【番外編】 あなたの望むままに
妹の結婚式から帰ってきた紫乃が沈んでいるわけは……
(明子の最初の結婚式の後の話です。中村家にて、紫乃視点。ジオシティーのサービス終了のため、拙サイト『風花亭』より移行しました。
「紫乃さんおかえり…… あれ?」
妹の明子の結婚式から戻ってきた紫乃は、両手を広げて彼女を迎え入れようとした夫の弘晃の横を無言ですり抜けた。
「あ、あの、どうしたんですか? ひょっとして、電報のことで怒っているんですか?」
うろたえながら後をついてくる弘晃を無視して洗面所に飛び込んだ紫乃は、念入りに手を洗い、うがいをする。その間も、弘晃は、妻の機嫌をとるのに必死になっていた。
「すみません。ちょっとやりすぎてしまいましたよね? 反省しています。でも、なにも、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか?」
「怒ってません」
紫乃は、口元をタオルでぬぐうと、大きな一面鏡に映る夫に向かって言った。
外から帰ってきたら、まずは、手洗いとうがい。
紫乃だけでなく、ここ中村家の人々は全て、この決まりを厳守している。さもないと、菌を持ち込んだ当人はなんともないのに、この家からめったに外に出ることのない弘晃が、いともたやすく病気に感染する可能性があるからだ。しかも、この男、一度病気になると治るのにも時間がかかるし、すぐに重症化する。
「今日の結婚式には大勢の方がお見えになっていたでしょう? 中には、咳き込んでいる人もいらしたから、特に念入り洗ってからじゃないと、弘晃さんとお話しする訳にはいかないと思っただけよ」
紫乃は振り返ると、背後で親の機嫌を伺う子供みたいな顔をしている弘晃に向かって微笑んだ。
「じゃあ、怒ってはいないんだね?」
「怒って? もちろん、怒っていますよ」
顔を明るくした弘晃を紫乃が睨みつけると、途端に彼の顔が青ざめる。
「いったい、なんなんですか? あの長ったらしい上に難しすぎて何を言っているんだかわからないような電……」
紫乃は弘晃を厳しく注意するつもりだった。だが、彼が明子の結婚式に寄こしてきた祝電を思い出した途端、紫乃は、こみ上げてきた笑いを堪えることができなかった。
「紫乃さん?」
「だって、あの時の喜多嶋さんの顔ったら……」
「喜んでいらした?」
笑い続ける紫乃に、弘晃が期待に満ちた眼差しを向けた。
「ええ、とても。あんなに自慢げにしていたら、かえって周りの人からは失笑を買うばかりだというのにね」
紫乃は笑いを収めると愛情に満ちた眼差しを弘晃に向けた。
「本当に悪い人ね」
「やっぱり、やりすぎでしたかね」
弘晃がちらりと舌を出した。
「そうですね。でも、おかげでせいせいしたわ。あの人ったら、なぜ弘晃さんは出席しないんだって、何度も何度もしつこいんですもの。ねえ、このまま、お風呂に入ってしまってもいい? なんか、さっさと全身洗い流してさっぱりしたい気分なの」
「何かあったの?」
「ちょっとね。ここは冷えるから、リビングに行っていてくださいね。すぐに行きますから」
背伸びをして弘晃の頬に軽く口付けると、紫乃は、彼を廊下へと追いやり、やや乱暴な動作でドレスを脱ぎ始めた。だが、堅苦しい衣装から解放されても、全身を洗い流しても大きな湯船にゆったりと浸かって体をほぐしても、明子の結婚式以来ずっと紫乃にまとわり付いている漠然とした不安と不快感は、彼女から離れてくれなかった。
風呂から上がり、結婚式から帰ってきた紫乃の行動を見越して使用人が用意しておいてくれた部屋着を身につけると、彼女はリビングに向かった。リビングでは、夕食を終えたばかりの弘晃の両親と弟夫婦が、お茶を飲みながらくつろいでいた。もちろん、弘晃もいる。
「おかえり、あの電報、大好評だったんだって?」
最初に紫乃に声を掛けてきたのは、弘晃の弟の正弘だった。
