向こう側からの残響
カチ…カチ…カチ…
………
ダッダッダッ…ダッダッダッ…
…
闇に完全に呑まれた夜……小さなろうそくの灯りを掲げてゆっくり歩く人々の列の中……
川面に映る月明かりの下……小さな影が必死に走っている……
…
「ハル!」シノミが路地の隅々まで顔を突っ込む
「ハル! どこにいるの!?」
「ハル!」両手を口に当てて大声で呼ぶ
「出てきて! もう隠れないで!」
…
そして小さな足音の合間に……小さな呟きが漏れる
「もう……捨てないで……二度と……」シノミが唇を噛み、足が一瞬止まる
けれど次の瞬間、目に飛び込んできた光の粒に、完全に視線を奪われる
…
ポコポコ…ポコポコ…
川の中から、もう一つの人影がゆっくりと浮上する……
漆黒の鎧を纏い、貝殻のような文様が体を覆い、青い筋が走る
手に持つのは長い槍、海の波のような模様が刻まれた……
…
ピチャ…ピチャ…ピチャ…ピチャ…
鎧から滴る水滴が……月明かりにきらめきながら落ちる
…
ドシン…ドシン…ドシン…ドシン…
黒い鎧が近づいてきて……武器を下ろす……
…
「早咲!?」シノミが凍りつき、片手を口に当てる
「こんなところで何してるの!?」
…
「まさか……この街が……今から襲われるの……?」シノミが身を縮めて後ずさる
…
ドシン…ドシン…ドスッ!
黒い鎧がゆっくりと止まる……
「違います、小姫様!」向こう側から声が響く
「私一人です! 誰も連れてきてません!」
…
カチャッ
そして……兜が外される……
サファイアのような髪が夜風になびき……月明かりに輝く……
静かな夜の湖面のような瞳が……月を映して……
…
「私は……お迎えに参りました。お家へ、お帰りください」早咲が手を差し伸べる
……………………………………………..
…
「お家へって……どういうこと?」シノミが目を丸くして後ずさる
「言葉通りです。小姫様、どうかあの人間どもを捨てて、一緒に帰りましょう」早咲が胸に手を当てる
…
「でも約束したじゃない! みんな納得してたはず……」シノミが軽く手を振る
「約束したのは知ってます……受け入れたのも知ってます……」
「でも……」
「人類は私たちを裏切った……もう信じられない!」
「嘘よ! そんなはずない! 私はここに十分いて、彼らが変わったのをちゃんと見てきた!」
「申し訳ありません、小姫様……」早咲が軽く唇を噛む
…
「でも……それは小姫様がまだ見てないから……」
「どういうこと?」シノミが凍りついて見つめる
………
ガシャン…ドシッ…
鎧が一つずつ外されていく
…
ズシッ…ズシッ…
槍を背負い、早咲がゆっくりとシノミに近づく
…
「決める前に、少しだけ聞いてください……小姫様」早咲が軽く頭を下げる
「じゃあ……少しだけなら聞いてあげる……」シノミが腕を組んで背筋を伸ばす
…
「確かに、小姫様の周りだけは平和で、人間たちは穏やかで……」早咲が周りを見回し、両手を広げる
「みんな優しくて、可愛くて、生きる理由があって……」
「笑顔で、子供は幸せで、家族は満ち足りて……」
…
ギュッ…
「でも……」早咲の拳が強く握られ、真っ直ぐシノミを見る
「なぜ彼らだけがそれを得られるの!?」
…
「小姫様は知らない……」早咲が顔を近づける
「小姫様が人間と暮らして、竜族のあいつと甘い青春を送ってる間……」
「私たちの王国で、民はどれだけ苦しんでいたか……」
…
「何言ってるの?」
「私には何も起きてないようにしか見えなかったのに……」シノミが早咲の顔を軽く押し返す
…
ズシッ…ズシッ…
「小姫様、本当はこんなままでいてほしい……」早咲がゆっくり後ずさる
「でも……世界はいつも残酷で……気づかれないように……」
……
早咲が薄い石板を取り出す。無数の名前が刻まれている
…
「これを見てください!」石板を差し出す
「これ……名前は……?」シノミが目を忙しく動かす
…
早咲が凍りつき、両拳を強く握り、顔を地面に向ける
…
「陸に引き上げられて……二度と戻れなかった同胞たちの名前です……」
…
「どういう……こと……」シノミが石板を強く握り、早咲を見つめる
…
