第三章:戸沢長屋のお葉
外神田の自身番がある横丁は、夕方になると、たいてい油の匂いが立つ。桶屋が木屑を焼き、豆腐屋が釜の火を落とす。その間を、子どもが駆け、犬が鼻を鳴らしてゆく。
半七が五平から聞かされたのは、となりの番太郎・要作の家の、夫婦喧嘩の続きであった。弟の次郎兵衛をめぐって、女房のお霜が亭主に食ってかかり、亭主も引かぬ。昨夜はその喧嘩が、いつになく激しかったらしい。
その翌朝、女房が戻らない。亭主は町内の用も放り出して探し歩いているという。
半七は舌打ちをした。人の気持ちというものは、堅いようでいて脆い。まして、江戸の裏長屋に住む女は、見かけよりも追い詰められるのが早い。川へ身を投げた、などという話になれば、次郎兵衛の件とは別の火が上がる。
それでも、今は手が足りない。半七は五平に、もし戻ったら知らせろとだけ言い置いて、自分の用へ戻った。
四日ばかりが、じりじりと過ぎた。
夕がた、家へ戻ると、亀吉が土間にしゃがみ込んで草鞋の紐を解いていた。川越へやった子分である。髪は潮風に乱れ、頬が赤い。船での行き帰りは、春でも骨にこたえる。
「親分。大抵のことは、片がつきやした」
「やあ、御苦労。まず、ひと息つけ」
茶をすすめても、亀吉は喉を鳴らすように一気に飲み、すぐ口を切った。熱い茶の匂いが、雨を含んだ外気と混じって、部屋の隅に薄く漂う。
「次郎兵衛の家は、おふくろと兄貴がいる百姓家でさ。本人は屋敷奉公がしたいって、二月の晦日に家を出たそうで。昼の八ツ半、川越の河岸から舟に乗った。兄貴が船場まで送ったってんですから、そこは間違いねえ」
「晦日に舟なら、翌日の昼には江戸へ着くはずだ。ところが、あいつは三日に姉のところへ顔を出した。二日ぶん、どこへ消えた」
半七は、そこに爪を立てた。人間が二日、余計に迷うには理由がある。天狗だの旋風だのと言い立てる者の尻にも、その二日がからむはずである。
亀吉は首をかしげた。
「そこが、まだ見えません。で、お磯の方なんですが——」
次郎兵衛と縁があるらしい娘の名である。川越の在方で聞き出した話は、重く湿っていた。家はもと相当の百姓であったのが、親の代からだんだん苦しくなり、姉のお熊が婿を取っても、その婿が早死にする。乳呑児ひとりを残しての不仕合わせが続き、とうとう妹のお磯を吉原へ売ることになった。
半七は、思わず眉を寄せた。吉原へ売られる娘が珍しいわけではない。だが、在方の百姓娘が江戸へ出て、どこで誰と結びつくのか——その糸の絡まり方は、たいてい素直ではない。
「お磯の勤め先は、どこの座敷だ」
「それが判らねえ。江戸の女衒が玉を見に来て、いったん帰って、三月の二十七日に出直して、金を渡して連れて行った。けど、駒八の家が勤め先を口にしねえんで」
女衒の名を訊くと、亀吉はさらりと言った。
「戸沢長屋のお葉です」
半七は、ふっと鼻で笑った。
「女か」
「亭主は化け地蔵の松五郎。昔はあの稼業でも幅を利かせたが、二、三年前に中風で動けねえ。女房のお葉が、亭主の看板を借りて商いをしてやす。品川の勤めあがりで、口も足も達者だ。年は三十五。垢抜けた女で」
半七の頭に、外神田の自身番で聞いた話が、ぴたりとはまった。番太郎の家へ押しかけて、次郎兵衛を出せと騒いだ「粋な年増」。それが、お葉に違いない。
「明日、行くぞ。今度はおれも出る」
翌朝、四ツどき。小雨が細く降っていた。春の雨は冷たい。だが、梅雨のように重くないぶん、余計に人の首筋へ沁みる。
半七と亀吉は、浅草へ向かった。
花川戸を越え、馬道のあたりへ入ると、道が急に狭くなる。軒の低い家が並び、雨のしずくが、簾や戸口の縄から落ちて、石畳に小さな輪をつくる。馬道という名は、昔ここが馬の往来に使われたからだが、今では人と荷車の息づかいが、せわしなく行き交う。
そこへ、庄太がいた。土地っ子の子分である。
「いい所で逢った。手を貸せ」
あらましを聞くと、庄太は笑い、傘をかざし直した。
「戸沢長屋のお葉なら、わっしも顔を知ってます。こんな雨に、三人もぞろぞろ行かなくても。わっしがひとりで探って来ますよ」