「ええ、なんといっても、中村四家そろい踏みの、慇懃なことこの上ない祝電ですもの。花婿のお父さまの喜多嶋さんは、涙を流して喜んでいましたわ。でも、他の人は、そんな喜多嶋さんを見て、笑いをかみ殺してましたけど」
「泣いていたのは喜多嶋さんだけじゃないよ。電話局の人も電話口で泣いていたみたいだった」
「そうでしょうね。あんな、長々しい祝電を受け付けるハメになってしまって、可哀想に」
紫乃は顔をしかめると、ソファーでくつろいでいる弘晃の傍らに腰を下ろした。紫乃が座ると同時に、正弘の妻の華江が、彼女の前にお茶を供してくれた。湯上りの紫乃のために少しぬるめに入れられたお茶を飲み干すと、体の隅々まで潤されるような心地よさを感じた。空になった湯呑に、華江が熱めの茶を入れてくれる。学校の憧れの先輩でもあった華江のさりげない心配りに、紫乃はいつも感心させられてしまう。
「でも、僕からの祝電の、なにがそんなにありがたいんだろうねえ」
「ありがたいんでしょうよ。なんていっても、最近の兄さんは伝説の人だから」
首を捻っている弘晃を見て、正弘が苦笑した。
「伝説?」
「そのようだよ」
義父の弘幸がおかしそうに笑う。
旧中村財閥本家長男である中村弘晃は、社長である父親を影ながら支え、倒産寸前だった中村物産をわずか10年たらずで立て直した。そればかりでなく、数年前には、多くの老獪な経営者たちを苦しめた石油ショックをも難なく切り抜けてみせた。しかしながら、当の弘晃は、半年ほど前に六条グループ総帥の娘紫乃との結婚式の主役として一度だけ姿を見せたきり。以後、社交や商談の場に彼が出てくることはなく、その正体は、いまだに謎に包まれたままである。
弘晃が姿を表わさないことは、多くのものの好奇心を煽り、これまでの無責任な噂に更に沢山の尾ひれをつける結果となっている。
「なまじっか正体がわからないだけに、君は、多くの人から、とてつもない大人物だと思われているみたいだよ」
「そうそう。正体不明の幻の経営者」
「ひどいな。人をツチノコかなにかみたいに……」
眉をひそめながら弟と父親に抗議する弘晃の傍らで、紫乃は、密かに『そうかもしれない』と、笑みを漏らした。少なくとも、喜多嶋氏が弘晃から祝電をもらって得意になっている気持ちは、珍しいものがあると人に見せて自慢したくなる人の心情からくるものだろうと紫乃は分析した。
「でも、弘晃さんからだけでなく、分家のお爺さまたちからまで祝電をいただけるなんて、思ってもみませんでしたから驚きましたわ」
「ごめんね。お昼頃に、うちのお祖父さまたちが、ここにいらしていたの。それで、皆で悪乗りしちゃって……」
華江が申し訳なさそうにしながら、紫乃に謝った。
「悪乗りでも、喜多嶋さんが喜んでくださったのだから、結果的によかったのではないかしら。それに、皆さん、とても楽しそうだったわよ」
姑の静江が笑いながら、今日の昼頃にここであったことを紫乃に話してくれた。
静江が話してくれたところによると、事の次第は、こうである。
『中村家の謎の御曹司弘晃の出席をしつこくねだる喜多嶋氏から紫乃を救うために、欠席した弘晃の代わりになるような、喜多嶋氏が恐れ入るような立派な祝電を披露宴会場あてに送ってほしい』
……という紫乃の末妹の月子からの電話を弘晃が受けた時、このリビングには、静江たち夫婦と正弘夫妻の他に、中村の分家の年寄りがふたりがいた。
ひとりは、隠居してから暇を持て余しているために、何かにつけて孫娘の華江に会いにくる中村エンジニアリング初代会長。もうひとりは、同じく暇を持て余して困っている中村造船前会長であった。
華江の祖父たちは、月子からの依頼内容を聞いて、とても面白がった。
『噂の御曹司が披露宴に出席してくれば箔が付く。いかにも喜多嶋の見栄っ張りが考えそうなことだ』と華江の祖父は言い、せっかくだから、本家の弘晃だけでなく、分家からも派手に電報を送って、喜多嶋氏を大いに喜ばせてやろうではないかと、もうひとりの分家の老人に持ちかけた。
