深夜にて
――あれが、修行者の放つ殺気というものなのか……
俺は布団に横になったまま、目を閉じていた。
だが眠気はまったく訪れず、昼間の出来事が何度も頭の中で繰り返されていた。
桃花姑姑と明韓が向き合った、あの瞬間だ。
明韓から放たれていた殺気は、正直言って恐ろしかった。
思い返せば、西峰山で斑点雪獅子に襲われた時にも、似たような感覚を覚えたことがある。
だが――あれとは、まったく質が違う。
斑点雪獅子の殺気は、本能的なものだった。
生きるため、狩るための、純粋な捕食者の気配。
そこに悪意はなく、ただ「強い者が生き残る」という自然の理があった。
だが、明韓の殺気は違う。
冷たく、計算され、明確な悪意を帯びていた。
魔獣と人間は、やはり違う。
魔獣は弱肉強食という理そのものを体現している。
だが人間は違う。
生きるためではなく、楽しむために他者を踏みにじることができる。
力がすべての世界では、
力を持つ者ほど、それを誇示し、他者を見下す。
俺の知る限り、明韓の修為は父上よりわずかに劣る。
父上は現在、阿修羅境・第四小境界。
一方で明韓は「半歩阿修羅」と呼ばれている――
つまり、飢餓境・第九小境界にあり、いつ突破してもおかしくない状態だ。
……あるいは、すでに突破していて、
それを俺たちが知らないだけなのかもしれない。
人の修為が分かればいいのに。
飢餓境に入れば、気を感じ取れるようになると聞く。
それによって相手の強さを大まかに判断できるらしい。
もっとも、それにも限界はある。
下位の境界にいる者は、上位の者の修為を感知できない。
もし相手の強さがまったく分からなければ――
それは、圧倒的に格上だという証だ。
……少なくとも、本にはそう書いてあった。
今回、桃花姑姑が影のように付き添ってくれていなければ、
俺たちはどうなっていたか分からない。
そう思うと、背筋がひやりとした。
――まだ足りない。
全然、足りない。
俺は、天井を見つめたまま、
静かに拳を握りしめた。
強くなりたい。
あんな無力さを、二度と味わわないために。
彼と桃花姑姑との関係は、幼い頃の呉氏一族力比べをきっかけに、驚くほど良くなっていた。
今では、彼女は俺を実の息子のように扱ってくれている。
不思議なことに、実の母もそれを特に気にしている様子はない。
それどころか――もしかすると、あの二人の関係自体も、以前より良くなっているのかもしれない。
昔は、母と桃花姑姑はあまり仲が良くないのだと思っていた。
だが、それは俺の思い込みだったのだろうか。
俺は寝返りを打ち、横向きになった。
外からは、夏の蝉の鳴き声が絶え間なく響いてくる。
目を閉じる。
――もし、また今日のようなことが起きて、
その時、桃花姑姑がそばにいなかったら……?
その考えが、胸の奥をざわつかせた。
これからは、もっと慎重に行動するべきなのかもしれない。
それに、今回の件については、静姝ともきちんと話しておく必要がある。
彼女にも、もう少し慎重な立ち回りを覚えてもらわなければ。
次から次へと考えが浮かび、頭の中を埋め尽くしていく。
――これでは、眠れるはずがない。
俺は布団から起き上がり、鍛錬着に着替えた。
丈夫な体に、ゆったりとした道着が馴染む。
少し体を動かせば、眠気も来るだろう……たぶん。
天井から吊るされた輪に手を伸ばそうとした、その時だった。
コン、コン、コン。
控えめなノック音が、部屋に響いた。
音のした方を見るまでもない。
この時間に、俺の窓を叩く人物など、一人しかいないのだから。
「……美影」
障子窓を開けると、そこには黒い外套に身を包んだ美影が立っていた。
フードを深く被ってはいるが、その下から覗く澄んだ蒼い瞳と、見慣れた美しい笑顔は隠しようもない。
見張りの姿はない。
――どうやら、うまく撒いてきたらしい。
さすがだ、と俺は内心で苦笑した。
「……そっちも眠れなかった?」
美影が小さく尋ねた。
俺は髪をかき上げ、短く息を吐く。
「まあな。どうしても、さっきのことを考えちまってさ」
「私も同じ。……本当に、私たち運が良かったわよね」
「うん。かなりな」
俺は一瞬言葉を選び、それから正直に続けた。
「正直……あれは、かなり怖かった」
この弱音を口にできる相手は、美影だけだ。
他の誰にも、きっと言えない。
美影は静かに頷いた。
「ええ……怖かった。桃花姑姑が、あの時に来てくれなかったらって考えると……ぞっとするわ」
俺の脳裏に、彼女の腕を伝って流れていた血の光景がよみがえる。
――あれは、本来なら俺が受けるはずだったものだ。
「……静姝の行動について、話しておいた方がいいかな、って思ってさ」
「その必要はないと思うわ」
美影はきっぱりと言った。
「彼女、自分の失敗にはもう気づいてるはずよ。今後、同じことはしないでしょう」
そして、少しだけ間を置いてから、声の調子を変えた。
「それにね。私がここに来た理由は、それじゃないの」
俺は眉をひそめた。
「養子叔父上――ヨウシ叔父様が、これから少し……“面白い話”をするみたいなの。
あなたも、きっと聞いておいた方がいい内容よ。……聞きに行く?」
その言い方で、すぐに察した。
美影がこんなことを言う時は、必ず理由がある。
――未来を、見ている。
しかも、罰を受けるかもしれない危険を冒してまで聞く価値がある、と判断したということだ。
俺は小さく笑った。
「聞かない理由がないだろ。靴と外套を取ってくる」
そう答えた俺の声は、もう迷っていなかった。
「急いで。会議、もうすぐ始まるわ」
美影が小声でそう言った。
身支度を整えると、俺は窓から飛び降り、美影の後を追った。
彼女は屋敷の敷地内を縫うように進み、まるで熟練の暗殺者みたいに巡回の護衛や族人たちを避けていく。
護衛が通りかかるほんの数秒前に、岩の陰や茂み、木の裏へと身を隠す。
そして通り過ぎた瞬間、また動き出す。
巡回の配置を完全に把握しているのか、それとも彼女の予知能力で数秒先の動きを見ているのか――俺には分からなかった。
(……多分、前者だな。
美影はまだ能力を自在に使えない。
こんなピンポイントな場面で役立つほど、都合よく未来が見えるとは思えない)
だが、そう考えると逆に疑問が浮かぶ。
(じゃあ、どうやってここまで完璧に……?)
ほどなくして、父上の住まいに辿り着いた。
俺は美影の後ろで、できるだけ音を立てないよう、つま先立ちで進む。
正直なところ、見つからないかどうかはかなり不安だった。
だが美影はそんなことを微塵も気にしていない様子で、堂々と建物に近づくと、低く身を屈め、半開きになっている窓の下まで這うように移動した。
彼女は振り返り、俺に近づくよう手で合図する。
――いよいよだ。
胸の奥で高鳴る鼓動を抑えきれないまま、俺は美影の隣にしゃがみ込み、窓の向こうに耳を澄ませた。
父上は、何を語るつもりなのか。