「私たち海族は……ずっと平和を望んでいた……」早咲は地面を見つめたまま
「遥か昔……今の人間が共存種を全て絶滅させた時から……」
「私たちは人間を避けてきた……」
「最も暗い海の片隅に身を潜めて……」
「それでも……見つけた……」
…
「そしてまた……昔と同じことを始めた……」
「戦争が始まるよりずっと前から……私たちにしていたことを……」
………
早咲がゆっくり顔を上げてシノミを見る
「知ってるよね……人間が私たちを見つけた時に何をしたか……」
「母上から……聞いたことはある……」シノミが軽く顔を逸らす
…
「なら陸の誰よりわかってるはず……あいつらの罪を……」早咲がシノミに飛びつく勢いで近づく
…
「子供だろうが老若男女だろうが捕まえて……」
「解剖して、切り刻んで、拷問して……」
「危険な実験を何度も何度も……」
「鞭の音に同胞が泣き叫び……目の前で家族が切り刻まれるのを見て子供たちが泣き叫んでも……」
…
「わかる、でもそれは知らないからで……!」シノミが早咲に近づく
「それが彼らの本性……私たちだって昔はそうだった……」
「人間を海に引きずり込んで同じことしてた……」
……
「それがただの好奇心だったらよかったのに……」早咲が闇の街に目を向ける
…
「知ってる? 小姫様」
「私たちは、どんなにひどくても……」早咲が川沿いの列を何度も指差す
「少なくとも同胞をあんな扱いはしなかった!」
…
「殺す前にせめて喜びを与えた……」
「でもあいつらは……私たちを何とも思ってない……」
…
「同胞を安い奴隷として売りさばいて……」
「休むことなく踏みにじって、拷問して、搾り取って……」
「命が尽きる寸前まで搾り取って……」
…
「早咲、でもそれはもう過去で……」シノミが手を伸ばす
「……全部終わった……人間は……」
「……戦争であれだけ代償を払った……」
「民も失い、財も失い、命は秋の葉のように落ちて……」
…
「それで十分じゃない?」シノミが拳を握って早咲を見つめる
……
ギチッ…
「でも……」早咲が体を震わせる
「でも!!」
…
「私たちはあんな風に彼らを拷問しなかった!」早咲が叫ぶように顔を上げる
…
「小姫様にはわからない……」
「この感覚が……」拳がギリギリと音を立てる
「同胞が毒のフォロックス鉱山で過労死していくのを見る感覚……」
「老人を殴り倒しても立たせて働く姿……」
「骨が浮き出るほど飢えた子供たち……」
「鞭痕で背中が真っ黒な男たち……」
「毎夜、獣の欲望を満たすために泣きながら耐える女たち……」
…
「そして一人倒れたら……」
…
ギリギリッ!
…
「そのまま切り刻んで……食い物にして……何百万の同胞の視線があっても平気で宴を開く……!」
……
「早咲、でもそれは……」シノミが手を伸ばす
…
「小姫様……」湖のような瞳に涙が溜まり、シノミを見つめる
…
「私は見たんです……この小さな目で……幼い頃から……」
「知ってますか……」
…
ドサッ…
「大切な人たちがみんな……消えていくのを……」早咲が膝をつく
…
「友達が……土の下に眠って……」
「家族が……日ごとに消えて……」
「母は無理して笑って……父は守ろうとして……」
「毎夜二人で抱き合って泣いて……」
…
「そして最後には……」早咲が両手で顔を覆う
…
「誰もいなくなって……探したら……」
「父の首が食卓に置かれてて……」
「母は獣どもに順番に犯されて……叫びながら……」
………
トン…
「早咲、私……」シノミがそっと肩に触れる
「私……知らなくて……」
…
くっ…ぐっ…ぽた…
サファイアの髪が顔を覆い、地面に涙が落ちる
「誰もが……小姫様みたいに幸運じゃない……」
「小姫様の血統みたいに……」
…
「誰もが……守ってくれる人がいるわけじゃない……」
「誰もが……全力で愛してくれる人がいるわけじゃない……」
「ましてや……命を賭してまでそばにいてくれる人なんて……あの血統みたいに……」
…
そっ…
「だから……お願いです……」早咲が顔を上げ、シノミの手を握る
「私に諦めろと言うなら……」
