表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/162

救われた瞬間(セーブド・アット・ザ・ラスト・セカンド)

斑雪獅子はもう追いかけてはこなかった。

代わりに、ゆっくりと――まるで狩りを楽しむように――俺たちへと歩み寄ってくる。

雪の上に残るその足跡を見ただけで、背筋が凍った。

一歩ごとに沈み込む巨大な爪痕。

あの前脚一つで、俺の頭なんて簡単に潰せるだろう。

歩くたびに、地面がきしむ。

風が鳴る。

息を呑むたびに、冷たい空気が肺を刺した。

わかる――あいつは、わざとゆっくり近づいてきている。

逃げ場のない俺たちを見下ろし、

“この瞬間”を楽しんでいる。

その目がそう語っていた。

“喰う前の獲物”を味わうかのように。

恐怖が全身を支配した。

膝が震え、歯が鳴る。

胸の奥に冷たい重圧がのしかかる。

息ができない。視界が暗くなる。

……ダメだ、気を失うな。

俺が倒れたら、メイが――メイが一人になる!

それだけを考えて、かろうじて意識をつなぎとめた。

メイインがそばにいる。

その事実だけが、俺の理性を保ってくれる。

「ど、どうすれば……いい?」

声が震えた。自分でも情けないほどに。

「――叫んで。」

「……え?」

「叫ぶのよ。できるだけ大きな声で!」

なぜそんなことを?

理由なんてわからない。

でも、考えている余裕なんてなかった。

獅子が腰を低く構え、爪を雪に食い込ませる。

次の瞬間、飛びかかってくる――

それを感じ取った俺は、肺の奥まで空気を吸い込み――

「うわああああああああああああああああああああっっ!!!」

夜の山に、俺とメイインの絶叫が響き渡った。

空気を震わせ、森全体が反響するほどの声だった。

斑雪獅子は、俺たちの絶叫に思わず身を引いた。

その動きはまるで――巨大な猫のようだった。

牙も爪も、ひとたび振るえば俺たちの体なんて簡単に裂けるのに、

それでも“猫”のように背を丸め、唸り声を上げた。

最初は、メイインが叫ばせた理由がそれだと思った。

けれど――違った。

頭上から、「バキィッ!」という音が響いた。

氷が割れる、鋭く乾いた音。

顔を上げようとした俺の腕を、メイインが掴んだ。

「ジアン……合図をしたら、走るのよ。」

「わ、わかった……。」

「いい? いくわよ。……3、2、1――走って!」

俺はメイインの背中を追いかけて全力で駆け出した。

獅子が咆哮を上げ、追いかけてくる――

その瞬間、轟音とともに崖の上の氷が崩れ落ちた。

「ガアアアアアアアアアアッ!!!」

獅子の悲鳴が、氷雪の怒涛にかき消される。

山が崩れたかのような衝撃。

数え切れないほどの氷と雪が、一気に地へと落ちていく。

「うわあああっ!!」

俺たちは巻き込まれこそしなかったが、

その圧力だけで風が爆発し、身体ごと吹き飛ばされた。

地面を転がり、雪を巻き上げながら転がり落ちる。

世界がぐるぐる回る。上下の感覚が消える。

やっとの思いで止まったとき、俺はうつ伏せに倒れていた。

息を吸い、震える腕で地面を押す。

目の前に広がるのは――巨大な雪と氷の塊の山。

さっきまで俺たちを追っていた斑雪獅子が、その下に埋まっている。

……あのまま走るのが遅れていたら、俺たちも。

ぞくりと背筋が冷える。

寒さのせいじゃない。純粋な恐怖だ。

それでも、俺はすぐに隣を見る。

「メイ……大丈夫か?」

「うん……たぶん、大丈夫。」

隣でメイインが身を起こした。

頭や肩から雪がぱらぱらと落ちていく。

彼女は、獅子を埋めた巨大な雪の山を見上げて、

ふっと笑みを浮かべた。

「ふぅ……ちょっとした冒険だったわね。」

「“ちょっとした”ね……」

俺は皮肉っぽく返したが、口元が自然とほころんだ。

二人して顔を見合わせて、思わず笑い合う。

恐怖が、ゆっくりと安堵へ変わっていく。

生きている――。

その実感が湧いた瞬間、

胸の奥から別の感情が込み上げてきた。

息が荒い。

心臓が暴れている。

全身に血が駆け巡り、熱くなる。

怖かったはずなのに……興奮している。

生き延びた快感。

何かに勝ったような、奇妙な高揚感。

俺は、生きてる。

今なら、この世界だって相手にできる気がする――!

だが、その感情は一瞬で打ち砕かれた。

――ドォンッ!!

轟音とともに、目の前の雪山が吹き飛んだ。

吹雪のような雪と氷の破片が俺たちに降り注ぐ。

「うわっ!!」

反射的に顔を覆ったが、

すぐそばでメイインの悲鳴が聞こえ、

俺は咄嗟に彼女を抱き寄せた。

「ぐっ……!」

背中に氷の塊が当たるたび、鋭い痛みが走る。

それでも腕を緩めなかった。

風が収まり、雪煙が薄れていく。

恐る恐る顔を上げた俺は――息を呑んだ。

そこにいた。

雪と氷を払い落としながら、

赤い光を宿した瞳で俺たちを睨みつける斑雪獅子。

さっきまでよりも、さらに怒りに満ちていた。

目が、血のように真っ赤だ。

「……っ!」

逃げなきゃ――そう思って立ち上がろうとした瞬間、

身体が動かないことに気づいた。

「……え?」

混乱しながら視線を下に向ける。

――そして、理由を理解した。

氷が――俺とメイインの足を覆っていた。

「くっ……!」

引き抜こうとしたが、びくともしない。

冷たく硬い氷が脚に絡みつき、完全に動きを封じている。

これもあの魔獣の術か。

気を操って氷を生み出し、俺たちを凍らせているのだ。

逃げ場はない。

……それなら。

俺はメイインを庇うように抱き寄せ、

その小さな体を覆うように身を伏せた。

「ジアン……!」

「大丈夫だ、メイ。俺が守る。」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。

怖かった。死にたくなんてない。

でも――彼女を失うくらいなら、命なんて惜しくない。

獅子が咆哮を上げた。

雪が揺れ、地面が震える。

次の瞬間、それは跳んだ。

巨大な体が宙を舞い、

爪を広げ、俺たちを引き裂こうと迫る。

世界が、ゆっくりになる。

迫る影。

空気の震え。

鼓動の音。

――死ぬ。

脳裏に映るのは、これまでの人生。

くだらない思い出ばかり。

そして――彼女の笑顔。

いやだ。

死にたくない。

まだ、メイと結婚して、家族を作るんだ……!

自分の弱さが、無力さが憎い。

どうして――どうして俺は、こんなにも弱いんだ!?

心の中で叫んだその瞬間――

「ガァッ!!」

轟音。

何かが獅子の体にぶつかり、

その巨体を宙へと弾き飛ばした。

「……え?」

何が起きたのか理解できなかった。

閃光のような衝撃――あれは……岩?

いや、違う。光っていた。

岩が光るわけがない。

目を瞬かせる俺の前に、

三つの影が降り立った。

――見覚えのある姿。

「フ……父上……母上……それに、タオファ叔母上……?」

息を呑む俺の前に、

三人の大人が立ちはだかっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