明申
「……おや、メイ児。
君も街に来ていたとは知らなかった。事前に言ってくれれば、喜んで俺がエスコートしたのに」
それが、明申が美影を目にした瞬間に口にした最初の言葉だった。
静姝の存在など、最初から視界に入っていないかのようだ。
その無視がどれほど無礼か――
静姝の顔が一瞬で赤く染まり、額に青筋が浮かんだのを、俺ははっきりと見ていた。
だが、明申はそれに気づきもしない。
こいつの目に映っているのは、ここ数年ずっと執着し続けてきた美影だけだった。
そして同時に――
美鈴の瞳に走った、ほんの一瞬の憎悪の色も。
それも、明申だけが見逃していた。
「ご親切にどうも。でも、あなたはすでに別の方をエスコートしていますでしょう?」
美影は柔らかな声で言った。
「それに、私をエスコートするのは――剣だけで十分ですから」
言葉遣いは丁寧だが、そこに込められた毒は隠しようがなかった。
美影の笑みは、まるで獲物を威嚇する毒蛇のようだ。
彼女は、そのまま俺の胴に腕を絡めた。
わざとらしいほどはっきりと、関係を誇示する仕草で。
……正直に言えば、俺に拒む理由はなかった。
この尊大なヒキガエルに、美影が誰のものかを思い知らせてやれるなら、願ってもない。
俺も自然に、彼女の腰に腕を回す。
次の瞬間、明申の顔が真っ赤になった。
「明申。
自分の婚約者のエスコートに専念したらどうだ?」
俺は淡々と告げた。
「白旗を上げるタイミングを知らない男ほど、見苦しいものはないぞ」
その言葉は、はっきりとした拒絶だった。
古語に、あいつのような男を表す言葉がある。
画蛇添足――
蛇を描いたあとに、わざわざ足を付け足す。
余計なことをして、せっかくの意図や成果を台無しにする愚行のたとえだ。
女を口説くにしても、引き際を知らない男は、最初から勝ち目がない。
……もっとも、それは“口説ける女”であることが前提だが。
美影は、そういう女じゃない。
「呉剣……」
明申が、低く唸るように言った。
「これは貴様には関係ない。父親のことに口出しするな」
この世界では、相手に対して「父」や「祖父」を名乗るのは、誇示や威圧の一種だ。
自分のほうが上だと示すための、下劣な言い回し。
「関係ないだと?」
俺は目を細め、吐き捨てるように言った。
「――関係しかないだろう、父上」
わざと、その呼び方を選んだ。
「美影は俺のものだ。
昔からそうだったし、これからも変わらない。
どれだけ贈り物を送りつけようが、どんな条件を提示しようが、甘い言葉を並べ立てようが――
その事実は、永遠に変わらない」
言葉を重ねるごとに、明申の顔はどんどん赤くなっていく。
怒りで今にも爆発しそうなほどに。
「……いいだろう」
明申は首を鳴らし、一歩前へ踏み出した。
「ずいぶんと口が達者になったものだな。俺を怒らせる術だけは、一丁前だ」
その視線には、露骨な敵意が宿っていた。
「大会を待たずに、先に貴様を叩き潰すことになりそうだ。残念だよ。
本当は、あの場で改めて屈辱を味わわせてやるつもりだったのに」
明申は、冷たい笑みを浮かべる。
「後悔するぞ。
俺の邪魔をしたことをな」
――望むところだ。
俺は美影の腕から静かに身を離し、数歩前へ出た。
明申との距離は、ほんの数尺ほど。
奴は俺より頭一つ分は背が高い。
それでも――視線を交わした瞬間、俺は一歩も引くつもりはなかった。
美影を悩ませ続けてきたこの不愉快な小悪党に対する嫌悪と憎悪が、一気に胸の奥から噴き上がる。
熱を帯びた怒りが、今にも噴き出しそうだった。
本当は、大会まで衝突を避けるつもりだった。
だが……どうやら、それは叶わないらしい。
俺と明申が無言で睨み合っている、その時だった。
「――よくも私を無視してくれたわね!」
鋭い声とともに、一歩前へ出たのは静姝だった。
気丈な皇女は明申を睨みつけ、その瞳には怒りの炎が燃えている。
「礼節というものを、まるで理解していないようね!
