第7話 真夜中の来訪者
月が夜空に浮かび、遠くで蝉の声が響いていた。
ほとんどの一族はもう寝静まっている時間だ。
まだ起きているのは、巡回中の警備兵くらいだろう。
彼らの役目は、部外者が屋敷に侵入しないよう見張ること。
――それと同時に、若い族人たちがこっそり抜け出して悪さをしないよう監視することでもある。
若者というのは、どこの世界でも境界を試したがるものだ。
どこまで許されるのか、その線を越えようとする。
特に年頃の男子には、夜中に女性の部屋へ忍び込もうとする者も少なくない。
俺は、そんな話を何度も耳にしていた。
少し前にも、ウー・ヒーコンという若い男が、すでに婚約者のいるウー・メオと関係を持ったせいで、一族から追放されたと聞いた。
ウー一族はザン市でも有数の名門だ。
地位が高い分、富も多く、それを狙う輩もいる。
俺には盗みを働く人間の気持ちは理解できなかったが、父上の仕事の一つが、そうした犯罪者を処罰することだというのは知っている。
皇帝ホウ・ガン陛下の定めた法を守り、毎年、税として金か穀物を納める――
それが、一族に課せられた義務の一つだった。
俺は布団の中で目を開けたまま、ただ待っていた。
耳を澄ませる。
聞こえるのは、蝉の鳴き声と自分の呼吸音だけ。
それでも、ひたすら耳を研ぎ澄ませて――
やがて、それは来た。
コン、コン――と控えめな音が扉を叩いた。
俺は布団からそっと抜け出し、足音を立てないよう障子の前まで忍び寄る。
手のひらをそっと当て、小声で囁いた。
「いい夜だね」
「でも、私ほど素敵じゃないでしょ?」
くすっと笑うような少女の声。
思わず俺も笑みを浮かべ、障子を少しだけ開ける。
細い隙間から滑り込むように入ってきたのは――
雪より白い肌に、空のように青い瞳。
桜色の唇に、真夜中の闇を思わせる黒髪をした少女。
もちろん、吳美英だ。
彼女は誇らしげに胸を張り、いたずらっぽく笑っていた。
「見張りの兵に見つからなかった?」
「ふん、誰に向かって言ってるの? この私を見つけるなんて、百万年修行しても無理よ」
腕を組んでぷいとそっぽを向くその仕草に、思わず苦笑する。
「はいはい。まあ、一応聞いただけだよ。ほら、入って」
「おじゃましま~す」
メイインは遠慮もなく部屋の中に入り、そのまま布団に潜り込んだ。
俺も後から入り、二人で並んで座る。
冬の夜は底冷えがする。
布団の中にも冷気が忍び込み、メイインの身体はまるで氷のように冷たかった。
彼女の手が俺の腕に触れた瞬間、思わず「ひゃっ」と声を漏らす。
「うわっ、冷たっ!」
「外は寒いんだから、当たり前でしょ」
「……じゃあ、温めてあげないとね」
俺がそう言うと、メイインは頬をほんのり染めた。
「……お願いね」
俺たちは向かい合って座り、俺はメイインの肩に手を置いた。
そのまま両腕を優しく擦って温めてやる。
月明かりが障子越しに差し込み、彼女の顔がよく見えた。
肌も唇も、いつもよりずっと白く見える。
「……ねえ、唇も冷たいの」
メイインが少し唇を尖らせて言う。
「じゃあ、それも温めてあげないとね」
俺は彼女の顔にそっと近づき、唇を重ねた。
メイインも目を閉じ、それに応える。
それは、父上と母上が時々こっそりやっていたことだった。
見てはいけないと思いながらも、何度も目にした。
だから俺たちも、真似をするようになった。
父上と母上に見つかって叱られたこともある。
「それは夫婦だけがするものだ」と説明されたけれど、俺たちは納得していなかった。
――だって、いつか本当に夫婦になるんだから。
しばらくして、メイインの体がほんのり温まった。
俺たちは並んで横になり、向かい合ったまま布団の中で話し始めた。
夜にこうして会う時は、いつも取りとめもない話をする。
朝の授業のことや、ウー・イエイェがどれだけおじいちゃんになったとか。
「ラン教官って、体を鍛える授業はしてくれないよね。なんでだろう?」
俺がそう尋ねると、メイインは小首を傾げて考え込んだ。
「うーん……たぶん、自分でできるからじゃない? 体を鍛えるだけなら先生はいらないけど、戦い方は教えてもらわないと覚えられないでしょ?」
「なるほど……確かにそうだね。もしかして、それって“自主的にやる気があるかどうか”を見るためでもあるのかな?」
「かもね。自主的に鍛えてる子ほど、貴重な資源を使う価値があるって思われるのかも」
ザン市ではウー一族はそれなりに大きな家だ。
でも、大陸全体で見れば小さい部類に入る。
当然、修練に使える資源も限られている。
だからこそ、一族は“価値ある者”にしかそれを与えない。
「そういえば、今日のウー・イエイェの顔、ちゃんと見た?」
「見た。……新しいシワ、増えてたね」
「しかも髪も減ってた。あれって、ストレスのせいかな?」
「どうだろ。でも、ウー・ヨンとその取り巻きが本を雑に扱ってるのを見つかったって噂を聞いたよ。でも処罰はなかったんだって。ウー・ヨンは叔父上の息子で、ウー・フェイとウー・ミンは長老の孫だから」
