妬心の炎(ジェラシー・バーンズ)
「兄さん、いったい何があったんだ?」
僕は心からそう問いかけた。
「昔の兄さんは、こんなんじゃなかったはずだろ?」
「黙れ!!」
武勇はギリギリと耳障りな声で怒鳴った。
よろよろと立ち上がった彼の腕は、まるで茹でた蕎麦のようにだらんと垂れ下がり、前のめりになった顔は伏せられ、乱れた前髪の隙間からギラギラとした目だけが覗いていた。
「俺のことを知ったふうに話すな!! お前なんか、俺の何も知らねぇ!!」
「じゃあ教えてよ。僕は聞くつもりがある。」
そう言うと、武勇は吐き捨てるように笑った。
「教えてどうする? どうせ俺を笑うんだろ?! ふざけんな!!」
僕が「そんなことしない」と言う隙もなく、武勇は突進してきた。
距離を一気に詰め、顔や胸を狙って殴りつけてくる。
僕は左、右、また左と身をひねって避け、手のひらで軌道をそらし、後方へ下がりながら距離を取る。
「どうして話してくれないんだ?」
攻撃を避けながら僕は問い続けた。
「悩んでることがあるなら、僕が力になれるかもしれないだろ?」
「お前が悩みの種なんだよ!!」
武勇は怒号と共に、赤くなった顔で無駄な拳を振り回し続ける。
僕の髪が拳圧で揺れ、唾が飛び散る。
「お前が憎い!! お前の全部が憎い!!
俺はいつも彼女と遊んでたのに!
いつも一緒にいたのに!
美瑩の目には最初から最後までお前しか映ってなかったんだ!!
俺のほうなんか一度も見なかった!!
優しくしてくれたのだって、お前の“義理の兄”だからだ!!」
武勇の叫びは、喉が裂けそうなほどの嫉妬と憎悪に満ちていた。
僕は呆然とした。
「つまり…兄さんは、メイが僕を好きで、兄さんのことを好きじゃないから…僕を憎んでいるのか?」
「黙れ!! 黙れ黙れ黙れぇ!!
あいつは俺が愛させるんだ!!
お前なんか叩き潰して、俺のほうが優れてるって証明してやる!!」
本当に驚いた。
もちろん、メイが異常なくらい可愛いのは分かっていたけど…
まさか武勇もメイを想っていて、彼女が僕だけを見ていることを理由に僕を憎んでいるなんて。
だが、理由が分かった以上、僕としても譲れないものがあった。
――美瑩は僕のものだ。
彼女は僕を愛し、僕も彼女を愛している。
誰にも渡すつもりはない。
武勇を必要以上に傷つけるつもりはないけど、ひとつだけはっきり示さなきゃいけない。
メイは決して、兄さんのほうを選ばない。
だから僕は、この勝負をここで終わらせることにした。
僕が唯一、絶対に許せないもの――
それは「美瑩を奪おうとする者」だ。
武勇が再び拳を振るってきた。
狙いは、僕の鳩尾。
僕は一歩横へ滑り込み、その拳を空に泳がせた。
そのまま腕を掴み、足元を滑らせながら身体をひねる。
武勇自身の勢いを利用して、僕は兄を肩越しに投げ飛ばした。
もちろん、受け身は皆叩き込まれている。
武勇も衝撃を殺しながら転がり、手と膝を地面につく。
だが、顔を上げた瞬間――
彼の視界を埋めたのは、僕の足だった。
乾いた大きな音がテスト場に響いた。
僕の蹴りが武勇の顎を跳ね上げ、首がのけぞり、身体が弓なりに反ったあと――
彼は地面に崩れ落ちた。
強烈な一撃。
その瞬間、兄さんの目は白目を剥き、完全に意識を失っていた。
僕は、呆けたように座り込んだ武勇の目を見下ろしながら、長く息を吐いた。
胸の奥で恐怖と興奮、そして悲しみが混ざり合い、どくどくと心臓が脈打っている。
胸に手を当てても、その震えは止まらなかった。
