第二章:堀江のすすき
麹町の平河天神前で鶴吉の胸のうちを聞き届けた半七は、暮れ残る冬日を背にして四谷をまわり、神田の家へ帰った。往来の風は乾いて尖り、鼻の奥に霜の匂いがささる。湯へ行って汗を落とし、ゆう飯をかき込んでしまうと、火鉢の灰がまだ温かいうちに、子分の善八が顔を出した。
「節季になったせいか、寒さがこたえますね」
「ご同様に、歳の暮れというものは暖くねえものだ」
半七は笑って、煙草盆を引き寄せた。善八の眼つきが、ただの世間話では帰れぬと知っている。半七は、わざと冗談めかして言う。
「その節季に気の毒だが、一つ働いて貰いてえ事がある。急ぎと云うでもねえが、急がねえでもねえ。まあ、せいぜいやってくれ」
「なんです」
「かたき討の助太刀と云ったような筋だ」
「芝居がかりですね」
善八が笑うと、半七もつられて口元をゆるめた。
「こういうことになると、おれもちっと芝居っけを出したくなる。本当なら虚無僧にでも姿をやつして出るところだが、真逆そも行かねえ。まあ、聴いてくれ」
半七は、福田左京の屋敷の血の一件から、伝蔵という曲者の名、秩父生れだという素性、そして鶴吉が吉良上野の脇指を形見のように抱えていることまで、端折らずに話した。吉良の脇指でかたき討ちとは、討たれた方の因縁がひっくり返るようで、芝居の筋にも似ている。だが、鶴吉の眼の色はまぎれもない本気であった。
善八は頷きながら、要を先へ押す。
「成程、こりゃあいよいよお芝居だ。そこで、まずどこから手を着けます」
「この一件は四谷の常陸屋の係りだ。ひと通りの探索はしているだろうが、こっちはこっちで新規に手を伸ばさなけりゃならねえ。直七と鶴吉の話によると、その伝蔵って奴は一文無しで故郷へ帰ることも出来めえ。江戸に居続けるのも危ねえ。どっかへ草鞋を穿いたかも知れねえが、三月も前の足あとだ。尾けるのが面倒だ」
「伝蔵と係り合いの女は」
「お熊って女だ。年は十九。宿は堀江だそうだ」
「堀江ってのは、どこです」
「下総の分だが、東葛飾で、江戸からは遠くねえ。行徳の近所だと思えばいい。浦安って村があって、その内に堀江や猫実……」
善八はそこで合点した顔になる。潮の匂いのする方角へ出れば、江戸の者でも遊びに行く土地だ。釣りや汐干狩に出る者がある。半七は言い添える。
「望み通りに金を盗めば、堀江まで行ったろうが、これが一文無しじゃどうだろう。第一、お熊が国へ帰ったか、江戸のどっかで奉公して伝蔵のたよりを待っているか、それも判らねえ。無駄かも知れねえが、無駄と知りつつ無駄をするのも商売の道だ。明後日あたり踏み出してみる」
「おまえさんも行きなさる」
「道連れがある方が、おめえも寂しくなくて好かろう。行くとなれば、深川から行徳まで舟で行くのが便利だ。ちっと寒いが仕方がねえ。朝は七ツ起きだ」
七ツといえば今の時計で午前四時どきである。善八は苦笑して、それでも「じゃあ、そうしましょう」と受けた。
約束の朝、江戸の町は白い霜を一面に置いていた。瓦屋根も板塀も、夜の冷えをそのまま抱え込んで硬い。半七と善八は行徳がよいの舟に乗り込み、川風に肩をすぼめながら、黒い水の面を見送った。行徳は塩の荷が集まる土地で、川筋の宿も舟も、魚と塩の匂いがしみついている。釣り場へ出る連中が道具を預け、弁当の世話まで頼むので、宿屋の側も心得ている。二人は伊勢屋という宿へ入った。
格子をくぐって土間へ足を踏み入れると、先客が脚絆を解いていた。顔を上げた男が、にやりと笑う。
「やあ、三河町の親分。不思議な所で」
下谷の御成道に店を持つ道具屋、遠州屋才兵衛である。茶道具を商い、屋敷へも出入りしているだけに、身なりも口ぶりも町人にしては行儀がよい。半七は、こんな所で会うとは、と目で訊いた。
