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立ち聞き

――ドンッ!

誰かが机を叩きつけたような大きな音が、窓の向こうから響いた。

俺は思わず美影と顔を見合わせる。

直後、室内から父上の声が聞こえてきた。

「――くそっ、あの明漢め! 一体何様のつもりだ!」

低く、荒々しく、今まで一度も聞いたことのないほどの怒気を孕んだ声だった。

胸の奥がざわつく。

「最近、かなり調子に乗ってきていますね」

続いて聞こえたのは、母上の落ち着いた声だった。

怒りを宥めるような、柔らかい口調だ。

「……はぁ。やはり、タオホアを付けて正解だったな」

父上は重く息を吐いた。

「はい」

タオホア姑姑の声が続く。

「私がいなければ、明漢は間違いなく呉剣様に深手を負わせていたでしょう」

その言葉に、喉の奥がひりついた。

「……殺していたと思うか?」

一瞬、沈黙が落ちる。

「……いいえ」

タオホア姑姑は、迷いなく断言した。

「明漢は残忍ですが、愚かではありません。

もし呉剣様に怪我を負わせたとしても、“息子を守ろうとして、行き過ぎただけ”と主張できます。

ですが、殺してしまえば、そうはいかない」

俺は思わず拳を握りしめる。

「拳には目がない、と言いますが……彼ほどの男なら、脅威にもならない相手に対して力を抑えることなど容易い。

それに、呉家当主の怒りを買えば、結果は一つしかありません」

「……一族同士の殲滅戦、ですね」

母上が静かに言葉を継いだ。

「ええ。

明家は、呉家と正面から争えるほど強くはありません。

一族の滅びを覚悟してまで、あなたの逆鱗に触れるような真似はしないでしょう」

――その会話を聞きながら、俺は息を殺したまま動けずにいた。

あの時感じた、あの冷たい圧。

あれは……本物の“殺意”だった。

そして、俺は理解してしまった。

(……本当に、殺されかけていたんだ)

もし姑姑がいなければ。

もし、ほんの少しでも状況が違っていたら。

背筋に冷たいものが走り、夜の空気がやけに重く感じられた。

どうやら、話題は今日ザーン市で起きた出来事の続きらしい。

俺は、少しでもよく聞こえる気がして、さらに身を寄せた。気づけば、美影の肩に身体が触れている。彼女特有の、花のように淡い香りが鼻をくすぐったが、今はそれに気を取られている余裕はなかった。意識のほとんどは、両親の会話に向けられている。

「……だが、それももう通用しないかもしれんな」

父上の声が低く響く。

「明申と寿石美鈴の婚姻に向けて、寿石家と明家がすでに同盟を結んだという報告が入っている。

単独なら、どちらの一族も脅威ではない。だが、手を組まれれば……厄介だ」

胸の奥が、ひやりと冷えた。

「私も噂は耳にしています」

今度は、タオホア姑姑の声だ。

「最近、ザーン市の外縁部で傭兵団が目撃されたとか。

この辺境に傭兵が現れること自体は珍しくありませんが、彼らは通常、仕事の多い大都市を拠点にします」

「……では、寿石家か明家が雇った可能性があると?」

母上の問いに、短い沈黙が落ちる。

「断定はできません。しかし、その可能性を否定することもできないでしょう。

この地に傭兵団が来る理由は、“誰かに雇われた”以外に考えにくい」

「そして――」

父上が言葉を継ぐ。

「ザーン市で傭兵を雇える者となると、三大氏族か、周氏しかいない。

だが周氏が傭兵を使う理由はない。

彼らは自前の戦力を持っているし、それは辺境の傭兵団などより、はるかに強力だ」

「……なるほど」

母上が静かに頷く気配が伝わってくる。

「となると、これからは今まで以上に慎重に動く必要がありそうですね」

その言葉を聞きながら、俺は無意識のうちに歯を食いしばっていた。

明家と寿石家の同盟。

傭兵団の存在。

今日の出来事は、ただの小競り合いなんかじゃない。

もっと大きな流れの、ほんの入り口に過ぎないのだと――否応なく理解させられた。

(……嫌な予感しかしないな)

闇の中、俺は息を殺したまま、次に続く言葉を待った。

「そうだな。しばらくは警戒を怠れん。

長老たちにも話を通しておく。各自に命令を伝えさせよう。タオホア、お前も同席しろ。呉威の反応を注意深く見ておけ」

「承知しました、ラオゴン

それで話はまとまったらしい。

「……それと、明るい話も一つある。

帝国学院から書簡が届いた。呉勇の治療は順調だったそうだ。もう歩けるようになり、真面目に修行を再開したと――」

父上はそう続けたが、その時点で、俺も美影も、もはや話を聞いていなかった。

美影が、俺の胸元に身を寄せたまま、そっと顔を上げる。

その青い瞳が語っていた。

――もう十分聞いた。行こう。

俺は小さく頷いた。

二人で、音を立てないように、窓から離れていく。

慎重に、一歩ずつ。

自分では完璧に静かに動いているつもりだった――その瞬間までは。

パキッ。

足元で枝を踏み、乾いた音が夜気に響いた。

「誰だ?!」

背筋が凍る。

美影が即座に俺の手を掴み、建物の角へと引きずるように走った。

同時に、背後で窓が開く気配。

父上が外を覗いている。

俺たちは物陰からそっと様子を窺ったが、父上の視線がこちらに向いた瞬間、慌てて身を引き、壁に背を押し付けた。

「どうかしましたか、ラオゴン?」

母上の声が、すぐ後ろから聞こえる。

「……いや。誰かが忍び回っている気がしたが……気のせいだろう。どうやら鼠でもいたらしい」

そう言って、父上はゆっくりと雨戸を閉めた。

カタン、という音がして、ようやく俺は息を吐いた。

(……危なかった)

