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1-4話 残骸


「あああああ!!や、止めてええええ!!」

「ムモォォォォォォォォォォォォォ!!!」

「あはっ!あはははははははははははっ!」



 早朝から響き渡る悲鳴と咆哮と笑い声が森の中で響き渡る。

 そのあまりの騒音に不機嫌そうに、夜遅くまで研究に没頭していたエリィが布団から顔を出したが、声の主が見知ったもの達と分かると、またすぐに何事もなかったかのようにすやすやと夢の世界に羽ばたいていく。

 

 晴れ渡るような雲一つなかった青空の下で、その騒音の発信源は今も元気に騒音を発生させ続けていた。

 


「おも、重いし!舐めるんじゃないし!取り合えず、一旦離れてええええ!」

「ンモ!ムムムモォォォォ!」

「ははははははっ!ッ!ガフッ!ゴホッゴホ!」



 茶色のゆったりとした作業着に着替えた青年を毛むくじゃらな大きな生き物が押し倒し、甘えるように青年の顔を舐めまくる。

 青年がどれだけ必死に両腕で押し返そうとしても、その巨獣はまるでものともせずに青年をべろべろし続ける。


 

「リカさあああん!た、助けてえぇぇぇ!」



 ついには半泣きとなった青年の助けを呼ぶ声に、爆笑しながら事の成り行きを見守っていたリカが、未だに笑いを零しながらも一人と一匹の近くに歩み寄っていく。







 事の起こりは何てことのない。

 青年が初めて、二人との話し合い、いいや、現状を確認し合ってから数日が経った。

 その話し合いで課せられたリカの手伝いを、青年は一つ一つ教わりながら模倣する日々をこの数日過ごしていたが、ムーという生き物の世話は何かしらの理由を付けてさせてもらえなかった。

一通りの家事要領を把握したのを確認してから、ようやくリカが任せられると感じたのか、今日の早朝に突然、ムーと会ってみようかと言い出したのだ。


 突然のことに驚きはあったがそれよりも、少しでも早く教えられることの習得を出来るようにと努力していた事が認められたようで、嬉しかった。

 だから、喜び勇んでリカの後を着いて行って、離れにある小屋に辿り着いたときは酷くドキドキとして、ムーと呼ばれている生き物の世話に期待を抱いたものだ。


 新しい、若しくは未知の世界の入り口かの様な小屋の扉をリカが重そうに押し開き、それと同時に鼻を襲った獣臭に驚きながら追従する形で小屋の中に入れば、ずしりと佇む大岩が目に入った。


―――いいや、大岩などではない、それが生き物なのだと気が付いたのはリカがその大岩に声をかけた時だった。

 

 ゆっくりと開かれる双眸は輝きを伴う漆黒。

 岩のように思えた毛並みは黒に近い灰色で、皮膚が見えないほど全身を覆うそれは、生き物だと理解してもなお、岩石を思わせる。


 寝ていたところを起こされたのが不快だったのか、機嫌が悪そうに二人の方に向き直り、唐突にその動きを止めた。

 思えば、この時リカの様子を窺えば良かったのだ。

 普段世話をしているリカが、その獣の普段とは異なる反応に目を細めて警戒していたのが見れた筈だ。

 その獣が何を見て動きを止めたのか、普段とは異なる部分が何なのか。

 そんなこと考えるまでもなかったのに。


 その時の青年はただ目の前の巨獣に圧倒されるだけで。

 彼が目の前の獣に何の抵抗もできず押し倒されるまで、もう数秒もなかった。




 


「ほらムー、そろそろ甘えるのは止めなさい。彼が困っているでしょう」

「ム!ムォォ…」

「ぐ…ぐへぇ…。し、死ぬかと思った…」



 ようやくリカが青年を助けるためにムーに声を掛けた。

 リカの言葉にムーはその巨体を青年から退かすと、大人しくリカに撫でられる。


 あっという間に、青年がどうしようもなかった事態を解決したことに、感謝の気持ちと同時に少し、唖然としてしまう。



(そんな簡単に助けれるなら、早く助けてくれても良かったんじゃ…)



 ようやくまともに息を吸えるようになり、青年は慌てて距離を取ったあと数度深く深呼吸して、じっと自身を見つめる大きな獣の姿を再度確認することにした。


  

