第一章:六道の辻の闇
千駄ヶ谷町の下総屋で、金右衛門らは夕餉の馳走になった。米屋の釜からは湯気が立ち、味噌汁の匂いに糠の匂いがまじる。田舎から出て来た客をいたわるように、主人の茂兵衛は塩気のきいた鰯の煮付けまで付けた。江戸の魚は川臭いと在方では言うが、醤油と生姜で煮しめれば、酒の要らぬ肴になる。金右衛門は肩のあたりをさすりながら盃を受け、為吉は言葉が少なく、お種とおさんはおとなしく箸を運んでいた。昼に見た血の色が、眼の奥にまだ消えぬのである。
下総屋では今夜は泊まれとしきりに勧めた。だが四人は馬喰町の宿へ帰らねばならぬ。あしたは仲間と浅草を見物する約束がある。江戸の一夜に余計な金を払う気もない。茂兵衛は渋い顔をしたが、仕方なく小僧の利太郎に提灯を持たせ、青山の大通りまで送らせた。
暮れ六つを過ぎると、秋の日はあっけない。いまの時計で言えば七つ前後であるが、江戸の闇は早い。谷町の外れへ出れば家並みが途切れ、畑地が黒くうねり、竹藪が風に鳴った。佐倉の在所に住み馴れた金右衛門らには、この程度の寂しさは珍しくもないはずだが、今日は違った。六道の辻で見た「仇討」の声が、藪の影からまた聞こえて来そうで、四人は利太郎の背中の提灯を黙って追った。
六道の辻を過ぎ、青山の大通りへ出る手前の狭い往来は、幅が一間半にも足らぬ。片側が畑、片側が竹藪で、提灯の灯が竹の節を白く撫でた――その時である。藪が、がさり、と鳴ったかと思うと、闇から刃が走り、利太郎の提灯がばっさり落ちた。火は地へころげ、灯は死に、世界が一息で真黒になった。
次の瞬間、金右衛門がうめき声を洩らして倒れた。肩口へ一太刀、熱いものが噴いたのであろう。おさんとお種が悲鳴をあげたが、何が起きたのか見えない。利太郎は土地勘だけを頼りに、大通りの方へまっすぐ逃げた。為吉も妹の手を掴んで走り、お種は足袋の裏で小石をはじきながら必死に続いた。背後で草の擦れる音がしたが、追っては来ないらしい。
大通りへ飛び出した時、三人は初めて息をついた。通りは広く、屋敷町の夜番の声が遠くにある。だが金右衛門とおさんがいない。為吉は蒼くなり、妹の肩を揺すって名を呼んだ。利太郎は涙声で辻番所へ走った。青山下野守の屋敷の番所なら、顔も利く。
番所の者は利太郎を見るとすぐに腰を上げ、提灯を携えて現場へ急いだ。灯に照らされて見える金右衛門は、右の肩を斜めに斬られ、朱に染んで倒れていた。息はある。しかし傍らにいるはずのおさんの姿は、藪の影にも畑の畝の間にも見えない。曲者は藪から出たのだろうが、藪は浅く、裏は畑である。畑を越えて闇へ消えたと見るのが自然であった。
金右衛門の懐中を改めると、財布がない。大事の路用は胴巻きに入れて肌へ巻いていたので無事であるが、小出しの銭が抜かれていた。銭よりも娘である。未来の女房を攫われた為吉は、辻番の前でも取り乱した。だが闇の中で影ひとつ追う術はない。まず金右衛門を番所へ担ぎ込み、近所の医者を呼ぶと、傷は案外浅く命にさわるほどではないという。安堵が胸を撫でたが、おさんの不在がそのまま刺さった。
下総屋へ注進が行き、茂兵衛は若い者を二人連れて駆け付けた。手負いの金右衛門は引き取られたが、おさんの行方は夜の底へ沈んだままだ。色の白い、年頃の娘である。昼間から付け狙い、騒ぎに紛れて拐かしたのだろうという噂が、もっともらしく町に流れた。しかし噂は噂で、掴める手がかりは何ひとつない。
その翌日、八丁堀の同心・坂部治助は、三河町の親分を呼び寄せた。坂部は温厚な男だが、声に少し焦りが混じっている。
「半七。青山あたりがまた騒がしい。この前の唐人飴の筋もある。行って埒を明けてくれ」
「へい、かしこまりました。あっしが見て来ます」
半七は子分の庄太を連れ、赤坂口から青山へ向かった。六道の辻の若党斬りと、金右衛門親子の一件は、ほとんど同じ時刻に起きている。片や「仇討」を名乗り、片や闇討ちに近い。これが同一人物の仕業か、別口か、まだ見当は立たぬ。ただ、どちらも竹藪の影が絡むのが気に掛かった。
まず半七は、青山下野守屋敷の辻番所で昨夜の仔細を聞いた。庄太は黙って控え、半七は要所だけを繰り返させ、財布の件と、おさんの姿が跡形もないことを確かめた。それから六道の辻へ廻り、荒物屋の店先に立つ。昨日、怪しい仇討があった場所である。
店の女房は三十前後、顔色のよい江戸女で、半七の顔を見るとまだ目が落ち着かぬ。
「おかみさん、昨日は肝をつぶしたろう。斬る方は、どんな声を掛けた」
「『おのれ盗賊、見付けたぞ』って……あんな大声、聞いたことがありません」
「斬られた方は何と返した」
「それがはっきりしなくて……野口、とか、吞口、とか、そんなふうに聞こえました」
半七はその音を口の中で転がした。野口、吞口。名か、合図か。女房はさらに、斬った男も斬られた男も三十四五に見え、浪人と屋敷者の風俗の違いはあったが、どちらも腕の立つ気配だったと話した。半七は身なりや顔の作り、刀の拵えまで聞き出し、店を離れた。
水野和泉守屋敷の辻番所へも足を入れ、便所を借りて消えた浪人者の話をあわせて聞く。番所の者は、大竹藪を潜って逃げたに違いないと口をそろえた。半七もその鑑定に頷いた。逃げ道が藪なら、追う手は土を踏むしかない。庄太を見やり、半七は顎をさすった。
それから千駄ヶ谷の谷町へ引き返し、下総屋を訪ねた。店は新しく、土間は磨かれ、米俵がきちんと積まれている。米搗きの臼の音が奥で鈍く響き、糠の匂いが鼻についた。主人の茂兵衛は三十九、近年女房に死に別れたばかりで、目の下に疲れがある。手代のような年配の男もいれば、若い者も二人、店先で米俵の縄を締め直していた。小僧の利太郎は昨夜の恐怖が残るのか、半七を見る眼がまだ泳いでいる。台所口には女中のお捨が出て来て、在方訛りで挨拶をした。金右衛門らと同じ村の生まれだという。
奥の間では金右衛門が寝かされ、為吉とお種が暗い顔で控えていた。為吉の拳は固く、しかし怒りの向け先がない。半七は枕元へ膝をつき、傷の具合を一目見てから、静かに訊いた。昨夜、提灯が落ちた瞬間、誰かの息づかいは聞こえなかったか。おさんの手は離れていなかったか。闇の中で、声はしなかったか。
答えはどれも頼りない。闇は人の記憶を薄くする。だが半七は、頼りないものの中から筋を拾う男である。六道の辻の「野口、吞口」という曖昧な返事と、谷町の藪からの一太刀。財布の紛失。昼の若党斬りにあった二両の重み。これらが一本の縄になるのか、それとも別々の綱なのか――半七の胸の中で、まだ結び目は出来ていない。ただ、結び目の端だけが、指先に触れているようであった。




