第十一章:復讐の火
「そればかりでは、ございません」 市丸太夫は、顔を歪めた。
「だんだんその様子を見ていますと、お津賀は、どうも、あの隣の富蔵と情交があるのではないか、と思われるような所もございますので……」
「わたくしも、なんだか忌々しくなりまして……今思えば、実に恐ろしいことでございます。……いっそ、富蔵とお津賀を殺してしまえば、誰にも窘められることは無いと存じまして……」
夜店で買いました小刀をふところに入れ、昨晩の夜ふけ、稲荷町へそっと忍んでまいった、という。
「……案の通り、お津賀は隣の家へはいり込んで、富蔵と差し向いで、睦まじそうに酒を呑んでいました。安い濁り酒の徳利と、汚ねえ皿に煮物か何かがのっておりました」
「わたくしは、赫となって、すぐに飛び込もうかと存じましたが、なにぶんにも相手は二人でございますから、何だか気怯れがして、しばらく様子を窺って居りますと……」
ふたりは、だんだんに酔いが廻って来た。 そして、つまらないことから喧嘩をはじめた。
「金のことかい」
「さあ、よくは……。ですが、お津賀もきかない気の女ですから、とうとう立ち上がって掴み合いになろうとするはずみに、そばにある行燈を、富蔵が倒しました」
「富蔵はもう、ぐでんぐでんに酔っているので、自由に身動きも出来ません。お津賀はあわててその火を揉み消そうとしましたが、これも酔っているので、思うようには働けません。唯、うろたえてまごまごしているうちに、火は畳から壁へと、だんだんに拡がって……お津賀の裾や袂に燃え付きました」
「わたくしは、あっけに取られて、それを眺めていますと、お津賀はもう、からだ中が一面の火になってしまいまして……」 その当時の凄惨な光景を思い出すさえ恐ろしいように、市丸太夫は、がたがたと身ぶるいした。
「結い立ての天神髷を振りこわして、白い顔をゆがめて、歯を食いしばって、火焙りになって家中を転げ廻って、苦しみもがいている女の姿は……」
「わたくしのような臆病者には、とても、ふた目とは見ていられませんので、思わず眼をふさいでしまいますと……。お津賀も、もう堪らなくなったのでございましょう。框から土間へ転げ落ちたような物音が、きこえました」
「わたくしは、はっと思って再び眼をあきますと、お津賀の燃えている姿は、井戸の方へ……。からだの火を消す積りか、それとも、いっそ一思いに死んでしまう積りか、それはわたくしにも能く判りませんでしたが……ともかくも、井戸側の上で火の粉がぱっと散ったかと思うと、お津賀の姿は、もう見えなくなったようでございました」
「富蔵は……どうしたのか、存じません。もう、その頃には、家中いっぱいの火になっていました。その騒ぎを聞きつけて、近所の人達が、ばたばたと駈け付けて来ましたので、わたくしも度を失いまして……」
「ここらにうっかりしていて、とんだ連坐を受けてはならないと、前後のかんがえも無しに、あの稲荷の祠のなかに隠れましたが……。もし、その火が大きくなって、こっちへ焼けて来たらどうしようかと、実に、生きている空もございませんでした」
「幸いに、火は一軒焼けで鎮まりましたが、大勢の人が火元を取りまいて、わやわや騒いでいるので、いつまで経っても出るに出られず。わたくしも途方に暮れているところを、とうとう、お前さんに探し当てられてしまいました」
「……行燈を倒したときに、わたくしも早く駈け込んで、一緒に手伝って消してやれば、よかったのでございましょうが……わたくしは、唯、びっくりして居りまして……」
(――びっくりしていたばかりではあるまい) 半七は、市丸太夫の歪んだ顔を見た。 そこに、残酷な復讐を遂げた男の、歪な満足が含まれているのを、半七は見逃しはしなかった。
「おめえが、直接に手をおろさないで、お津賀も富蔵も、一度に片付けてしまえば、こんな世話のねえ事はねえ」 と、半七は皮肉らしく云った。 「だが、おめえも罪な人間だ。才蔵の松若は、おめえの使いに行く途中で、凍え死んでしまったぜ」
「な……。松若が、死にましたか」 と、市丸太夫は、さらにその顔を蒼くした。
「そうだ。その鬼っ児をかかえて行く途中で、あんまり酒を飲み過ぎたせいだろう。神田の鎌倉河岸で食らい酔ったままでぶっ倒れて、可哀そうに、凍え死んでしまったんだ」 半七は、冷たく言い放った。
「鬼っ児に別条はねえ。親元が判ったから、こっちから渡してやる。おめえにうっかり渡して、又なにかの種に使われちゃあ、堪らねえからな」
市丸太夫は、もう一言もなかった。 かれは、ゆがんだ皺面を灰いろにして、死んだ者のように、番屋の土間にうずくまっていた。




