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第九章:稲荷町の火事

 す猫をなくしたのを強情に「知らない」とり、たとい一時いちじでも親分の前で自分に恥をかかした富蔵を、亀吉は心から憎んでいた。


 きのう半七と別れてから、彼は吉原へ遊びに行った。 だが、馴染みの女郎じょろうにもあつかわれなかった、そのむしゃくしゃばらで、引け前にくるわを飛び出し、阿部川町あべかわちょうの友達を叩き起こして泊めて貰った。 彼も、この強い風に枕を揺すられて、おちおち眠られずにいた。 その耳もとに、人の立ち騒ぐような声が、遠くひびいた。


「火事か!」 すぐに飛び起きてその騒がしい方角へけてみると、たして火事には相違なかったが、それは下谷稲荷町の長屋の一軒焼けで、幸いにもすぐに鎮火した。


 火事は、先ずそれで済んだ。 だが、済まないのは、その火元に男が死んでいることである。 死んだ男は、かの香具師やし・富蔵であった。 それだけではない。 一つ長屋のお津賀の死骸も、井戸から発見されたという。


「……こういうわけだから、私ひとりじゃいけねえ。親分も、早う来ておくんなせえ」


「よし、すぐに行く。なにしろ、飛んだことになったものだ」 半七は早々と身支度をして、亀吉と一緒に出てゆくと、師走しわす二十九日のあかつきの風は、諸刃の大きいつるぎで薙ぎ倒そうとするように、容赦なく吹き払って来た。 ふたりは眼口めくちをふさいで、転げるようにして稲荷町へあるいた。


 現場へ行き着いてみると、富蔵の家は半焼けのままでくずれ落ちて、むせるような白い煙は、狭い露路ろじの奥にうずまいてみなぎっていた。 町内の者も長屋の者も、その煙りのなかに群がって、がやがやと騒いでいた。


「どうも、騒々しいことでした」 きのうの井戸端の女房を見掛けて半七が声をかけると、あわてまなこのかれも、一朱銀いっしゅぎんをくれたきのうの人を見忘れなかった。


「まあ、きのうはどうも……。でも、まあ、この風でこのくらいで済めば、小難こなんでしたわ」


「小難はおめでてえが、なにか変死へんしがあるというじゃありませんか。焼けんだのですか」 と、半七は何げなくいた。


「それが、判らないんです。あの富さんが焼けんで……。それに、お津賀さんも……」


「そうですか」


 半七は、すぐに火元へ行った。 もう、こうなっては仮面めんをかぶってはいられない。 かれは自分の身分を名乗って、家主いえぬし立ち会いで、焦げ臭い焼け跡をあらためた。


 家主(いえぬし、やぬし)というのは、大家おおやとも呼ばれる、今でいうところの「マンションの管理人」兼「町内会の役員」兼「市役所の窓口」兼「警察の協力者」ようなものである。主に家賃の回収と長屋のメンテナンス、入居者の世話といろんな役割を負っている。そして、大体のところ、表店おもてだなと言われる長屋の表にある小間物や軽食をあつかう小さな店の店主を兼ねている。自身番でも扱う焼き芋を扱う申し訳程度の店であったり、本格的にそば屋などをやっていたり、まあ、まちまちであった。


 では、現代的な意味の大家は誰か?というと地主じぬし家主やぬしとよばれていて、あまり、表には出てこないので長屋の店子たなこ(入居者)からすれば、家主なぞ誰か知らないのがふつうであった。また、寺社や高位の武士が投資として不動産を運用することもあるので、外聞をはばかって隠すケースもあったようだ。


近所の人達が早く駈け付けて、すぐに叩きこぼしてしまったので、半焼けと云っても、七分しちぶ通りはこぼれたままで焼け残っていた。 富蔵の黒焦げの死体が、家の中央に転がっている。


 半七はその家のまわりを見廻りながら、ふとその隣の、小さな稲荷の祠に眼をつけた。


「このお稲荷さまは、無事だったんですか」


「へえ。火の大きくならなかったのも、お稲荷様のおかげだと、長屋じゅうの者も喜んでいます」 と、家主は手を合わせんばかりに云った。


「喜ぶのは、間違っている」 と、半七は嘲笑あざわらった。

「お稲荷さまに御利益ごりやくがあるなら、はじめからこんな騒ぎを仕出来さねえがいい。家を焼いて、人を殺して、御利益もねえもんだ。いっそ、刷毛はけついでに、この稲荷もしちまっちゃあ、どうです」


 無法むほうなことを云うとは思ったらしいが、相手が岡っ引の親分なので、家主は苦り切って黙っている。 半七は、足下にまだちろちろと燃えている木のきれを拾って、松明たいまつのように振りあげた。


「ようがすかえ。この稲荷に、火をつけますぜ」


「お、おまえさん。とんでもないことを……」 家主はあわててその腕を押さえると、半七は委細かまわず、祠に向かって又呶鳴どなった。

「ええ、かまうものか、こんな稲荷! さあ、焼くぞ! こんな燧石箱ひうちばこのようなっぽけな祠は、またたく間に灰にしてしまうぞ! 野良狐のらぎつねが隠れているなら、早く出て来い!」


 お稲荷様も、これには驚いたのかも知れない。 その声に応じて、祠の正面の扉が、さっとあいた。 しかも、這い出して来たのは、野良狐ではなかった。 それは、頭からすすを浴びた、五十前後の男であった。


「お前は、市丸太夫いちまるだゆうだろう。正直にいえ」 半七は、かれの腕をつかんだ。

「どうも、稲荷様の中でごそごそいうと思ったら、案の定、こんな狐が這い込んでいた。さあ、番屋へ来い」


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