プロローグ:川開きの日の訪問
明治も中頃となると、かつての江戸の面影は、ことさら人の記憶から薄れていくようである。春の長雨がようやく上がった赤坂の台地に、湿った土の匂いと、どこからか山吹の香りが混じり合って流れてくる。
僕は、元町(現在の本郷一丁目あたり)の切絵図屋の角を曲がり、馴染みの小路地にある半七老人の隠居屋の格子戸を叩いた。
「先生、ようおいでくださいました。さ、どうぞ。雨上がりで、ちっと足元が悪うござんしたでしょう」
相変わらず達者な、江戸なまりの残る声で迎えてくれた老人は、今年で七十をとうに越えているはずだが、その背筋はすっと伸び、眼光も鋭い。この老人こそ、幕末期に神田三河町で岡っ引きを張り、「神田の半七」と江戸八百八町にその名を知られた人であった。
火鉢の脇に腰を下ろすと、老人はすぐに気の利く女中を呼び、なにやら耳打ちしている。やがて運ばれてきたのは、熱い番茶と、湯気の立つ小ぶりの酒饅頭であった。ふわりと酒麹の香りが立ち、こし餡の上品な甘さが口に広がる。
「いつぞや向島でお約束したことがありましたね」と、僕は饅頭を味わいながら切り出した。
「お約束……。はて、なんでござんしたかね」 老人は悪戯っぽく笑いながら、首をかしげている。
「ほら、向島で河童と蛇の捕物の話ですよ。あれを今日はぜひ伺いたい」
「河童……。ああ、なるほど。先生はどうも覚えがおよろしい。あれはもう、去年の桜の時分でしたか。……こいつは参りやした。そう強情に覚えていらっしゃるとは。こうなりゃあ、はい、申し上げますとも。まるで先生が十手をお持ちのようで」
老人はカラカラと笑った。
「いや、冗談はさておき。あれは確か、慶応元年の五月のことで」
老人は、遠い昔を懐かしむように目を細めた。
「御承知の通り、両国の川開きは毎年五月の二十八日と決まっておりやした。日本橋の橋開きが江戸の夏の始まりを告げるなら、この川開きは、本格的な夏の訪れを知らせる江戸っ子の一番の楽しみでさ。夜空に上がる鍵屋、玉屋の花火に、川面を埋め尽くす屋形船。そりゃあ、見事なもんでした」
しかし、と老人は続ける。
「慶応の元年は、どうも世の中が騒々しくなりましてね。花火の催しは取りやめになっちまった。江戸もいよいよ末、という空気が漂っておりやしたよ」




