第38話 氷の地に咲く花
第38話 氷の地に咲く花
雪の名残が、まだ庭園の端に淡く残っていた。
冷たいはずの風が、今日はどこかやわらかい。
静かな午後、エレノアはひとり、白い息を吐きながら花壇の前に立っていた。
そこには、小さな薄紅の花が咲いていた。
本来、この地では育たぬはずの花。
「……こんな場所に、どうして……」
不思議そうに呟いた、その背後から足音がする。
「育てさせた」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、ゼノが立っていた。
「この土は冷えすぎているが、工夫すれば咲くと聞いた」
「……わたくしのため、ですか?」
「この庭が白ばかりでは、息が詰まるだろう」
それは、あまりにも不器用で、けれど優しい配慮だった。
⸻
「氷の地に咲く花など……」
エレノアはそっと、指先で花に触れる。
「まるで、わたくしのようですわね」
「違う」
即座に否定。
「お前は、氷に咲いたのではない。
この地に“色を与えた”んだ」
その言葉に、彼女の動きが止まる。
⸻
「エレノア」
名を呼ぶ声が、いつもより静かだった。
「ここへ来てから……眠れているか」
「ええ、少しは」
「……少し、か」
ゼノは視線を伏せた。
「王都にいた頃の夢を見ることはあるか」
一瞬の沈黙。
「……ございますわ」
正直だった。
「夜になれば、思い出は姿を現します。
けれど、朝になれば……ここにいる自分を思い出せます」
「それなら、いい」
「……いいのですか?」
「ああ」
彼はゆっくりと息を吐く。
「ここでは、無理に笑う必要もない。
強くあろうと、誰かに認められようと、焦らなくていい」
その視線が、まっすぐに彼女を捉えた。
「お前は、ただ……そこにいればいい」
⸻
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「それは……」
声が震えかける。
「甘えになってしまいますわ」
「甘えていい」
「私は公爵令嬢ですのよ」
「いまは、ただのエレノアだ」
やわらかな断定。
「そして、俺はそれを望んでいる」
⸻
風が、花弁をそっと揺らした。
「ゼノ様……あなたは……」
言葉が途切れ、ふっと笑う。
「人を安心させるのが、あまりにもお上手ですわ」
「俺は戦しか知らなかった」
「ではなぜ、こうも温かいのでしょう」
「……お前が、そうさせる」
⸻
沈黙が訪れる。
だがそれは重たくない。
ふたりの間に流れるのは、春のような静けさだった。
「エレノア」
「はい」
「この花のように……どんな冷えた地であろうと」
そっと、言葉を選ぶように続ける。
「お前は、咲ける。
そして――咲いている」
⸻
それは、慰めではない。
赦しでもない。
ただの事実だった。
ひとりの男が、ひとりの女性を見つめた、そのまなざし。
「……それでは、枯れてしまわぬよう努力いたしますわ」
「枯れさせはしない」
きっぱりと言い切る。
「俺が、守る」
短く、しかし決して揺るがぬ誓い。
⸻
やがて、空が淡い茜に染まりはじめた。
「そろそろ戻りましょうか」
「ああ」
だが、ふたりの足はすぐには動かなかった。
ただ、同じ景色を見つめていた。
同じ花を、
同じ風を、
同じ空を。
⸻
氷の地に咲いた、小さな花。
それはただの植物ではない。
誰かの優しさで育ち、
誰かのぬくもりを宿した――
ひとつの、希望。
⸻
(この方の隣でなら)
(……わたくしは、もう一度、笑えるかもしれません)
エレノアの胸に浮かんだその想いは、
まだ言葉にならない、しかし確かな“はじまり”だった。




