が転がりまわるページを無心に眺める悪魔、地獄の番犬を、思わず金のかかった白い瞳孔の瞳で見つめる。うかつな発言だ、悪魔の誰かに聞かれていたらおそらく地獄での彼の立場が危うくなるだろうほどに。けれどいい貴族の坊っちゃんであるせいか、なお呑気にルーキフェルは言う。
「いい感じに思えてきた」
「?」
「『パンダ』という名前も」
「……。てめーの名前は変わらずだせーけどな。堕天した反逆者」
つい上った憎まれ口をたちまちルーキフェルが睨み上げてくる。幾度も戦場に二人きりで取り残されたことがあるのに、痕も流血もないその顔を初めてまじまじみた気がした。砂漠の熱い風がオアシスの上空を吹き渡る。澄んだ水の湧く音さえ聞こえてきそうな、静かな午後のほんの数時間のことだった。
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