「どうかその血統を……あいつを捨ててください……」
「お家に帰る時です……」
…
「私まで……失いたくない……」
…………
すっ…
「わかるよ、早咲……」シノミが震える体にそっと触れる
「本当に……わかってくれたんですか……小姫様?」涙で赤くなった目が大きく見開かれる
…
す……っと…
「よかった……よかった……」早咲が立ち上がり、笑顔になる
「じゃあ私たちは……」
……
「でもごめん……」シノミが唇を噛む
…
「小姫様……でも……でも……でも……」早咲が凍りつき、両手をばたつかせる
「どうして!?」
「どうしてまだそれを選ぶの!?」
…
「だって……私たち……この血も、この想いも……責任があるから……」シノミが顔を上げ、拳を握る
…
「知ってるよね……あの血統がどれだけ汗と血を流してくれたか……」
「あの“ずれ”たちが……いつも私たちをつなごうとしてくれた……」
「でも……」シノミが月明かりに輝く川を見る
…
「一度も……鬼族以外で……手を差し伸べて、握って、信じてくれた種族なんていなかった……」
…
「それを知ってるなら、なぜまだ追いかけるの!?」早咲が両手を広げる
「両方の血統の結末が滅びなら……」
「どうしてまだ頑張るの……」
…
…
「だって……」シノミが振り返り、微笑む
…
「私……もうハルが好きになっちゃったんだもん……」
「避けようとしたのに……無視しようとしたのに……」
「学校で会うたび……離れようとするたび……」
「もっと近づきたくなって……もっと一緒にいたくなって……」
…
「だから結末がどんなに苦くても……」
「私はこれを選ぶ……またハルを愛する……」
…
「ハルの瞳に……ほんの小さな光だけど……」
「きっとあの子なら……運命の歯車を変えられるって……」
……………………………………………………………………………………………………………….
ギィ…
早咲が鎧に戻り、槍を握り、瞳が氷のように冷たくなる
…
「言葉ではもう連れ帰れないようですね……」槍をシノミに向ける
「失礼します。でも小姫様……」
「これはあなたの幸せのためです……」
…
シノミの手首の腕輪が変形し……弓が現れる……
「結局こうなるよね……」シノミが弓を構える
……
ドォォンッ!!
遠くから煙柱が何本も立ち上り……
賑わっていた街の灯りが次々と消えていく……
…
ガタガタガタッ…ワァアアッ!!
遠くの人々が騒ぎ出し……ろうそくの灯りが消え……
赤いものが地面を伝い……川に染み込んでいく……
…
「来た! 敵だ!」混乱した叫びが響く
…
「早咲……これどういうこと!?」シノミが早咲を睨む
「まさか……今ここで皆殺しにするために来たの……?」
…
「私……私……」早咲が凍りつき、赤く染まる川を見つめる
…
「わからない……」
「私だけのはずだったのに……」
……
ドス…ドス…ドスッ…
遠くから、白い鎧に貝殻文様、金の線と青の筋が走る者が現れる
背後には同じ白い鎧の者たちが……先端が赤く染まった槍を引きずって……
…
「よくやった! お前の任務は……」
「完了した……」
…
「さて、公女様……」白い鎧の金線が頭を下げる
「どうかお共に……主がお待ちです……」
…
「主? 誰よ、そんな人知らない……」シノミが凍りつく
…
「ふざけるな!」早咲が背を向けて槍を軍に向ける
「小姫様をあいつに渡すくらいなら、人間のそばにいる方がマシだ!」
…
「仕方ない、残念だが……」白い鎧の金線が手を上げる
ガチャガチャッ!!
後ろの全ての武器が二人に向けられる
「任務は……どんな形でも……完遂する……」
…
だがその瞬間……
金線がゆっくり手を下ろしたその時……
…
ドゴォォンッ!!
隣の家の壁や木片が吹き飛び……
ガラスや家具が飛び散り……
巨大な豹と、武器を光らせる三人の人間が……
向かいの家を突き破って軍に向かって飛び込む……
……
ギュオオオッ——ドガガガッ!!
赤く燃える豹が咆哮し、軍に突っ込む
そして聞き慣れた声が続く……
…
「シノミ! 手を出して!」一本の手がシノミに向かって差し出される
「ハル……」シノミがそっとその手を握る