持ちかけられた方の老人は、喜んでこの提案に賛成したものの、大きく分けて3家ある中村の分家のうち、ひとつだけを仲間はずれにするのはいかがなものかと、懸念を口にした。
それならばと、悪乗りした分家の爺ふたりは、もう1つの分家でもっとも力のある存在……前東栄銀行会長夫人にも声をかけた。夫に死なれてから長く寂しい隠居生活を送る老夫人は喜んでこの誘いに乗り、一時間のうちに他の3家に負けないような素晴らしい祝電を送ることを約束した。
そして、電報の文章は、文字をケチらず……どうせだから『世界一長い電報』としてギネスに挑戦しようかね……なんて冗談を言いながら、誰が一番煌びやかな祝辞を書き上げるかで張りあっているうちに、どんどん長くなっていったそうだ。
ちなみに、弘晃の祝電は、中村物産の社長でもあるが、古美術品や文化遺産の保全を専門としている研究者でもあり、それゆえに古典文学にも造詣が深い弘晃の父と弘晃の共同作業によって書き上げられたものだという。
「あんな難しい文章。 耳で聞くだけじゃ全然理解できないわよねえ。私なんか、読んでもチンプンカンプンだったわ」
静江が、下書きとして書かれたメモ書きを紫乃に渡しながら、夫に咎めるような視線を向けた。
静江が言うとおり、下書きの文章からして、紫乃には難解なものに見えた。いや、むしろ、画数の多い漢字で埋め尽くされているために、下書きのほうが、更に解りづらかった。眉根を寄せ難しい顔で下書きを見つめている紫乃を見かねたのか、舅の弘幸が一文一文丁寧な解説をしてくれた。その説明を聞いて、紫乃は、少しだけ気分が楽になった。なぜなら、あの祝電は、喜多嶋氏を笑いものにすることだけを目的にして書かれたものでは決してなく、新しく夫婦になる男女を寿ぎ幸せな未来を願う、思いやりに溢れたものだったということがわかったからだ。
(あとで、明子にも教えてあげなくちゃ。きっと喜ぶわ)
そう思いながら、紫乃は熱心に弘幸の説明に耳を傾けようとした。だが、弘幸の話していることは、内容的に、大学で古典を専門に学ぶ者たちを対象とした講義並みの濃さがあった。話が難しい上に、今日の紫乃はかなり疲れていた。一生懸命聞こうとすればするほど、頭の中はボウっとするし、まぶたは重くなる一方である。うつらうつらと船をこぎ始めた紫乃の体を、弘晃が支えてくれた。
「紫乃さん、眠たい? 部屋に下がらせてもらおうか?」
弘晃の柔らかく低い声が、紫乃の耳元をくすぐった。
「う……う…………ん……にゃ…ら」
紫乃は、『ううん。まだ大丈夫。起きてます』と言おうと口を動かしたものの、寝言のような声が出ただけだった。
「今日は忙しかったものね。疲れちゃったわね」
姑の思いやりに満ちた声が遠くに聞こえる。頑張って瞼を持ち上げれば、「じゃあ、僕たちもそろそろ失礼するよ」と、正弘がお腹が大きくなりかけた華江を労わりながら立ち上がらせているのが、紫乃の目にぼんやりと映る。「泊まっていけば?」と、義父がふたりに勧めると、彼らは、「そうしようか」というように微笑みをかわした。ふたりの家は、ここから10分もかからない場所にあるのだが、それでも、ふたりは、よくこうして、この家に用意されている自分たちの部屋に泊まっていく。
(私って、幸せだな……)
睡魔と戦いながら、紫乃は思った。
義理の両親は、温かな良い人たちで、紫乃も華江も、実家と同じような居心地の良さをこの家に感じている。どちらの夫婦仲も円満で、夫はいつでも自分を受け止めてくれると信じられる。そのうえ、次の春になったら、華江は、お母さんになる。
それに引き換え、明子の実家となる喜多嶋の家は、どうだろう?
明子の夫となる達也は、結婚式と披露宴の間、上辺だけの愛想笑いを浮かべるばかりで、心がお留守。
自分の傍らに花嫁が隣にいることさえ気が付いていないようだった。
舅となる男は、自分を大人物に見せることに夢中になって、息子の変化に気が付きもしない。
(明子は……あの子は、どうなるのかしら?)