 でかい。

 最初に見た時も感じたが、その時よりも距離の無い今はさらに顕著にそれを感じる。

 自分の身長も低身長のリカはおろか、エリィすら抜いて最も大きいというのに、目の前の四足歩行の獣はそれよりもさらに大きい。


 身体能力にしてもそうだ。

 二人が言っていたように力もかなり強く、自分ではまるで歯が立たない。

 体全体を覆う毛は、押し倒された感覚では羽毛とまではいかずともそれなりに柔らかく、先ほども痛みを感じることはなかった。

 先ほどの出会い頭の突撃は、攻撃ではなかったのだろう。

 大人しい、穏やかな気質、というのに誤りはないのだろうが、出会ったばかりの自分にどうしてこれほどじゃれついてきたのかが分からなかった。


 ともあれ、これからリカを二人で世話をするのだ。

 嫌われているならともかく、好かれているのであれば深く気にすることもないだろうと自己完結して、尻もちを着いていた体勢を起こした。



「いやあ、凄い好かれようだね。羨ましいくらいだよ」

「あ、あはは、何をしたわけじゃないんですけどね」

「ムーは頭が良いからね、その人の本質を感じて、懐く懐かないがあるんだよ」

「え、そうなんですか?」



 うんうん、とリカが数度頷いて、ムーの毛をもみほぐす。

 


「頭が良くて、大人しくて、力が強い。森の賢者とも言われるこの子の種族はね、一部の村では神聖視すらされている偉大な種族なんだ」

「偉大な…種族」



 そう言って、こちらを見詰め続ける獣と目を合わせると、その目には確かに深い知性の色が窺えて、何かを伝えようとしているかのように、青年から視線を逸らすことがない。

 先ほどの、目があった瞬間に飛び込んできた猛獣と同一とは思えないほど静かに佇み、リカの隣でその存在をどこまでも大きく感じさせる。



「確かに、とっても賢いように思えますね」

「でしょう? 本当はさっきみたいな飛び着く事なんて無いんだけど…」

「…ほんとに、嫌われている訳じゃないですよね?」

「ないない、逆に好かれてるよ。私が言うんだから間違いないって」



 なんたって結構な時間を私が世話したんだから、と少しだけ誇らしげに胸を張るリカに、青年は苦笑を漏らす。

 この生き物の自慢話も、丁寧な世話をしている様子も、リカがムーをとても可愛がっている証明に他ならない。

 そのことが、青年に彼女の小さな体躯も合わさって微笑ましさを感じさせた。



「…それにしても、リカさんはこの子と仲良いんですか?」

「もちろん、って言いたいところなんだけどね」



 リカは感慨深げに息を吐く。



「長い事世話していくらかマシにはなったんだけど、なかなか気を許してくれなくて…。ほんとに貴方の懐かれ方が羨ましいくらいなんだよねぇ…」

「そう、なんですか?」

「そうなの、だから今、実は結構傷ついてるんだよ」



 空気が変わった気がした。

 吐かれた息が極寒の吐息であったかと錯覚するほど、周囲の空気が冷たくなった気がした。


 青年の額に、嫌な汗が伝う。



「私だってあんなに一生懸命世話をしたのになぁ…」

「ムォォ!?」

「…あっ」

「えっ! なんでまたぁぁぁ!?」



 優しく撫でていたリカの手がおもむろ止まり、彼女の雰囲気にムーは恐怖を感じたのか助けを求めるように青年に向かって鳴き声を上げる。

 そして、身動きできずにいた青年に向け再びに突撃を再開するまでそう時間がかからなかった。

 






 

「ふふふっ、それで朝からあんな悲鳴が聞こえてきたわけなのね」

「いやいやいや、ほんとに…僕にとっては笑い事じゃなかったんですから…」



 机に並べられた色とりどりの食卓を前に、あくびを噛み殺しながら面白そうに今朝の話を聞くエリィの姿にげんなりする。

 あれからリカがすぐにムーから青年を離そうと助けに入ってくれたから良かったものの、着ていた服は涎でべとべとだし、最初とは異なる必死さで青年に縋り付いてきたムーの体重に押しつぶされるかと思ったほどだ。


 助けられた後に、急遽水浴びをして着替えることが出来たが、食事の準備も全てリカに任せてしまった。

 そのことに後ろ髪を引かれるような気持ちはあったが、リカから申し訳なさそうに水浴びするようにと強く背中を押され、そのまま押し切られてしまった。

 そして、いまもリカの様子は変わりない。


 