兄さんの言葉が、呪いのように頭の中を何度も反響していた。
顔を上げて武晋叔を見やった。
末席の長老は、何が起きたのか理解できないというように数度瞬きをしていたが、僕の視線に気づくと手を上げた。
「この勝負はここまで! 勝者は――」
「……まだだ」
長老の声が途中で止まった。
武勇が、呻きながら身体を起こしていた。
さっき完全に気絶したはずなのに、信じられないことに、ふらつきながらも足を踏ん張って立ち上がったのだ。
足は震え、血を滲ませた歯を噛み締め、太腿をつねって震えを止めようとしている。
それでも、僕から目を逸らさず、殺気を帯びた視線を向けてくる。
「まだ……終わってねぇ。俺は……まだ終わってねぇんだ」
武晋叔は眉をひそめたが、やがてゆっくりと後ろに下がった。
「……分かった。試合続行だ」
僕は唇を噛みしめた。
さっきまでの戦いは、思っていたよりもずっと楽に終わった。
けれど、その裏で、僕は自分を奮い立たせるために多くの感情を振り絞っていた。
正直、もう続けたくなかった。
「どうして……どうして諦めないんだ?」
僕は問いかけた。
「僕より強いって証明したいのか? いいよ。君のほうが上だって認める。でも……もし“僕より強くなれば美瑩が君を好きになる”なんて思っているなら、それは木の上で魚を捕まえようとしているのと同じだよ。」
「黙れぇぇっ!! 俺は……俺は美瑩に俺を見させる! 俺を好きにさせてみせる!!」
武勇は叫びながら、突然手を口元に押し当てた。
僕は何度も瞬きした。……何をしているんだ?
「もし……もし好きにさせられないなら……力づくで俺のものにしてやる……!」
その言葉に、僕の背筋が凍った。
何を言っているんだ、兄さん……?
僕の位置からはよく見えなかったが、武晋叔は気づいたらしい。
「武勇!! 何をしている?! その薬を飲むな!! 今すぐやめろ!!」
鋭い叫び声が響いた。
だが——遅かった。
武勇は指先でつまんだ丸薬を口に放り込み、そのまま飲み込んだ。
飲んだ瞬間、首・腕・脚・顔の血管がすべて膨れ上がり、まるで血が沸騰したかのように真っ赤に浮かび上がった。
その目まで、血の色に染まっていく。
「この勝負はここまで! 武勇は非法薬を使用したため、勝者は武煎!」
武晋叔が慌てて終了を宣言した。
だが、武勇は聞いていなかった。
いや、もう誰の声も届かないほど怒りに呑まれていたのかもしれない。
凄まじい咆哮とともに、武勇が爆発的な速度で突進してきた。
これまで見たことのない速さだった。
僕は避けられない——そう悟った瞬間にはもう、身体が動いていた。
咄嗟に前腕を交差させてガードを作る。
だが、それが間違いだった。
「——っぐあああああ!!」
衝撃が炸裂し、腕に激痛が走った。
骨が……折れた。
そのまま武勇の蹴りが僕の胸に叩き込まれ、僕は地面に吹き飛ばされた。
鋭い悲鳴を上げながら、僕は後方へ吹き飛び、地面に激しく叩きつけられた。
息を吸おうとした——しかし、肺がうまく働いていない。空気が入ってこない。
「……っ、は……っ……」
視界が揺れ、端から黒く染まっていく。
意識が遠のく中、何人もの顔が僕の上に覗き込んできた。
誰なのか判断できない。すべてが霞んでいた。
ただ——その中のひとりだけ。
ひとりだけ、僕は目で追っていた。
そのぼやけた人影の口が動いた。何かを叫んでいる。
けれど、僕にはもう何も聞こえなかった。
メイ……イン……
暗闇が、すべてを飲み込んだ。