花嫁衣裳に身を包んだ妹の不安げな表情を思い浮かべながら、紫乃は目を閉じた。
その後。 寝ぼけ眼の紫乃は、弘晃に連れられて自分たち夫婦の居室に戻った。
「ほらほら、紫乃さん、布団掛けて。 風邪を引くよ」
部屋に入った途端にベットに突っ伏したまま動こうとしない紫乃の世話を、弘晃が焼いてくれる。それでも紫乃が動かずにいると、弘晃は、まるで布団を直すついでのように彼女の布団の中に潜り込み、傍らに身を横たえてきた。ちなみに、弘晃の寝床は、ここではない。彼がゆっくりと休めるようにと、この部屋の弘晃のベッドは紫乃のベットの隣にある。だが、彼女はそれを夫に思い出させることなく、うつぶせのままモソモソと体を動かすと、横向きに寝ている彼の胸に自分の頭を押し付けた。
甘えた子供のような振る舞いをする紫乃を、弘晃が喉を鳴らすようにして低く笑う。彼は、彼女の体に腕を回して引き寄せると、あやすように彼女の背を撫で始めた。
「何か、あったんですね?」
しばらくの間、黙って紫乃の背中を撫でていた弘晃が、確認するような口調で彼女にたずねた。
弘晃の胸に顔を埋めたまま、紫乃はうなずいた。そして、ポツリポツリと、自分の胸の中で澱んでいるわだかまりを吐き出し始めた。
明子の夫となる男が、時間になっても結婚式の会場になかなか現れなかったこと。
彼の様子が、変だった事。
結婚式の誓約のとき、何かに気をとられていた彼が、いつまでも返事をしなかったこと。
披露宴の間もずっと、明子に目もくれず、他のことを考えていたようだったこと。
弘晃は、ときどき相槌を打ちながら、紫乃の声に耳を傾けてくれていた。彼がそうしてくれるだけで、もう自分独りで心配を抱え込まなくていいのだと思えて、紫乃の気は楽になっていく。
「明子は幸せになれるのかしら? こんなことなら、もっと反対すればよかった」
「きっと、大丈夫だよ」
不安を募らせる紫乃の髪を撫でながら、弘晃が優しく言った。
「明子ちゃんは、とてもいい子だし、なんといっても、紫乃さんの妹だからね。 自分で幸せになるだけの力は持ってるよ」
「でも、あの子は、嫌なことがあっても言わないから。だから、もしも……」
「もしも? もしもの時には、紫乃さんが幾らでも手を貸してあげればいい」
「え? 私?」
驚いた紫乃が、弘晃の胸から顔を上げる。
包み込むような彼の笑顔が、紫乃の目の前にあった。
「そうだよ。明子ちゃんがそれを望み、紫乃さんが彼女の幸せのためにそうしたいと思うなら、中村という家の威光でも、僕でも、使えるものは何でも利用していいからね」
『だって、それが、貴女が僕と結婚しようと思った一番の理由だったでしょう?』 と、弘晃が紫乃に顔を寄せて、意地の悪い笑みを浮かべた。
「やだ! どうして、今頃になって、そんなことを蒸し返すの? そりゃあ、最初は、そのつもりだったけれど、でも、そんなつもりで結婚したわけじゃなくて……」
「わかっているよ」
うろたえながら体を起こしかけた紫乃を、弘晃が強引に布団に押し戻した。
「わかっているから、落ち着いて。でも、利用できるものは利用すればいいだろう?」
暴れる紫乃を腕の中に籠めながら、弘晃が笑った。病弱な弘晃ではあるが、医者の命令で意識的に鍛えているので、それなりの力はある。女の紫乃が力一杯暴れても、簡単には彼の腕から抜けださせてもらえなかった。腕が動かない腹いせに思い切り足をバタつかせているうちに、ベットスプレッドや掛け布団が次々に床へとずり落ちていく。
「そんなふうに焚き付けていいのかしら? 後でどうなっても知らなくてよ!」
「どうにもならないよ」
笑いを含んだ声で弘晃が答えた。
「『義兄さんは姉さんを甘やかしすぎだ』って、また和臣に怒られるんだから!」
「言われたっていいさ」
「もう! 弘晃さんの意地悪! 知らない! もしも、明子に何かあったら、本当に、無茶苦茶やってやるんだから!」
紫乃は腕を振り回して彼の腕の中から抜け出すと、もう捕まるまいと、膝を突き、仰向けになっている弘晃に覆いかぶさるように腕を突っ張った。弘晃は、横になったまま。真上から挑戦的に見つめる妻を、面白がるような顔で見つめている。
「それでこそ、僕の紫乃さんだ」
弘晃は微笑むと、腕を伸ばして紫乃の頬を優しくなでた。
「弘晃さん?」
「大丈夫だよ。僕の奥さんは無茶苦茶するようでも、自分の我侭だけでは動けない。それに、頭に血が上っているようでも、実は冷静な人だから。僕が後始末をつけられないようなことまでは、君は決してしない」
「……そんなふうに、わたくしのこと、信じちゃっていいの?」
自信たっぷりに請合う弘晃に、紫乃は、おずおずと問い返した。
「信じているよ。大丈夫。君の好きなようにしなさい」
紫乃の顔を真っ直ぐに見つめながら、弘晃が微笑んだ。頬に伸びていた彼の指が、髪を梳くようにして動いて紫乃の頭を包みこみ、優しく引き寄せた。
「……知らない、弘晃さんの馬鹿。 意地悪。 大嫌い……」
紫乃は、突っ張っていた腕の力を抜くと、心にもない憎まれ口を叩きながら、自分から彼の唇に自分のそれを重ねていった。