「だが、折角踏み出した。どんな巣に住んでいるか、見てやる」
戸沢長屋は、もとは旗本戸沢家の抱え屋敷の跡を、享保の頃に町屋にひらいたものだという。武家地が町に変わると、妙に間口が揃い、路地が直角に折れる。そういうところには、金の匂いを嗅ぎ分ける連中も自然と集まる。
三人が傘を並べて行くと、ほどなく一軒の仕舞屋が見えた。派手ではないが、小綺麗である。格子の前で、十五、六の小女が、濡れた布をしぼりながら、せっせと木を磨いていた。この雨で格子を拭かせるのは、家の者がよほど口やかましいか、見栄に骨のある女が棲んでいるかだ。
半七は二、三軒手前で立ち止まり、亀吉と目で合図した。庄太だけが近寄った。
ところが、庄太が小女へ声をかける間もなく、四十五、六の男が通りかかった。着物の仕立てが堅気で、歩き方が帳場の人間である。男は庄太に会釈し、耳打ちするように何か言った。
「長えな」
亀吉が、雨の中で肩をすくめる。
「待て。急な用でも出来たんだろう」
やがて庄太が戻って来た。
「あの男は、馬道の増村って菓子屋の番頭、宗助です。親分に、どうしても会って話したいことがあるって」
余計な道草に思えたが、半七は、こういう横道が事件の芯へつながるのを、嫌というほど知っている。三人は宗助に案内され、近所の小料理屋の二階へ上がった。
畳は新しくないが、濡れた草鞋の匂いを、煮しめの甘い匂いがうまく消している。女中が徳利を置くと、湯気が立った。雨の日の燗は、ひとの気を緩ませる。
宗助は、丁寧に頭を下げた。
店の若旦那・民次郎が二十二。若い者の道楽もある。ところが先月から、戸沢長屋のお葉という女が時々店へ来て、若旦那を表へ呼び出し、何か話して帰る。それがどうも金の無心らしい。おとといは見知らぬ男を連れて来て、強面に脅すような様子まであった。若旦那は蒼い顔をしているのに、わけを言わない。
しかも、若旦那には縁談が持ち上がっていて、まとまりかけている。その矢先に、お葉のような女に出入りされては、家の顔が立たない。いっそ乗り込んで埒を明けようとしたが、庄太に止められた。足元を見られて、ふっかけられるのが落ちだという。
半七は、酒を一口ふくみ、宗助の顔を見た。
「番頭さん。ひとつ確かめておく。若旦那とお葉とに、色のいきさつはねえんだな。亭主持ちだ。そこが曖昧だと、面倒が増える」
「さあ……確かなことは。本人は決して覚えはないと申します」
嘘とも言い切れぬ。男が女の名を口にする時、身を守るために黙ることがある。だが、黙り方にも種類がある。宗助の話を聞いていると、民次郎の沈黙は、色よりも恐れに近かった。
女中が肴を運び、話は一息切れた。皿には、細く切った沢庵と、煮凝りがのっている。煮凝りの表面に、灯の反射がゆらりと揺れた。雨は、さっきより強い。
半七は猪口を置き、さらりと訊いた。
「若旦那の遊び仲間は、どんな連中だ」
「米屋、呉服屋、小間物屋……この辺りの古い暖簾の家の息子株で、三、四人」
「遊び方は」
「太鼓持や落語家を取巻きにして、吉原だの、あちこちへ……と聞いております」
半七は、黙ってうなずいた。吉原へ出入りする若旦那と、女衒の女房。その線だけなら、どこにでもある。だが、そこへ「城の玄関を騒がした男」の影が重なると、話は一段いやらしくなる。
半七は宗助へ言った。
「ともかく、この一件はあっしに任せな。番頭さんが顔を出しゃ、相手は足元を見る。こっちの手で埒を明ける。ただし——」
半七は、雨戸の外を一度見た。濡れた葉柳が、しなだれている。
「五十両や百両は、痛むと思っておいてくれ。こいつは、ただの口止めで済む相手じゃねえ」
宗助は、喉を鳴らし、深く頭を下げた。
「承知いたしました。どうか、後腐れのないように……」
半七は猪口を取り上げ、燗の温みを舌で確かめた。雨の音が、屋根を叩く。浅草の昼の二階は、人の息と酒の匂いが混じり、どこか芝居小屋の裏のようでもあった。
この濡れた路地の向こうに、天狗と旋風の化け物が、本当にいるのかどうか。
半七は、まだ胸の内で、次郎兵衛の「消えた二日」を離さなかった。