「ううん…、ごめんね…。あそこまで勝手な行動するなんて…」



 心底愉快そうなエリィとは異なり、普段から、ムーを世話しているリカの雰囲気は申し訳なさそうであった。

 

 

「あ、いえっ、別に怪我もしなかった訳ですし、大丈夫ですよ」

「そうなの?なら良かったけど…でも、あの子には私からちゃんと言っておくから」

「まったく…、はいはい、これでこの一件は終わりね。リカが反省してこの男が許してるんだから、それでいいじゃない。貴方もそれでいいでしょう?」

「はい、それで問題ないです。リカさんも気にしないで下さい、襲われてた時は正直助けてくれないんじゃないかって疑っちゃいましたけど、結果助けてくれたわけですし」

「あ、あはは…、いやあ、危険はないだろうと思ってたから…、ご、ごめんね?」



 リカは青年が意外と根に持っていた、彼が襲われていた時の自分の爆笑を思い出して居心地悪そうに目線を逸らす。

 いつもいたずらっ子のような笑みで青年をからかう少女に、ようやく仕返しをしてやれたと笑みを堪え切れなくなっている青年の様子に気が付いた少女は、口を尖らせて不満を露わにした。

 そんな様子の二人にくつくつと笑いを零しながら、エリィは話を続ける。

 


「ともかく、貴方はしばらくムーの世話を離れるって形でいいのかしら」

「え、そうなっちゃうんですか?」

「そうだね、少し私が言い聞かせてみるから、それまではそれ以外をやっていてもらおうかなぁ…」

「へえ、そう、…そうなのね」



 リカは手元にスープを置きながら、考えを巡らせるように虚空を見つめる。

 危険はないだろうと思っても、最悪の可能性がある。

 ムーに攻撃を行う意思がなくとも、受ける立場からすればただのじゃれつきであっても生死にかかわってしまえば、そんなものは理由にならないのだ。


 庭周りの草刈り、保存してある食料の計算、薬草摘みに結界の支点点検。

 他にやることはいくらでも出てくるが、今すぐやらなければならないようなものもない。さて、何をさせようかとリカが考えている横で、エリィはおずおずと切り出した。

 

 

「…なら、ちょっとやってほしいことがあるのよ」



 エリィからのお願いなど、珍しい事もあるものだと思いながら、内容を窺うように視線を向ける。

 


「貴方の記憶、ちょっと本格的な回復を図ってみたいの」

「…え?」

「えぇ…」



 豆鉄砲を食らったような顔をする青年の横で、心底嫌そうな顔をするリカ。

 いつか通る道ではあったが、それにしたって嫌なものは嫌なのだ。

 それが分かっているからこそ、エリィは今この現状でこの話を切り出したのだろう。

 恨めし気に見つめる包帯娘を無視して、エリィは青年に問いかける。



「これまで短い間であったけど、安全な場所で生活していた貴方を観察していて疑問が生じたのよ。記憶の断片が、行動の合間に読み取れると思っていた。何かしらの手掛かりか、何かしらの光景を貴方が掴むと思っていた。でも、これまでその兆しすら全く感じさせ無い。これは明らかな異常よ。貴方の症状は私達が考えていた単純な記憶喪失とは一線を画している気がするの」

「―――つまり、僕は記憶喪失じゃないんですか?」

「正確なことは何もわからない。貴方が嘘を言っている訳でないのも、隠し事をしている訳ではないのも、分かっているけど、貴方自身ですら把握できていないナニカがあるのだと私は…思う」


 

 何だそれは、そう思う。

 そんな、訳の分からないモノが自身の体で起こっているのかと思うと、普段は感じることのなかった不気味な感覚が、背筋を撫でた。



「これから行うことで全てを解決することは出来ないのは分かってるけど、何かの手掛かりになるとは思うの」



 嫌に真剣なエリィの表情に気圧される形で、特に何も考えないまま、青年は頷いてしまうのだった。

 






 頬を膨らませたリカが準備をすると言い、普段は使用していない部屋の一室に入っていった。

 それまでの家事を青年に一任されたものの、自分が言い出したことだからと、エリィはいつもの私室に引きこもるのを止めて一緒に手伝ってくれたが、普段家事をしないため、一通り教わった立場でしかない青年の目から見ても、漏れのある家事であったのはご愛嬌だろう。

