第二章:化物屋敷の赤い櫛
六道の辻で斬られた若党の身許は、いつまで経っても判らなかった。どこの屋敷の者とも知れず、尋ねて来る者もない。辻番の役人が帳面を繰っても、出入りの御家人や若党の顔ぶれに当てが付かぬという。いくら江戸が広いといっても、武家奉公の身なら、どこかに尻尾が出そうなものだが、それが無い。しかも、斬った浪人も名乗った家も、みな嘘であったらしい。三河町の親分も、二つの出来事がどこで絡むのか、胸の底で結び目を探しあぐねていた。
宗吾芝居見物に出て来た佐倉の連中は、騒ぎに肝をつぶし、早々に本国へ引き上げた。米屋の下総屋には、手負いの金右衛門の看護のために為吉が残り、妹のお種も行儀よく手伝っていたが、土地馴れぬ者ほど災いを呼ぶ。二つ目の騒ぎは、その二日目の朝に起きた。
庄太が神田の家へ駆け込んで来た。息を切らし、襟首に霜でも置いて来たような顔をしている。十月に入り、朝夕の冷えが急に尖って来た頃で、権田原の広い野原を控えた青山一帯は、木枯らしの走りのような西北風が肌を刺す。
「親分。またひと騒ぎでさ」
「まだあるのか」
「米屋に逗留している女が、見えなくなりました」
庄太が言うのは、お種である。昨日の夕方、まだ七ツ半(午後五時)頃、近所の銭湯へ行ったきり、店へ戻らない。湯屋は一町ほど離れた「山の湯」で、番台のかみさんは確かに帰って行ったと言うのに、その足が途切れている。夜が更けてから探しても、影も形もない。
「仕様がねえな」
半七は、舌打ちに近い息を洩らした。土地馴れぬ女が、宵口に一人で歩く。男の目が付かぬ道理がない。だが、同じ手口が続けば、やる方も焦りが出る。焦りは、どこかで必ず足を滑らせる。
「庄太。おれの胸に、少し引っ掛かることがありやがる」
「なんです、親分」
「あの米屋で米を搗いている藤助って野郎だ。越後か信州あたりの者だろうが、米搗きにしちゃあ垢抜けがし過ぎている。身許と行状を洗って来ねえ」
「藤助が曲者で?」
「曲者とも決まらねえが、気に喰わねえ。あいつは道楽の臭いがする」
半七は、さらに言い添えた。米屋の若い者に銀八というのがいる、あれも目が落ち着かぬ。二人とも、ただの奉公人の顔ではない。庄太は頷き、すぐに動こうとする。
「それから亀吉にでも声を掛けて、新宿あたりの山女衒をあさってみろ。この頃、宿場へ玉を売り込みに行った奴があるかも知れねえ」
庄太が飛び出したあと、親分はよんどころない義理で日本橋へ出た。問屋場の人いきれ、油の匂い、川風に湿った荷の臭い――江戸は、昼の顔も夜の顔も、息苦しいほどに生きている。だが、用が済んでも胸の片隅がざわつき、足は自然に青山の方角へ向いた。
六道の辻のあたりを一巡りしても、噂は噂のまま浮き沈みするばかりで、手で掴めるものはない。そこで親分は、烏茶屋へ腰を落ち着けた。江戸の人間の口の悪さは、今さら言うまでもない。茶屋の女房の色が黒い、烏のようだというだけで、そういう綽名が付いてしまう。色は黒いが愛想のよい女房で、親分を見ると、湯気の立つ茶をすぐ出した。
「朝晩は急に冬らしくなりましたねえ」
「寒いのは時候で仕方もねえが、この頃はなんだか物騒だと云うじゃあねえか」
「本当でございますよ。忌な噂ばかり続くので、気味が悪くってなりません。ゆうべも化物屋敷に何かありましたそうで……」
「化物屋敷?」
「すぐそこです。空屋敷でございます」
女房の話は、いかにも江戸らしい因縁を引きずっていた。そこには小池という御家人が住んでいたが、道楽で首が回らず、歳の暮れの鐘にも困った揚げ句、掛取りに来た呉服屋の手代を締め殺し、懸先から集めた十両ほどの金を奪って、死骸を裏の畑へ埋めた。ほどなく露顕して本人は死罪、屋敷だけが空で残った。空屋敷には怪談が付く。幽霊が出るだの、鬼火が燃えるだの――そして昨夜、五ツ(午後八時)を少し過ぎた頃、その屋敷の奥で女の泣き声が微かに聞こえたという。聞いた者は蒼くなって逃げ出した、と女房は肩をすくめた。
「いくら日が詰まっても、幽霊の出ようがちっと早いね」
親分は笑って茶代を置き、茶屋を出た。日も傾きかけ、どこからか飛んで来る落葉が、ばらばらと顔を打った。肩をすくめて歩き、教えられた屋敷の前に立つと、なるほど小さな御家人住居の古家で、門は傾き、生垣の杉も枯れている。屋敷といっても五間か六間ほどの建てであろう。裏へ廻って木戸を押すと、錠も下りていない。すぐに明いた。
中は草が茫々である。だが、草のあいだに、人の踏み跡がある。親分は腹の中で笑った。幽霊だけでは、こんな足跡は残さぬ。雨戸の閾がきしむのをこじ開け、水口から踏み込むと、土間に赤い櫛が落ちていた。野暮ったい、安い赤である。親分は拾って袂へ入れた。
家内は薄暗い。雨戸を開け放ち、引き窓も開ける。掃除のない板の間は埃に埋まり、その埃の上に幾つもの足跡が乱れている。男の足、女の足――複数である。奥へ慎重に入ると、一度、大きな鼠が走って親分を驚かせたが、火の気配も人の気配もない。空家は空家である。ただし、空であることを装っている。
半七は、板の間の隅へしゃがみ込み、埃を指の腹でそっとすくった。乾いた木埃にまじって、ふっと鼻の奥へ来るものがある。米糠の匂いであった。米屋の土間に沁みついた、あのむわりと甘く湿った匂いが、ここにも薄く潜んでいる。半七は指先の埃を紙に落とし、鼻へ寄せてもう一度嗅いだ。間違いない。糠は風で勝手に飛んで来るものではない。まして、屋敷の奥の、雨戸も閉め切った板の間へ忍び込む道理がない。
半七は声を殺して、ひとりごとのように呟いた。
「……米屋の糠だ。こいつぁ、ただの幽霊騒ぎじゃねえ」
赤い櫛の安っぽい色が、妙に生々しく胸へ刺さる。ここには、人がいる。人がいて、食い物を運び、女を閉じ込め、泣かせていた。半七は立ち上がり、敷居のきしむ音まで腹へ納めるようにして、もう一度、足跡の乱れを見た。
半七は屋敷を出て、千駄ヶ谷谷町の下総屋を目ざした。途中、灯のあかりに透かして見ると、為吉と、あの藤助らしい二人連れが歩いている。湯屋へでも行くのかと見送った、その時である。不意に袂を引く者があった。庄太であった。声を殺して耳へ寄せる。
「親分。為吉と藤助が、どこへか出かけます。尾けて見ましょうか」
「むむ。あっしも行く」
「油断が出来ませんね」
「悪くすると、為吉を誘い出して殺らすのかも知れねえ」
風が冷たく、遠い野の芒がざわつく。二人は見え隠れに距離を取り、灯の動く方角へ、そっと足を運んだ。




