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第一章:平河天神前の鰻屋

 嘉永六年師走のはじめ、麹町の空気は、昼でもどこか薄く翳っている。往来の石は冷え、鼻へ入る息が乾いて痛い。平河天神の前を抜けると、武家屋敷の長い板塀がつづき、門前には槍持ちの小者がぼんやり立っていた。


 その板塀の陰に、助惣焼すけそうやき屋の向かいに、商人向きの鰻屋が一軒ある。煤けた暖簾の奥から、炭の匂いと、甘辛いたれの煙が流れて来る。半七が案内されて二階へ上がると、畳の上に火鉢が据えてあり、銚子の燗をつける湯気が、障子の紙をしっとり曇らせていた。階下で裂いた鰻の骨が、ぱちぱち鳴る音も聞こえる。


 先に座っていたのは、飼葉屋の直七である。四十がらみの男で、武家の厩へ出入りする商い柄、口が達者で、腹の底は案外に堅い。もう一人、膝を正している若者がいた。襟の掛かった半纏を小ぎれいに着て、目は赤いのに、涙をこらえる筋肉だけは張っている。直七が半七へ向けて、その若者の肩を軽く押した。


「親分、こちらが笹川の鶴さんでございます。麹町の平河天神前に、魚屋の笹川ってぇのがあるでしょう。魚屋と申しても、仕出しもする相当の店で……」


 笹川は、父の源兵衛が五年前に亡くなって、母のお秋が帳場を切りまわしている。鶴吉は十九、父のいない家の若主人として働いているが、母は女ながら気丈で、亭主の生きていた頃より商いを広げ、料理番と若い者を合わせて五、六人を使うまでになったという。


 半七は黙って聞いていた。若い者の肩口から、潮の匂いがする。魚商いの家の匂いは、いくら身なりを整えても抜けない。鰻屋のたれの匂いと混じって、妙に胸へ迫る。


 直七は、鶴吉を見やり、そこで話を本筋へ移した。


 笹川には、お関という娘がいた。鶴吉の姉で、器量もよく、三味線も小唄も一通りこなす。番町の御廐谷に屋敷を構える五百石取りの旗本、福田左京から所望され、妾となった。左京の本妻がほどなく病に倒れたので、お関は屋敷の内でも本妻同様の顔をするようになり、笹川の店が大きくなったのも、あの娘のお蔭だという噂が、まるきり嘘でもなかったらしい。


 ところが、その十月六日の夜である。左京と妾のお関が、屋敷の内で斬り殺された。下手人は、中間の伝蔵。武州秩父の生まれで、六年ほどその屋敷に奉公していたが、春ごろから女中のお熊と密通しているのを、お関に見つけられた。武家の家にそういう揉め事を抱えておくわけにはいかない。主人と相談して、お熊を八月ぎりで宿へ下げた。伝蔵も暇にするのが筋だが、年季も長く、小才覚もあるので、ひとまず残しておいた。


 その残した男が、夜更けに寝所へ忍び込み、手箱の金を抜き出そうとしたところを、目を覚ました左京に咎められた。伝蔵は枕元の脇指を抜いて左京を斬り、つづいてお関を斬った。誰かが駆けつける気配を感じると、縁側の雨戸を開け、庭口から表へ逃げた。


 直七の口調は、ここで一段低くなった。


 伝蔵は人を斬っただけで、何も盗っていない。重罪を犯して、手ぶらではあまりに馬鹿らしい。そこで隣屋敷、高木道之助の門を叩いた。高木は左京の本家で、次男の左京が福田へ養子に入っていたのだという。伝蔵は用人に会い、主殺しの次第を隠さず言い放った。


「このまま表沙汰になれば、五百石のお屋敷は潰れましょう。三百両くだされば、黙って国へ帰ります」


 主人を斬ったうえで口留め金をゆする。聞くだけで歯が浮く。だが、相続人がないとなれば家は滅びる。事件を秘して急養子を迎え、左京は病死とでも披露すれば、体裁だけは保てるかもしれぬ。そこへ付け込んだ強請であった。


 用人も迂闊に突っぱねられず、ひと間に待たせ、主人へ知らせる。道之助は憤り、福田家の存亡など構っていられぬ、不忠不義の曲者は見せしめに召捕れと命じた。だが、家来が出て行った時には、伝蔵の姿は消えていた。返事を待つ間も屋敷の気配を探って、形勢が悪いとみるや、隙をうかがって逃げたのである。


 高木と福田の両家から届けが出て、検視が行われ、福田の家は予想どおり取潰しになった。家来も中間も下女も、屋敷の滅亡とともに散って、主人と妾の敵を追おうとする者は一人もいない。


 半七は、この筋の大まかは耳にしていたが、係り合いではないから手を出していなかった。今、直七と鶴吉の口から、改めて仔細を聞かされ、火鉢の炭が小さく崩れるのを眺めた。


「親分……」直七が、畳へ手をついた。「鶴さんとおっ母さんが、どうにも堪えられねえと言うんで。姉さんの敵ばかりじゃございません。福田の殿さまには長年お世話になった。屋敷が潰れて、用人もご家来衆も、みんな勝手に散って、敵を探す者がいねえのは、あんまり口惜しい。百姓でも町人でも、仇討は天下御免だ。鶴さんが敵を探し出して、殿さまと姉さんの仇を立てろと、おっ母さんが言い聞かせているんでございます」