 

 

 日が暮れ始めたころ、ようやくリカが部屋から顔を覗かせ準備ができたと二人を呼び入れた。

 

 部屋の中に入った瞬間に感じたのは重苦しさだ。

 まるで別世界、深海の様な重圧といくら息を吸えども息苦しさを感じる不気味な空間。

 温度は温く、奇妙に赤く輝く術式が部屋の至る個所に配置され、その全てが部屋の中央へと繋がっている。


 二人が部屋に入ったのを確認すると、リカは入り口の扉を施錠し、片手に抱えた壺から赤い塗色を掬い上げると扉と壁をつなぐ境目に隙間を作らないよう塗り付け作業を行う。



「これは、――なんなんですか?」



 あまりの異様な光景に、誰に投げかける訳でもない言葉が口から零れ、興味深そうに一つ一つの術式を眺めていたエリィが、その疑問を拾い上げた。



「魔法術式の一種よ。――前に、説明したことがあったわね?」



 相応の対価と正確な指向性を想像さえできれば様々な方法で発現させることが出来る。

 それが魔法だ。

 相応の対価とは、基本的には魔力――体内魔力「オド」を扱ったものを指すが、他のものとして挙げられるのが、体外魔力「マナ」または等価交換、そしてここで使われている術式だ。

 

 術式といっても、そこに少しの魔力も必要としないという訳ではない。

 たとえば、今この場における術式には特別な塗料が使われている、ドラゴンの血液とエリィの魔力を数週間に渡って浸し続けたものに不純物の少ない真水を混ぜたそれは、魔力と呼ばれる気体を限りなく液体に近づけたモノだ。

 それにより、空間を限定し、空気中の「マナ」の流れ・描かれた術式による魔力の循環を利用し、限定下ではあるが代償を軽微に強力な魔法の発動を行える状況を作り上げた。

 それが今回の儀式に使われる対価となる。

 

 だから、青年が感じた別空間という認識は、おおよそ間違ってはいなかった。

 ここは一種の別空間。

 聖域を模した人工的な魔術空間。

 長時間人が滞在出来ぬ、死の領域。

 そんなものに、今この場所は変貌を遂げていた。

 


「始めよっか、こんな場所、長く居座るものじゃないからね」

「…そうね、ちょっと息苦しいし早く終わらせちゃいましょう」

「はい、よろしくお願いします…」



 そんな中で、この術式を作り上げたリカは心底忌々しそうにこの空間を眺め、二人を所定の位置へ誘う。

 部屋の中央に青年を、その背後にエリィを、そして自身が青年の正面に立つと二人に対して目配せを行った。



「じゃあ、始めるよ」

 


 あれ、リカが魔法を使うのか、ふとそんな事を考えた瞬間、パンッ、と目の前のリカが塗料を掬った両手を打ち合わせた。

 勢い良く打ち付けられた筈の両手からは、掬っていた塗料がほんの少しも漏れだすことはなく、続けて広げられた手と手の間からは、見たことのない文字列が空中へ書き出される。



「な、んてっ」

「…大丈夫よ、落ち着きなさい」



 初めて目の前にする魔法の数々に押され、仰け反りそうになった上半身を後ろから支えられる。

 血の気が失せていた体へ当てられるエリィの体温は、現実味のなかった意識を何とか現実に繋ぎ留める。

 エリィは安心させるように青年の耳元で、ゆっくりと理解できるように言葉を紡ぐ。

 


「リカが魔法を使うのを見るのは初めてかもしれないけど、貴方を治療したのはリカだし、よっぽどのことがないと失敗なんてしないわ。…何かあったときのために、私が貴方の後ろに控えてる、だから安心しなさい。万が一にだって、貴方に悪影響は出させない」

「っ――!」

「だから、動かないで」


 

 宙へ書き出されていく文字の羅列は徐々に周囲と同じように、赤く輝きを伴う。

 赤い文字がリカの前で一つの形を作り出した時、もう一度両手を打ち合わせ、今まで見た事の無い冷たく鋭い視線を青年に向けた。



「行くよ。…”冥夢”」



 ずるりっ、と文字列により作られた何かしらの形を突き抜けて、伸ばされた真紅の手が青年の頭蓋を掴む。

 塗料により真っ赤に染まったリカの手の平しか見えなくなった青年が、悲鳴を上げそうになり口を開いて、――もはや、自身の体が動かない事に気が付くことなく、糸の切れた人形のように全身の力が抜けるのを後ろにいたエリィが支えた。