これが明家の流儀だというの? だとしたら、父上があなたの名を一度も耳にしたことがないのも納得だわ!」
その言葉に、明申はようやく静姝へと視線を向けた。
数秒の沈黙のあと、頭から爪先まで値踏みするように眺め回す。
その視線に、静姝は思わず自分の腕を抱き、身を守るような仕草をした。
そして――
明申は、舌で唇を舐めた。
「なるほど。これは失礼しました、公主殿下」
芝居がかった声音で、明申は口を開く。
「愛しの“我が美影”と久方ぶりに再会したあまり、感情に呑まれてしまいましてな。つい礼を欠いてしまったようだ」
俺は、思わず目を細めた。
「だが、ご安心を。
私ほど洗練された男が、これほどまでに気高く、華やかな美を長く無視するなど――あり得ません」
……相変わらずだ。
この男は、回りくどくて、尊大で、聞いているだけで虫唾が走る。
これぞ、貴族様の長広舌というやつだ。
十三歳の静姝は、満開の桜のような、忘れがたい存在感を放っていた。
柔らかな栗色の髪は陽光を受けて艶やかに輝き、複雑に編み込まれた編み込みが彼女の気品を一層引き立てている。幼さの残る面影は、いつの間にか洗練された輪郭へと変わりつつあり、いずれ誰もが目を奪われるであろう美しさの片鱗を感じさせた。明るく感情豊かな瞳には、他の誰にも負けない芯の強さと情熱が宿っている。
まだ若いとはいえ、彼女の身体はすでに鍛錬の成果を示していた。無駄のない引き締まった立ち姿は、日々の厳しい修練を物語っている。脚や足に残る小さな傷は、怠ることなく努力を重ねてきた証であり、彼女の覚悟を静かに語っていた。
唐風の格式ある装束に身を包んでも、あるいは動きやすい太極の道着であっても、静姝が放つ高貴な雰囲気は変わらない。否応なく周囲の視線を集める、そんな佇まいだった。
「……俺の婚約者に、随分な言い草だな」
俺は一歩前に出て、静姝の前に立った。
「婚約者?」
明申が眉をつり上げる。
「そうだ。静姝と俺は婚約している。言葉には気をつけろ」
「なるほど。婚約者がいながら、我が美影を独占するとは……それは不公平というものではないか?」
「自分だって別の婚約者がいるだろ。欲望を垂れ流すな、この色狂いが」
「――もう我慢ならん!」
明申の声が荒く響いた。
「それはこっちの台詞だ!」
胸の奥で煮えたぎっていた感情が、再び熱を帯び始めた。
静姝が割って入ったことで、一瞬だけ冷えた怒りは、今や勢いを増して逆流している。
前回の大会で、明申が勝ち誇ったあの顔。
その時に味わった屈辱――俺は今でも、はっきりと思い出せる。
卑怯な手を使い、家の力で組み合わせを操作し、俺に最も強い相手ばかりを連続で当てておきながら……それでも、この小僧は自分を「強者」だと信じて疑わない。
――本気で、この野郎を叩き伏せたい。
俺は一歩、前に踏み出した。
その瞬間だった。
いつの間にか、俺と明申の間に二人の人物が立っていた。
まるで魔法のようだった。さっきまで、そこには誰もいなかったはずなのに。
俺のすぐ前に立ったのは、一人の女性だった。
透き通るように白い肌、夜の闇を思わせる黒髪、そして深い闇色の瞳。
その佇まいは完璧で、隙がない。
純黒の漢服に身を包んだその姿は、洗練と実用性を同時に兼ね備えた、まるで玉の彫像のようだった。
紅い唇には不機嫌そうな皺が刻まれ、風に揺れる袖が、彼女の怒気を静かに伝えてくる。
「……桃花姑姑」
彼女は俺に向かって軽く手を動かした。
