武家の試力式(ウー・クラン・ストレングス・コンペティション)
翌朝、俺は早く目を覚ました。
隣では、いつの間にかメイがすやすや眠っている。
上体を起こして伸びをすると、肘や背中の関節がポキポキと鳴った。
軽くメイを揺らして起こそうとしながら、自分の稽古着に袖を通す。
濃い灰色の生地に、桜を抱く龍が巻きついた意匠――軽くて、肩にしっくり馴染むお気に入りだ。
「んんん〜……」
小さな寝息が聞こえて振り返ると、案の定、メイはまだ布団の中。
「メイ。メイ。起きる時間だぞ」
肩を軽くゆさぶる。
「んむぅ……ふぁぁ……ジアーン……もう朝なのぉ?」
大きなあくびをしながら、メイがとろんとした目で俺を見る。
「朝だよ。
ほら、早く自分の部屋に戻らないと。
ティエンティエンが様子を見に来るだろ? 部屋にいなかったら怒るぞ」
「はぁぁ〜……ここにいられたらいいのに」
「俺もそう思うさ。そうできたら、もっと色々楽になるしな」
ふらふらとベッドから降りたメイは、外套とガウンを羽織って近づいてきた。
手を差し出されたので、自然と握り返す。
そして――軽く唇が触れた。
「じゃあ、食堂でね♪」と、メイがにこっと笑う。
「うん。またあとで」
メイが去ったあと、俺は身支度を整え、外に出て食堂に向かった。
今日は少し寝過ごしたせいで、太陽はもう昇りきっていて、
ぽかぽかした陽気が身体を心地よく温めてくれる。
食堂に入ると、すでに何百人もの武家の人間でいっぱいだった。
いつもの席に座ると、侍女が粥の椀を運んできたので――
「悪いけど、メイの分も一つ頼む」
そう頼むと、侍女はこくりと頷き、素早く奥へ戻っていった。
「ふん。来たんだな。」
侍女が離れたあと、そんな声が降ってきた。
顔を上げると――ウー・ヨンが俺を睨みつけていた。
あの騒動からそこまで日数は経っていないはずなのに、俺にとってはずいぶん前のことのように感じる。
あの一件のあと、俺の中では色々なことが変わった。
けれど、ウー・ヨンの中では、俺への憎しみがさらに深まったらしい。
その横には、いつもの腰巾着二人――ウー・ミンとウー・フェイ。
腕を組んで、まるで俺がご先祖様を侮辱したかのような顔で睨んでくる。
……正直、まだ怖い。
長年いじめられてきたトラウマは、そんな簡単には消えない。
でも――それでも前に進むためには、逃げない選択をしないといけない。
「来るに決まってるだろ」
俺は答えた。
「挑んだのは俺なんだ。来ない理由があるか?」
「臆病風に吹かれたとか?」
ウー・ヨンが嘲るように口角を上げた。
「……それは、前の俺だよ」
小さく、けれどはっきりと答える。
「前の俺は……お前が怖かった。
今も怖い。だけど――もう逃げない」
その一言が、なぜか奴の神経を逆撫でしたらしい。
ウー・ヨンの顔がみるみる赤紫になり、
ズカズカと歩み寄ってきて、俺の真上に影を落とした。
氷のような双眸――ぞくりと背筋が震えた。
思わず逃げ腰になりそうになる心を抑えるために、
太ももを思い切りつねる。
痛みが、俺の意志をつなぎ止めてくれた。
――もう、昔の俺じゃない。
「ほぉ? 逃げないって言うのか?」
ウー・ヨンの唇が、意地の悪い弧を描いた。
「じゃあ――なんで震えてるんだよ?」
悔しい。
――悔しいけど、身体が勝手に震える。
拳を握りしめる。
震えを止めようとしても、唇まで震えてしまう。
怖い。
本当に、心臓が潰れそうなくらい怖い。
けれど――
それでも俺は、もうこのままではいたくなかった。
この恐怖が、俺の未来を奪うのはもう嫌だ。
「見ろよ! まだ俺が怖ぇんだ!」
ウー・ヨンが勝ち誇ったように声を上げる。
「腰抜けだな!」
「赤ん坊みたいに震えてるじゃん!」
横でウー・ミンとウー・フェイがケラケラ笑いながら囃し立てる。
悔しさで顔が熱くなる。
涙が出そうになるのを必死にこらえる。
逃げたい。
耳を塞いで走り出したい。
――でも、逃げたら終わりだ。
食堂は、今や水を打ったように静まり返っていた。
ここにいる全員が、俺とウー・ヨンの勝負を知っている。
“どう出るのか”を見ている。
視線が刺さる。
絶対に笑っている。
俺を見下している。
目を閉じてしまえば楽だ。
だけど、俺は――閉じない。
歯を食いしばり、俺は立ち上がった。
震える膝を押さえ込み、
ゆっくりとウー・ヨンへ振り返る。
たった一つの思いだけが胸にある。
逃げない。
強くなる。
そのために、今ここで立たなきゃいけない――!