「父上はウー・イエイェに育毛薬でも作ってあげるよう、錬金術師を雇うべきだね」
「ふふっ。そんな薬、本当にあるの?」
「どこかの誰かが作ってるはずさ」
二人でくすくす笑い合う。
気づけば、こうして夜に一緒に過ごすのは、いつものことになっていた。
俺たちは小さい頃、よく同じ布団で寝ていたらしい。
その頃のことは、あまり覚えていない。
ただ、母上が話してくれた話の断片から知っているだけだ。
でも今でも、メイインはほぼ毎晩のように俺の部屋へ忍び込んでくる。
どうやって見張りの目をかいくぐっているのか、未だに分からない。
その疑問を口にすると、メイインは得意げに胸を張った。
「そんなの簡単よ。見張りの巡回経路を全部覚えればいいだけ」
……簡単って言うけど、普通の八歳には絶対無理だと思う。
「いや、メイインが言うほど簡単じゃないと思うよ。見張りって、毎晩ランダムに巡回してるんじゃないの?」
「ううん、私なら大丈夫。どんなにルートを変えても、どこを通るかは分かるの。だから、その間を抜ければいいだけ」
彼女は当然のように言ってのけた。
俺は呆れたように笑いながら肩をすくめる。
「やっぱり、メイインってすごすぎるよ。普通の人間じゃないよ」
「そんなことない。ジエンだってすごいもん」
メイインが真剣な目でそう言う。
「いや、俺はすごくなんかないよ」
首を振りながら、思わず苦笑する。
俺は特別な人間じゃない。
ただの、小さな一族の中の一人の少年だ。
いずれ成長して、族長の座を継ぎ――
そして年老いて死ぬ。
それが俺の人生のすべてだと思っていた。
……いや、もしかすると、それすら叶わないかもしれない。
兄のウー・ヨンが族長の座を奪えば、俺は追放されるか、せいぜい使用人として生きるしかない。
その未来を思うだけで、背筋がぞくりとした。
「でも、ジエンはすごいのよ」
メイインがずいっと顔を近づけてきて、鼻が触れそうな距離になる。
「あなた、自分の可能性を全然わかってないだけ。でも私は知ってる。――あなたは、きっとこの世界で一番強い人になれる」
「メイインがそう言うなら……信じるしかないね」
俺は笑いながらそう返した。
だって、メイインが言うことは――今まで一度も間違ったことがない。
たとえば、俺たちが四歳の頃のこと。
彼女は「ジャ・グーグーが双子を産んで、名前はハンとリンになる」って言っていた。
その時は誰も信じなかった。
でも八か月後、本当に双子が生まれ、しかもその名前はハンとリンだった。
ほかにも、兄さんが内蔵書庫の巻物を盗み出して街の友達に見せびらかそうとして、罰を受ける――なんて言い当てたこともある。
二日後、本当に兄さんは捕まり、半年間の便所掃除当番を命じられた。
そういうことが何度もあった。
メイインの“予言”は、どれも外れたことがない。
だから彼女が何かを言うたびに――俺は迷わず信じるのだ。
「修練についてもっと調べようって決めて、本当によかったわ」
メイインが小声で囁いた。
「正式に修練を始めるのはまだ先だけど、きっとジエンの力になると思う。知識は力だからね」
「うん。巻物に書いてあった鍛錬法、明日からやってみよう」
「そうね」
メイインはうなずく。
「ラン教官は武術の型や受け身の取り方しか教えてくれないし、あの武術って、たぶんジエンには合ってないと思う。だから自分たちで鍛えた方が、きっと効果があるわ」
ウー一族の武術訓練は、誰にでも同じように教える“型”ばかりだ。
でもメイインは、人によって向いている鍛錬法や武術は違うと信じていた。
俺もその考えには賛成だった。
「じゃあ、俺にはどんな武術が合うと思う?」
そう尋ねると、メイインは少し目を伏せ、まぶたがゆっくりと落ちていく。
「うーん……まだ分からない。けどね……
今習ってるのじゃないのは確か。
ジエンには……もっと荒々しくて、強いものがいい。
空を――いや、天を引き裂く虎のような……そんな力」
メイインの声がだんだんと小さくなっていく。
言葉の合間に小さなあくびが混ざり、彼女のまぶたが完全に閉じた。
俺も急に眠気に襲われ、そっと彼女の額に自分の額を寄せた。
そのまま目を閉じる。
明日は早起きして鍛錬を始めるつもりだ。
――眠りに落ちた俺は、奇妙な夢を見た。
一人の少年が、一人の美しい女性を愛する夢。
その女性の顔は霞んで見えない。
分かるのは、輪郭と長い髪の影だけ。
なのに、胸が締め付けられるほど切ない。
きっと彼女は、大切な人だったのだろう――
「ジエン坊、メイちゃん。起きなさい」
声に呼ばれ、俺はうめきながら目を開けた。
ほとんど眠れなかったせいで、頭がぼんやりしている。
瞬きを繰り返して視界をはっきりさせると、目の前にはゆっくり目を開けるメイインの顔。
白い肌と長い黒いまつげの対比が美しくて、思わず見とれてしまう。
「いつまで布団で寝てるの? さあ、起きなさい」
再び声がして、ハッと我に返る。
振り向くと――母上が、口元に笑みを浮かべて立っていた。
「ま、母上っ……! ち、違うんです! これは、その……!」