 青年は気が付くと暗闇の中にいた。

 暗い暗い闇の中にいた。


 色も、温度も、音も、感覚もない空間が暗闇の中に広がっている。


 どこまで続くのかなんて分からない。


 ここがどこかだなんて分からない。


 それでも、ここには何もない。


 何もかも、無くなってしまったんだ。


 そんな事だけが、なぜか頭の中を過った。


 見たくない。

 暗闇だけしか見えていなかった癖にそんなことを思って。


 こんなところに居たくない。

 知るはずもないその場所が何故だかとても恐ろしくて。


 助けてほしい。

 誰もいないのに、声も出ないのに、必死に何かを叫びながらしゃがみ込んだ。



―――ぇ、きこ、…きこえる、……聞こえてる?



 そんな時に、聞き慣れたあの子の声が聞こえてくる。

 慌てて辺りを見回しても、そこには何もない空間だけしか映らない。

 どこにいるの、声にならない声を出そうとしてもこの空間には何も響かない。

 それでも、聞き慣れた声の主はこちらが自分の声を聞き取ったことを何らかの方法で把握したのか、話を続けていく。



―――良い?そこは貴方の精神世界。正確に言うなら記憶の世界。普通であれば色合い豊かな光景がそこら中に広がっている筈なんだけど…、精神の動揺具合から言って、もっと可笑しなことになっているのかな。



 普段通りの口調をほんの少しも崩さない彼女の語り掛けに、安心感を覚えることが出来た。

 大丈夫だ、彼女は分かってくれている。

 自分のこの現状も、どうしようもないこの環境も、察してくれている。

 そう思うと、今まで恐怖しか感じていなかったこの空間に対する意識が変わってくる。

 思考も、普段通り働いてくれる。


 ここが、自分の世界。

 真っ暗で、何もなくて、無くなってしまったここが自分の世界。

 それが意味するのは、つまり――


『貴方自身ですら把握できていないナニカがあるのだと私は…思う』


 エリィが先程言っていた言葉が再生される。

 その通りだった。

 自分の中に仕舞いこんで出せなくなっている記憶喪失ではなく、根本から自分のナカミが無くなっている。

 こんなこと、まるで考えもしなかった。



―――危険はないから安心して、そこには貴方を傷つけるものはない。良い?もう一度言うよ。その場所は貴方の記憶でしかなくて、触れれもしなければ話せもしない、だから、そこの存在が貴方を害することは絶対に出来ない。



嫌な予感を感じさせる彼女の言葉の意味を完全に把握することが出来ず、曖昧に、ここでは自分が傷つく事はないのかと認識する。



―――ううん、収穫がありそうなものは見付からないかな?私たちが把握してる記憶しか無さそうだし…、あれ、いや、…これはなに?



 リカの戸惑うような声に、なんだろうと思いながら次の指示を待つことにする。

 こんな現状では、勝手に動いてもいい結果に転がることは無さそうだし、何より動いてしまうことで、一方的ではあっても外との連絡が取れなくなることは避けたかった。



―――…正面にナニカあるよ。赤くて大きい、生き物ではない…遺跡かな?



 遺跡?

 なんだろうと、真っ暗な正面へ目を凝らして、恐る恐る歩を進める。

 手で暗闇を掻き分けるようにして、じりじりと前へ進む。

 どれくらい歩くのかと考え始めるより前に、青年はソレに辿り着いた。


 巨大な柱が目の前にある。

 どこか懐かしさを感じさせる、丸みを帯びた円柱の様なそれの一端は、青年が力を加えてもビクともしない。

 そして、そこにそれがあると理解した瞬間、目の前のそれが一息に色付いた。

 

 光沢があり、神秘的に輝きつつも年季を感じさせるそれは、見上げるほどに高い。

 目の前にある柱ともう一つの柱で支えられたそれは、簡素ではあるものの装飾がなされ、柱と柱を繋いでいる上部の柱は円柱ではなく四角柱。



「…鳥居?」



 思わず呟いてしまったその言葉の意味は分からない。

 目の前のこれがそんな名称なのだろうかと考えて。

 


「…あれ?なんで声が、なんで、涙が出てるんだろう?」



 いつの間にか発することの出来る声はいつもの慣れ親しんだもので。

 自分の意志でもなく頬を濡らす滴の意味すら分からない。

 それでも、これは掛け替えのない大切なものだと、自分に残った自分の証明なのだと、何となく、分かった。



―――なにか、見付けたみたいだね。

「うんっ…、見付けたよっ、見付けることが、出来たよっ」

―――そっか、うん、それは…本当に、良かった。

「これが何なのか、まだ分からないけれど、でも、これはあの人が、預けてくれたものなんだっ」

―――あの人…?