もし俺が強くなれなければ――
俺は一生、家の恥のままだ。
もし俺が強くなれなければ――
父は俺を誇りに思うことはなく、
母はずっと俺を哀れむだけだ。
もし俺が強くなれなければ――
メイが俺の前から消えてしまう。
誰かに奪われて、二度と会えなくなる。
――そんなの、絶対に嫌だ。
その想像だけで、胸の奥の恐怖が押し返された。
逃げたくても、逃げられなくなった。
「…負けたあとに、好きなだけ俺を笑えばいいさ」
言葉が喉に引っかかったけれど、
それでもなんとか絞り出して言った。
ウー・ヨンも、ウー・ミンも、ウー・フェイも――
ぴたりと笑いを止めた。
冷たい視線が一斉に俺へ向けられる。
食堂全体が静寂に包まれた。
誰も喋らない。
誰も食べない。
息を潜め、全員がこの瞬間を見守っていた。
「……いいだろう」
ウー・ヨンが奥歯を噛みしめながら言った。
「なら“力比べ”で決めてやる。忘れるなよ、ジアン・ニャンパオ。
お前のその減らず口――全部飲み込ませてやる」
“ニャンパオ”は男を女々しいと侮辱する言葉。
その呼び方をするというだけで、
ウー・ヨンがどれだけ俺を見下しているかよく分かる。
ウー・ヨンは鼻を鳴らし、
「行くぞ」と言って食堂の奥へ向かった。
ウー・ミンとウー・フェイが後に続く。
その途中、ウー・フェイだけがふと振り返り、
妙な眼つきで俺を見た。
何か言いたげだった。
でも結局何も言わず、
再び向き直ってウー・ヨンたちの後を追っていった。
ウー・ヨンたちが離れていったあと、
俺はようやく大きく息を吐き、
椅子に沈み込んだ。
心臓がバクバクとうるさい。
そのとき――
「今の、とても勇敢だったわね」
やわらかい声が隣から聞こえた。
「メイ…」
ウー・メイインがにこーっと笑って、俺の横に座る。
「本当にすごかったわよ、ジアン。
皆の前で、自分をいじめてきた相手に正面から立ち向かうなんて、
そう簡単にできることじゃないわ」
頬が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。でも…たいしたことじゃないよ」
「ふふん。強がっちゃって。
そういうところ、結構かわいいわよ?」
メイインは得意げに言ってから、手を合わせた。
「さ、食べましょ。もうすぐ“力試し”が始まるし、体力をつけないと」
「だな」
二人で静かに朝食を食べ始めた。
周囲ではざわざわと会話が広がっていく。
ほとんどが俺の話題だ。
――また見られてる。
何を言われているんだろう。
勇気を出した俺を褒めている?
それとも、震えていた俺を笑っている?
気になる。
でも、知りたくない。
(俺は…いつか、この弱い心を克服できるのかな?
いつか、もっと強くなれるのか?)
横目でウー・メイインを見る。
彼女は周囲の視線なんてまったく気にしていない。
(メイみたいになりたい。
誰の目も気にせず、自分のままでいられるように…)
そんなことを考えているうちに、朝食は終わった。
すると、ウー・ジンスが食堂へ入ってきた。
その瞬間、場の空気が一変し、
全員の視線が彼へ向かう。
「皆、ついてきなさい。
まもなく“力試し”を始める」
ジンスの言葉に、
食堂にいた子どもたちが一斉に立ち上がった。
彼を先頭に、男の子も女の子もずらりと列を作り、
俺たちは武家屋敷の北側へと向かって歩き始めた――。
呉家の“力試し”は、呉家の屋敷の外で行われる。
俺たちは北門――本門よりも小さな門――をくぐり、
木々に囲まれたでこぼこ道を歩いていった。
しばらく歩くと、崖に張り出した大きな段丘が見えてくる。
ここは西牙山ではなく、
もう少し手前にある小高い山で、歩いて数分ほどの距離だ。
そこに広がるのが、呉家の強さを測るための試験場だった。
山肌を削って造られた円形の競技場で、
十八歳以上の武者たちが座る観覧席もある。
さらにその奥には、呉家全員が座れるんじゃないかと思えるほど
大きな第三観覧席がどっしりと構えていた。
すでに父上、母上、タオファ姉さん、
そして三長老のうち二人が最上段の雅な東屋の下に座っていて、
そこから競技場全体を見渡せるようになっていた。
ウー・ジンスもそちらへ向かい、空いている席に腰を下ろした。
俺とメイイン、それに十八歳未満の子どもたちは
階段を下りて試験場へ入っていく。
試験場はほとんど何もない、石張りの広い空間だった。
その一番奥には階段があり、
そこを上ると巨大な黒い立方体が鎮座している。
大人の背丈の二倍はあろうかという黒曜石のような立方体。
俺たちはこれを何度も見てきた。
半年に一度、呉家の子どもたちはここに連れてこられ、
そこで腕力と身体能力を測るのだ。
俺はごくりと唾を飲んだ。
胸がうるさいほど脈打ち、
手のひらがしっとりと汗ばんでくる。
――本当に……大丈夫なんだろうか?
これまで何度もそう思ってきたが、
今日ほど強く思ったことはなかった。




