72 リングレントへ
完全に雪が消えた頃、城内でも『すずらん祭り』の舞踏会の話が囁かれ始めた。
それまでラディウスは、婚約していたとしても開催者として毎年参加していたのだが、今年は十字軍の遠征もあったため、『すずらん祭り』は行われるものの舞踏会は行わず、祭り自体も縮小するという。
ルドヴィーグ伯爵はそれを聞き流しながら王城で仕事をこなしていた。彼にはもう『すずらん祭り』の舞踏会は関係ないと言っても良い。
そんな彼の元へ、最近頻繁にラディウスの側近であるカミルがやって来る。ラディウスは彼にも婚約破棄のことは話していないようで、何かとルドヴィーグ伯爵に探りを入れるのだ。それもあからさまにわかっていると言いたげに。
「伯爵、やはり変ではないですか? ここの所、雪が溶けたというのにあなたの館に殿下は通ってはいませんよね? あれほど通われていたのに……何かありましたか?」
「いいえ、何もございませんよ。ただ、殿下はやらなければならない事があると仰られていましたからね……今はそれで忙しくなられたのでしょう。その辺りは、カミル様、あなたの方がご存知なのではありませんか? 早くその仕事が終わると良いですね。では私は書庫へ行かねばなりませんので、失礼いたします」
柔らかく笑い、ルドヴィーグ伯爵はカミルの元を離れた。
あの勢いでは、その内自宅に来るのではないかとさえ思う程だ。もう一人の側近のデュランはたまに廊下ですれ違うが、会釈をして通り過ぎるのが常だ。でも、ルドヴィーグ伯爵は自宅での心配がなくなった分、ラディウスには悪いと思うが心の余裕ができた。まだまだ若造のカミルに隙を見せる事はない。
伯爵はラディウスとたまに仕事をすることもある。それでも彼は変わらずラディウスに接していた。ラディウス自身もそれに倣うべく、表面には何も表さないようにしている。その点でもラディウスという青年は、人としてよくできた人物だと思う。
もし、ブルーナの身体の事がなければ、おそらく伯爵自身も彼とブルーナの事は心から喜んだだろう。
ラディウスが今取り掛かっている仕事に関しても、個人的な話でも、伯爵は何もいう事はない。ふと寂しくなる時はあるが、王太子殿下と伯爵の間には、確かな信頼以外もう何もないのだ。
でも、これでよかったのだと最近は思う事が多い。ブルーナを含め、家族が仲睦まじく過ごせたら、彼にとってはそれ以上の幸せはないのだから。
手にした書類を城の書庫へ持って行く、その途中の回廊で、中庭に芽吹き始めた植物の若い葉の色が柔らかく光って見えた。
——ラディウス殿下はまだお若い。これからまた多くの出会いがあるだろう……。
ルドヴィーグ伯爵は足早に書庫へ向かった。
* * * * *
『すずらん祭り』の日取りが決まる頃、アリシアからまた手紙が届いた。内容は今年の舞踏会は中止だというので、代わりに馬車を用意するからブルーナがリングレントへ来ないかというお誘いだ。
ブルーナは早速父と義母に手紙の内容を話した。
「そうか……アリシア様がそんな事を……」
ルドヴィーグ伯爵は少し考えた。ブルーナは家族との交流のおかげで、大分気力を取り戻している。でも、やはり時折ボーッと空中を見つめている時がある。さすがに伯爵が涙を流すのを見たことはないが、エレーヌはたまに見ていると言う。
「父上、私はもう大丈夫です。それに暖かくなりましたから、何かと体調は良くなりますから、お願いです。リングレントへ行かせて下さい」
自分を見上げる可愛らしいブルーナに苦笑をしつつ、伯爵はどうしたものかと悩んでいた。前回リングレントへ行った時には、ブルーナは帰路で具合を悪くし、寝込んだまま帰ってきた。それを考えるとおいそれと許可はできない。
でも、今ブルーナをゆっくりと静養させるのも大事な事だと思う。このルガリアードで過ごすより、アリシアのいるリングレントで過ごす方がいいかもしれない。
「ブルーナ、決して無理をしないと約束できるか?」
「もちろんです、父上」
伯爵は笑った。これはブルーナへの労いでもある。
ここ数年、ラディウスの話し相手になり、ブルーナが彼を支えていたと言っても良いかもしれないのだ。この身体の弱い、世間を知らない娘が、知識だけで彼を支えていた。伯爵にはそれが誇りに思えた。ブルーナの恋は終わっても、きっと何か心の中での成長があるはずだ。
「では、行っておいで。アリシア王太子妃殿下にお会いしておいで」
「……本当に?! 父上! 本当に?!」
ブルーナの顔が喜びに満ちてゆくさまを見ながら、伯爵は深く頷いた。今この娘に必要なのは気持ちの余裕だ。アリシアならそれを上手に引き出してくれるだろう。
そう思っていると、もう一つの可愛らしい声が部屋の中で響いた。
「お父様、私がお姉様のお世話をするわ。エルダとちゃんとお姉様のことを見張るから、だから、私も一緒に行かせて下さいね」
それはエレーヌが発したものだ。
「……エレーヌ、さすがにお前はまだ小さいから……」
「何を言うのですか? 私はもう食事をご一緒できるほど大きくなったのですよ。お姉様は私がいた方が楽しいと思うの。お願いお父様。私もリングレントへ行きたいの」
そしてエレーヌはさらに期待の目をして伯爵を見上げる。
「私が行くのも許してくださるなら、私、一生お父様について行くわ」
エレーヌはどこで覚えてきたのか、そんな事をサラリという。
「一生ついてこられても……それはそれで困るのだがね……」
伯爵は苦笑し、隣に座るリリアナを見るとしばらく考え込んだ。
「私が城勤めのために夏の避暑地へ行く以外はお前達はどこも行った事がないね……そうだな、これを機会にリリアナ、君も一緒にリングレントへ行ってきてはどうだ?」
この提案にはみんな驚いた。
「あ……でも、あなたはどうされるのです?」
「私は流石に行けないな……だが、私の分も三人で楽しんでおいで」
大喜びの娘二人に対し、リリアナは首を横に振る。
「いいえ、あなた一人を置いて行くのは私にはできませんわ。どうせなら姉妹二人で行って羽を伸ばしてらっしゃい。二人で経験した事を手紙に書いて知らせてくれたら嬉しいわ」
義母のこの一言で決まりだった。
ブルーナはエレーヌと共にリングレントへ行く事になったのが嬉しかった。リングレントへ行く道すがら、一日中妹と話ができるのだ。これもまたやったことのない経験になる。そしてリングレントの竜をエレーヌに見せてあげられる。
——こうして時間は過ぎてゆくのだわ。
ブルーナはラディウスの事を思わない日が少なくなるのを願った。もう彼の事を想っても仕方のない事だ。
できるならラディウスが元気で幸せでいてくれたらそれでいい。今はまだ心が痛いけれど、そのうち本当にそう思えるようになる気がしていた。
この後、十字軍の行軍に少し話が戻ります。
少し調べたい事があるので、またお時間をいただくことになりますが、頑張りますのでよろしくお願いします。