『…ごめんなさい』


 

 突然、響いた小さな囁き声に、柱を見上げていた青年が慌てて、周囲を確認する。

 辺りには先ほどと変わらない闇が広がるばかりで、何も見通すことが出来ないばかりか、声の主が何処にいるのかも分からない。

 ただ、儚く消え入るような霞のような声に、今にも消えてしまいそうだと感じて、どこか懐かしく、どうしようもない程泣きたくなった。



「…リカさん、聞こえました?」

―――え、なにが?そっちでは何か起こってるの?

「いえ、僕達以外の声が…」

―――声?そんな筈は、そんな筈は無いよ、だってそこは貴方だけの空間で、そこでは言葉を発することなんて無い筈だよ、だって、そういう風に出来ているんだもん。聞き間違い…では、ないよね。

「はい、かすかな声でしたけど、確かに聞こえました」

―――分かった、想定外なことが起こるのはちょっと危険。離脱しよう。魔法を打ち切るね。

「ま、待ってください!」



 この空間を打ち切ろうとするリカの言葉に、青年は叫ぶように、リカに静止を掛けた。

 理由なんてものは、明確になっていない。

 勘違いかもしれないし、思い違いかもしれないし、見当違いかもしれないけれど。

この声の主は敵ではないと、分かっているから。

 どうしても、この人とここで話さなきゃいけないと、そう思ったから。



「少しだけ、少しだけでいいんです。この人と話をさせてください!」

―――……。

「ここに居て、僕に言葉を伝えるってことはきっとこの声の人も僕に伝えたいことがあって、そして僕が無くしてしまったものを知っている人だと思うんです!」



 思考はまとまっていない。

 どんな理由で、自分がこの声の主に危険を感じないのか具体的に言葉に出来ないから、ただ思いついた内容を口に出して、魔法を打ち切ろうとするリカの時間を稼ごうとする。


 説得材料としては下の下だろう。

 状況を考えればリスクが高すぎる。

 魔法について齧ったばかりの青年と、魔法を行使しているリカの、どちらが正確な判断を下せるかなんて火を見るより明らかで。

 リカが危険と判断しているのだから、本当はリカの判断に従うのが正しい選択なのかもしれない。


 そして、そんなことは青年も理解していた。

 それでも、心のままに、青年は言い募る。



「僕は僕を知りたいんです!自分の起源を、自分の過程を、自分の世界を、知らなければいけないと思うんです!」



 記憶にある、最初の出来事。

 怪物に嬲られて、全身を襲う激痛の中で、諦められないと思った自分がいた。

 何が何でも生きなければならないと思った自分がいた、成し遂げなければならないことがあると思った自分がいた、前に進まなければならないと思った自分がいた。

 その理由が知りたい、知らなければならないと思う。

 死に瀕して切望したあの願いの原点を知って選択しなければ、それはきっと間違いでしかないと思うから。

 ここで危険を冒さなければならないと、そう思った。



「リカさん―――お願いします」

―――…ああ、もう…。


 必死な青年の叫びが届いたのか、この世界から弾き出されることはない。

 驚いたように無言であったリカは、溜息交じりに青年の意志を尊重する。



―――少しだけだよ。…私が危険と感じたらすぐに引きずり出すから。

「あ、ありがとうございます!!」



 見えているかも分からないけれど、リカに向かって頭を下げる。

 こんな分の悪い賭けをお願いして、了承してくれた彼女に感謝を持たないなんてことは、出来るはずもなかったから。


 青年は頭を上げると、もう一度この空間を眺め回す。

 闇しか見えなったここを何度確認しても、空虚しか感じることは出来ない。

 だが、ここにはもう何かがあると分かっているから、それを踏まえた行動を取ることが出来る。



「僕の声が聞こえますか!聞こえていたら返事を下さい!」



 声は闇に溶けるように、反響もせず消えてゆく。

 


