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プロローグ:極月十三日の蕎麦

 極月ごくげつ――いまの暦では、ただの十二月と言ってしまうところだが、半七老人の話には、どうしてもその古めかしい呼び名が似合う。江戸の匂いが、ことばの端から立ちのぼって来るのである。


 その極月十三日の午後、僕は赤坂の場末へ降りて行った。雪こそ降っていないが、空の色が鉛に変わり、風が頬を撫でるたびに骨の中へ冷えが入りこむ。電燈の白い明かりが路地の石を冴え冴えと浮かせ、屋台の焼き栗の香が、ひと息だけ冬の甘さを残して流れていった。


 角を曲がると、半七老人の家の裏口へ、蕎麦屋の出前持ちが盛り蕎麦の膳をかついで入って行くのが見えた。僕は思わず足を止めた。食事どきに押し込むのは、客の方も気が重い。いったんは引き返して、坂の上の本屋でも覗き、頃合いを見て戻ろうかと思ったが、若い者の図太さがそれを許さない。結局、格子戸をそっと押しあけてしまった。


 馴染みの婆やが出て来て、こぼれた息の白さを見もしないで、

「まあ先生、どうぞ」

 と、すぐ奥へ通した。座敷には、火鉢の炭が赤く、煙草の匂いに、乾いた畳の香が混じっている。老人は膝の前に煙草盆を寄せ、猫が縁先で丸くなっているのを眼で撫でながら、にこりとした。


「やあ、いいところへお出でなすった。先生、まあ蕎麦を召し上がって下さい。なに、婆やの分は追い足しをさせますから。今日は、ご祝儀に一杯です」


「ご祝儀……って、何のですか」


煤掃すすはきですよ。すすはき。江戸以来、十三日と決めているんでしてね」


 煤掃――いまの家なら年末の大掃除と一緒にしてしまうが、江戸の町では、あれが一つの区切りだった。将軍家の御城で十二月十三日に煤掃をする。その日に合わせて町屋も一斉に煤を払う。老人はそう言って、昔話の糸口を指で摘まむようにして、するするとほどいて見せる。


「城の煤掃に倣うっていうのは、いかにも江戸っ子らしいですね」


「ええ。十二日、十三日になりますと、笹竹を売りに来るのがいましてね。煤を払うのに、笹の葉は都合がいい。芝居や講談でおなじみの、大高源吾の笹売りというのは、あれです。忠臣蔵で、源吾が笹を担いで吉良の屋敷へ通う場面があるでしょう。ああいう節季の匂いが、いまはもう町から消えました。もう一つ、荒神さまの絵馬を売りに来る。台所の煤を払って、古い絵馬を新しいのに替えるんです。そういうのが来ると、年の瀬が来たと胸が騒いだもんですが……。文明開化ってのは、便利な代わりに、そういうものをさらって行きます。はははは」


 老人は笑いながらも、どこか惜しむように目を細めた。婆やが持って来た盛り蕎麦は、白い粉の香が立ち、つゆの醤油がきりりと辛い。葱を落とし、山葵を箸の先で溶かすと、鼻へ抜ける刺激が、凍えた身体の奥をぱっと明るくした。老人は下戸で、酒は盃を湿らすほどだが、こういう日には「一杯」と言うのが、何よりの肴らしい。


 食べ終えて茶をすすり、火鉢に手をかざしていると、外を通る売り声が、師走の寒さを連れて来た。鮒売りだろうか。乾いた声が遠くで切れ、また近づいては消える。日暮れが早く、障子の向こうの空は、もう夜の色を含みはじめている。


 煤掃の話から、自然に赤穂義士の討入りへ糸が引かれた。極月十四日、吉良の屋敷へ大石の一党が雪を踏んで入って行く――誰でも知っている話である。僕は、老人の口から、また忠臣蔵の一節が出るのだろうと身構えた。ところが、老人は案外な方角へ話を曲げた。


「義士の持ち物は、泉岳寺の宝物になって残っておりますね。手紙だの短冊だの、世間にはいろいろ伝わっておりますが、たいていは討った方の形見ばかりで、討たれた方のものは噂も聞きません。上杉の方には何かあるのかも知れませんが……ところが、江戸にただ一軒、妙な家がありましてね」


 老人の語り口は、芝居の科白のように、要所で息を置く。日本橋の伊勢町に、河辺という医者があった。元禄の頃、外科が上手で、討入りの晩に吉良の屋敷から早駕籠で呼ばれ、手負いの者の傷を縫った。その折に、どういうわけか吉良上野介の小袖を受け取り、代々しまっていた――そんな話を、老人は「真物だと言われていました」と淡々と添える。


 僕が、そこまで昔の布切れが残るものかと感心すると、老人はうなずいて続けた。


「わたくしは、その小袖は見ませんでしたが、別のところで、吉良の脇指というのを見たことがあります。しかも、その脇指が、かたき討に使われたんですからね。かたきを討たれた人の脇指が、今度はかたき討のお役に立つ。物事はさかさまになる。不思議な因縁です。もっとも、この仇討は、以前お話しした『青山の仇討』みたいな、胡散臭い筋立てじゃあありません」


 僕の手が、いつもの癖で懐へ入り、手帳の端を探っているのを、老人は横目で見た。


「はは、先生の閻魔帳が出る頃だと思ってましたよ」


 婆やがランプに火を入れると、硝子の笠の中で灯がふくらみ、座敷の隅の影が静かに後へ退いた。煤掃で疲れたでしょうと僕が言うと、老人は鼻で笑った。


「なに、先生。煤掃と申しましても、猫のひたいみたいな家です。婆やと二人、さっと払って仕舞いです。湯に入って、蕎麦を食って、もう用はありません。さあ、例のお話でも始めましょう。前置きが長いのは、いつもの癖でして――」


 そこで老人は、ふっと声の調子を変えた。


「嘉永六年十二月はじめの、ひどく寒い日でした。わたくしは四谷の知りびとをたずねる途中で――」

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