「下がってください、剣公子」
「ギャハハハ! これはこれは、用意周到だな。
まさか妖師の“影”が出てくるとは……久しぶりじゃないか?」
明申の下卑た笑い声が、場の空気をさらに歪めた。
桃花姑姑の正面に立っていたのは、まるで巨獣のような男だった。
深紅の毛織りの外套をまとい、黒髪には灰色が混じり、剣のように鋭い眉をしている。
貴族というより、荒野を蹂躙する蛮族の覇王――そんな印象を受けた。
だが、その存在感だけで十分だった。
近くにいるだけで、俺の頭皮がじりじりと痺れる。
本能が、危険だと叫んでいる。
「……明韓」
桃花姑姑の声は、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。
思わず、俺の背筋にも寒気が走る。
「今しがた、あなたが何をしようとしていたのか……私が気づいていないとでも思いましたか。
子供同士の諍いに介入するつもりでしたね? ずいぶんと、堕ちたものです」
「介入? とんでもない」
明韓は肩をすくめ、平然と答えた。
「ただ、事態が“行き過ぎる”前に止めようとしただけだ」
「そうですか。悪いですが、私はその言葉を信じる気はありません」
二人のやり取りに、俺はついていけずにいた。
状況が急に、俺の理解を超えたところへ跳ね上がった気がする。
俺は助けを求めるように美影を見た。
だが――彼女の顔色が、紙のように青ざめているのを見て、すぐに異変を察した。
何がおかしいのか、最初は分からなかった。
だが次の瞬間、俺の視線は一点に釘付けになった。
桃花姑姑の腕から――血が滴っていた。
左の袖は裂け、前腕から上腕にかけて、はっきりとした裂傷が走っている。
「……姑姑……」
思わず声をかけた、その瞬間だった。
桃花姑姑が、静かに手を上げる。
それだけで、俺の喉は詰まり、言葉が出なくなった。
まるで口を塞がれたかのように。
いや、それどころか――首に縄をかけられ、きつく締め上げられたような感覚。
息すら、うまくできない。
……違う。
これは命令だ。
俺は、動くことも、話すことも、許されていなかった。
周囲の空気が、重く張り詰めていた。
あまりにも重く、俺はまともに息をすることさえ難しかった。
自信を得たつもりでいた。
必死に鍛え、努力を重ねてきたのだから、少しは勇敢になれたのだと。
強くなったのだと――そう思い込んでいた。
だが、それはすべて幻想だった。
今になって、ようやく理解する。
俺はまだ、井の底にいる蛙に過ぎない。
見えていた空は、あまりにも小さく、あまりにも狭かったのだ。
俺は震える手を、ぎゅっと握り締めた。
……くそ。
この無力感が、たまらなく嫌だった。
まるで、あの頃に戻ってしまったかのようだ。
力もなく、声も上げられず、年上の異母兄に弄ばれていた、あの弱い子供の頃に。
二度と、戻りたくない。
絶対に、戻るものか。
「ふん……まあ、ひとまずこの場は収まったと考えていいだろう」
明韓が、余裕を含んだ声で言った。
「引き下がるといい。貴様は強いが――俺には及ばない。
それに、夫もここにはいないようだな。助けてくれる者もなし、か」
「呉剣、呉美影、侯静姝。帰るわよ」
桃花姑姑の声は、相変わらず冷たかった。
誰も、逆らおうとはしなかった。
言葉を発する者もいない。
帰路は、息が詰まるほどの沈黙に包まれていた。
それは、頭上に広がる晴れやかな空とは、あまりにも対照的だった。