「答えることが出来ませんか!?声が聞こえていませんか!?この場所にいる貴方は、僕の何なんですか!?」



 返答は帰って来ない。

 先ほど聞こえた小さな声が幻聴であったかと疑いたくなる程、何の反応も起こらない。

 青年は声を張り上げる。



「僕は誰ですか!?僕の全ては、何処に行ってしまったんですかっ!?僕は…何処に行けば、良いんですかっ!?」



 紡がれた言葉に青年自身が呆然とする。

 零れた本心は、青年自身も理解していなかった迷い。


 心を寄せる場所も思い出もなく、かといって自身を確立する過程もない。

 厳しい環境での生活は、確かに青年の精神に負荷を掛けていた。

 

 いつの間にか、誰かへの問い掛けを止めてしまっていた自身を奮い立たせ、何とか続きを口にしようとしても、頭に思い浮かぶのは、この空間のような何もない暗闇だけ。

 それでも。



『…悲しみに囚われないで、愛しい子よ』


「っ!?あ、あなたは…」



 青年の思いに答えようとする誰かが、ここには居た。



『子よ、貴方の思うままに進みなさい。道はおのずと貴方の前に』


「あ、貴方は誰なんですか!?どうしてここに!?」


『私は■■■■■、もはや貴方の片隅に居着く力無き存在』



 悲しげに、優しげに、どこまでも深く愛おしげに意志を伝えてくる。

 それなのに、答えてくれた筈のこの人の名前が、ノイズが走ったように聞き取ることが出来ない。

 そして、それが最初から分かっていた様に、姿の見えないこの人は動揺する青年を宥める。



『…聞こえないのですね。いえ、当然の事です。気に病む必要はありません』



 そんなことよりも、とばかりに姿の見えないこの人は話すのを止めない。



『このような機会に恵まれるなど想像もしていませんでした』

『貴方ともう一度話をすることが出来る幸せに感謝します』


「や、やっぱり、僕と会った事があるのですね」


『ええ、そして交わしたい言葉は幾つもありますが、時間がありません』



 やや口調を早め始めたこの人は、これ以上の質問はしないようにとやんわりと青年の口を塞ぐ。

 

 しゃらん、と鈴の音が聞こえた気がした。

 衣擦れの音と、草のなびく音が重なり、姿の見えない小さな吐息が青年の額に掛かる。

 見えないのに目の前に誰かがいる、そう思って身動きできないまま正面に目を凝らしても闇の帳が目の前に広がるばかり。


 

 


『貴方の記憶は時を経ようとも、治療しようとも治るものではありません』

『この世界の各地に散らばっています、…いいえ、散りばめられています』

『それを、取り戻すことは非常に困難です。命の危険も多くある』

『それを理解して、貴方はこの先を選びなさい』

『大丈夫、少なくとも貴方の傍にいる二人はとても親切な方です』

『二人を頼りなさい、自身を信じなさい、そして私からは祝福を』

『力無き身ではありますが、全ての力を振り絞り貴方を助けましょう』

『これから先の貴方の道に、少しでも多くの幸があらんことを』



 ふらりと、青年は体のバランスを崩す。

 支えにしていた足には、もう力が入らない。

 次いで顔を打たないようにと、出した手は暗闇の地を引っ掻くばかりで。

 意識が闇に溶ける中で、確かに青年はその目に捉えていた。



 ごめんなさいと誰かは言った。

 聞いた事の無い声で、けれどどこか懐かしい感情を抱かせる。


 貴方の、そんな言葉は聞きたくないと口に出しても、その言葉は何処にも届かない。


 ごめんなさいと誰かは言った。

 壊れゆく世界の中で、その声は酷く明瞭に、どこまでも安心感を抱かせる。

 

 失うばかりの僕にはもう何も残っていないのに、まだ立たなくてはいけないと根拠もない感情が僕を囃し立てる。


 

 ごめんなさいと彼女は言った。

 

 ようやく見ることの出来た彼女の泣き顔は酷く儚く、酷く悲しかった。


 冥夢

 相手の意識を直接精神世界に落とす。

 相手がこの魔法を知らないと言う事が条件の、呪い系統の魔法である。

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