 鶴吉も、畳に額がつきそうなほど頭を下げた。


「何分、お願い申し上げます。伝蔵の居どころを……」


 半七は一息おき、鰻屋の階下へ視線を落とした。板の間で皿を引く音がして、香の物の酸が上がって来る。腹は減るが、こういう話の時に箸は進まない。


「話はわかった」半七は頷いた。「だがな、鶴吉。おめえは福田の家来じゃねえ。妾の弟だ。表立って殿さまの敵と名乗るのは無理がある。姉の敵と言やぁ言えるが、伝蔵みてえな罪人は、公儀に召捕らせて大法に服させるのが筋だ。おめえが手前で討つことじゃねえ」


 鶴吉の目が、火鉢の火のように赤くなった。


「親分のお諭しは、もっともでございます。けれど、あの伝蔵を自分の手で仕留めなければ、気が済みません。母の胸も晴れません。首尾よく本望を遂げた上は、どんなお仕置きでも厭いません」


 若い者の強情は、理屈では曲がらぬ。半七は言葉を選び、幾度か宥めたが、鶴吉は肯かない。直七も、横から口を挟まずにいる。話を持ち込んだ手前、ここで腰が引ければ面目が立たぬのだろう。


 半七は、ふっと笑った。


「それほど思い詰めたら仕方がねえ。思い通りに仇討をおしなせえ。ただし、伝蔵の居どころを突いて、おれらが押えるなら造作はねえが、おめえの手で討つとなると、手順が面倒になる。伝蔵は腕が立つのかえ」


「大して出来る奴でも無さそうだと……」直七が受けた。「けれど主人を一太刀で斬って、つづいてお関さんも斬るってぇのは、あんまり手ぎわがよすぎる。何か因縁がありそうで……」


 鶴吉が、ためらいがちに言った。


「今どき、こんな話をいたしますと、お笑いになるかもしれませんが……伝蔵が抜いた脇差は、吉良上野殿の指料であったと申します。由来は存じませんが、先祖代々伝わっていると……」


「吉良の脇指か」半七は眉を寄せた。「好んでそんな物を差すとは、物好きだな」


「先年、虫干しの節に、殿さまが御覧になって……どこが気に入ったのか、指料にする、と。止めた者もいたそうですが、殿さまは肯かれませんでした。刀が悪いんじゃねえ、差し手が悪い。おれは吉良みてえな悪い事はしねえ。吉良の良い所にあやかって、四位の少将にでも昇るのだ——そんなふうに仰ったと……姉はふだんから、その脇差は縁起が悪いと言っておりましたが……」


 炭がはぜ、火の粉が一つ飛んだ。半七は火鉢の灰を箸でならし、平たい声で言った。


「刀の祟りってえのは、昔から人が勝手に作る話だ。だが吉良の名は、人の腹の奥をざわつかせる。縁起を担ぐ連中の口には上りやすい。で、その脇差はどうした。伝蔵が持ち逃げか」


「いえ。庭先に捨ててありました」鶴吉が答えた。「後始末の時に、折ってしまおうかという話も出たそうですが、わたくしがお形見に頂戴いたしました。——それで、わたくしは、この脇差で伝蔵を討ちたい。いかがでございましょう」


 半七は、ひとつうなずいた。


「それもいい。吉良の脇指で仇討をしたら、世の中もひっくり返ったもんだと、泉岳寺の連中が驚くかもしれねえ」


 言ってから、半七は鶴吉の顔を見た。冗談が通じる顔ではない。だが、冗談の皮を一枚かぶせねば、若い者の刃はすぐに自分の喉へ向く。


「刀は、研いでおけ。鈍い刃で血を見ると、余計な苦しみを呼ぶ。刀屋へ持って行って、しっかり研がせろ。あとは、直七と一緒に、おれのところへ時々顔を出しな。勝手に走るんじゃねえぞ」


「ありがとうございます」鶴吉は声を震わせ、畳に手をついた。


 半七は、火鉢の側を離れ、階段口へ立った。鰻屋の暖気が背へまとわりつく。外へ出れば、麹町の冷えが待っている。その冷えの中を、伝蔵という男がどこかで息を潜めている。半七の胸の内には、もう一つ、冷たいものが沈んでいた。今夜、神田へ帰ったら、まず子分に言い付けねばならぬ。敵討の助太刀——芝居がかった仕事の幕が、上がりかけていた。

助惣焼すけそうやき:助惣焼は、小麦粉を水に溶いて薄く伸ばし、餡を包んで焼いた菓子です。江戸時代の寛永年間に、江戸麹町三丁目の橘屋佐兵衛さんが発明したらしいです。助惣焼は、千利休が好んだ「ふの焼き」が変化したものと考えられていますが、ふの焼きでは味噌を巻くのに対し、助惣焼は餡を巻くようになっているのが、時代の進化(砂糖が中期以降、普及するようになった)なのかなって感じです。

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