「まったく不思議なご対面だ。お前さんは寒釣りかえ」
「なに、そんな道楽じゃありません。これでも信心参りで……。五、六人の連れで成田へ参詣して来ました」
「それにしても、途中から連れに別れて、ひとりでここへ来なすったのか」
「まあ、そんなわけで。へへへへへ」
才兵衛は、口の端を上げて独りで笑った。裏と表の別々の座敷へ通され、半七らが茶を啜っていると、才兵衛はすぐに挨拶に来て、成田土産の羊羹などを置いて行った。甘い匂いが畳の上にひろがる。善八は、才兵衛の眼がどこかそわそわしているのを見逃さない。
才兵衛が座敷へ引くと、善八が声を落とす。
「あいつ、成田からの帰りにひとりでここへ廻って来たのは、掘出し物のあてがあるんでしょう」
「まあ、そうだろう。商売には抜け目がねえからな」
その日は海辺の風がことさらに冷たく、善八も少し風邪気味だと言うので、二人は外へ出ずに一泊した。
翌日は風が凪いで、十二月にしては珍しいほどのうららかな日和となった。堀江までは陸でも舟でも行かれるが、二人は陸路を選んだ。あさ飯の箸を置くとすぐ宿を出る。出がけに才兵衛とまた鉢合わせた。彼も堀江へ行くと言うので、三人は並んで歩き出す。
才兵衛は相変わらず如才なく喋りながら、どこか半七らの道連れを厭うような気配を見せた。結局、途中に寄り道があると言って、狭い横道へ切れてしまう。善八が舌打ちをする。
道の片方は、海へ向かう干潟が遠くまでひろがっている。潮が引いた砂はまだ湿り、陽に照らされて鈍い光を返す。汐干狩にはおあつらえ向きだが、季節が違う。冬の干潟には、白い鳥が群れをなして降りていた。
通りがかりの土地の者に訊くと、白い雁だと言う。善八はしばらく見惚れていたが、急に声を上げた。
「親分、ご覧なせえ。遠州屋の奴め、いつの間にか先廻りして、あんな所をうろついてますよ」
指す方角では、才兵衛が砂の上に屈んだり立ったりして、何かを探すふうである。貝でも拾う気か、と善八は言うが、半七は鼻で笑って歩みを止めなかった。道具屋が干潟で探すものが、貝のはずはない。
やがて堀江へ着いた。宇兵衛という百姓の家をたずね、まずは近所で訊き合わせる。お熊は九月の初めに江戸から一度帰って来たが、半月ほどでまた出て行ったという。宇兵衛は、なぜか行く先をはっきり言わない。江戸ではないらしく、船橋の方へ奉公へ行ったという噂もあり、八幡の方へ行ったという噂もある。武家奉公とは違って茶屋奉公に出たのだろう、だから兄が隠しているのだろう――そんな憶測まで飛び交う。いずれにしても、お熊が実家に留まっていないことだけは確かであった。
江戸から誰か訪ねて来た者はないか、と半七が重ねて問うと、近所の者は、見慣れぬ旅人のことを覚えていた。お熊が出て行った後、十月の初めに二人連れの男が訪ねて来た。つづいてその月の半ば頃に、一人の男が訪ねて来て、宇兵衛の家にひと晩泊まって帰ったという。釣りや汐干狩のほかに他国者があまり通らぬ土地だけに、余所の者はすぐ眼につくのだ。
二人連れの人相風体を詮議すると、四谷の常陸屋の手下が伝蔵とお熊のありかを探りに来たらしい。後の一人は、どう考えても伝蔵本人であるらしかった。半七は顎を撫で、冬の陽の高さを一度見上げた。
「ともかくも、宇兵衛の家へ行ってみよう」
先に立って歩き出すと、冬枯れの田のあいだに小さな農家が見えて来る。門口には、枯れすすきが刈り残されて大きい一叢、風に擦れて乾いた音を立てていた。半七は、そのすすきの穂の白さが、さきほど干潟に群れていた白雁の羽と、どこか似ているのを、ふと不吉に思った。