心臓の鼓動が、しばらく収まらなかった。

二人同時に、ほっと息を吐いた。

「……危なかったわね」

美影が小声で囁く。

「本当に。ごめん、俺のせいでバレかけた」

俺も声を落として言った。

「大丈夫よ。結局、見つからなかったでしょう。それが一番大事。必要な話も全部聞けたし、戻りましょう」

「……ああ。案内は任せる」

再び美影が先導し、俺たちは慎重に戻った。

自室の窓から忍び込み、音を立てないように閉める。

中に入った瞬間、俺は思わず安堵の溜息をついた。

外套と靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。背もたれに手をつき、天井を見上げた。

「やっぱり、君の言う通りだったな。かなり厄介な話を聞いた」

「ええ。思っていた以上に、ね」

美影も外套と靴を脱ぎ、俺の隣に腰を下ろす。

淡い青色の、少し透け感のある寝間着に身を包んだ彼女は――正直に言って、目を奪われるほど綺麗だった。

一瞬、鼓動が跳ねる。

(……落ち着け)

俺は小さく頭を振り、湧き上がる余計な考えを振り払った。

最近の俺は、どうにもおかしい。

ついこの間、思春期に入ったばかりだというのに、身体の感覚がまるで別物になった気がする。

声は時々、勝手に裏返る。

肝心な場面で情けない声が出て、自信満々の言葉が一瞬で台無しになることもある。

背は伸び、筋肉もはっきりしてきた。

それ自体は悪くない――むしろ嬉しい。

だが、そのせいで服がすぐに合わなくなるのは困りものだ。

成長期が来るたびに新しい道服を仕立て直さなければならず、正直、懐が痛い。

(……本当に、色々と落ち着かない年頃だな)

そんなことを考えながら、俺はゆっくりと息を整えた。

胸の奥では、まるで錬丹炉の中身のように、得体の知れない感情がぶくぶくと煮え立っていた。

呉氏一族の力比べ以降、俺はもともと負けず嫌いだったが、最近はそれとは別の――もっと切実な衝動を感じるようになっている。

同年代の男たちに対して、勝ちたい、証明したい、上に立ちたい。

理由はうまく説明できない。ただ、そうしなければならない気がするのだ。

そして――美影と静姝に対する気持ち。

昔から好意を示すこと自体に抵抗はなかったはずなのに、今では一つ一つの仕草に、胸の奥がざわつき、頬が熱くなり、腹の底が落ち着かなくなる。

それに……夢だ。

目を覚ました時、思い出してしまう内容に頭を抱えたことが、正直一度や二度ではない。

自然なことだとは分かっている。

そのうち落ち着くとも聞く。

それでも――煩わしいものは煩わしい。

「……で、結局。これからどうするべきなんだ?」

俺がそう口にすると、美影は床から足を浮かせ、軽く足をぱたぱたと揺らし始めた。

その様子を、つい目で追ってしまう。

小さくしなやかな足先。

爪は淡い青に染められていて、まるで小さな玉の花弁みたいだった。

彼女の瞳と同じ色だ。

やがて、美影は動きを止め、足先を内側に向け、左足の指で右足を器用につかむ。

俺には到底真似できない動きだ。

そういえば、美影は足の指で物を拾ったり、冗談半分で俺をつねったりもする。

小さいのに、驚くほど力がある。

(……本当に、色々と落ち着かない)

俺はそう思いながら、知らず拳を握りしめていた。

「正直、今の私たちにできることは何もないと思うわ」

美影はそう言って、小さく肩をすくめた。

「明家や寿石家はともかく……傭兵の一団が相手だとしても、私たちじゃどうしようもないもの」

俺と美影は、まだ十二歳。

成人の年齢――十八になるまでは、大人として扱われることもなければ、飢餓境への突破に挑むことすら許されていない。

その壁は、想像以上に厚い。

鍛体境と飢餓境の差は、まさに天と地。

たとえ飢餓境の第一小境界であっても、鍛体境の修行者を赤子扱いできるほどの力を持つ。

その差は、境界が上がるごとにさらに広がる。

飢餓境九重と霊魂境第一小境界では倍以上。

霊魂境九重と修羅境では、さらにその上――

考えるだけで、ため息が出る。

「……結局、今は強くなることに集中するしかない、ってことか」

俺はそう結論づけた。

「うん。それが一番だと思う」

美影は頷く。

「叔父様も、向こうの動きには気づいているみたいだし、自分で対処するつもりでしょう。私たちは町に出る時だけ気をつければ、それでいいと思う」

「静姝にも、聞いた話は伝えておこう」

「そうね。彼女だけ蚊帳の外にはできないわ」

しばらく沈黙が流れた後、俺はふと口を開いた。

「……もう、かなり遅いよな。そろそろ寝た方がいいんじゃないか?」

「もう少しだけ」

美影は、そう言ってから、意味ありげな笑みを浮かべた。

「その前に、やることがあるでしょ?」

俺は彼女を見て、思わず口元が緩む。

その表情を見ただけで、何を言いたいのか分かってしまったからだ。

「……しばらく、してなかったからな」

「ええ。静姝のこともあって、我慢してたけど……もう限界よ」

美影は一歩近づき、まっすぐ俺を見上げる。

「呉剣――キスして」

何か言おうとした、その瞬間だった。

美影が勢いよく跳びついてきた。


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