救われた瞬間(セーブド・アット・ザ・ラスト・セカンド)
斑雪獅子はもう追いかけてはこなかった。
代わりに、ゆっくりと――まるで狩りを楽しむように――俺たちへと歩み寄ってくる。
雪の上に残るその足跡を見ただけで、背筋が凍った。
一歩ごとに沈み込む巨大な爪痕。
あの前脚一つで、俺の頭なんて簡単に潰せるだろう。
歩くたびに、地面がきしむ。
風が鳴る。
息を呑むたびに、冷たい空気が肺を刺した。
わかる――あいつは、わざとゆっくり近づいてきている。
逃げ場のない俺たちを見下ろし、
“この瞬間”を楽しんでいる。
その目がそう語っていた。
“喰う前の獲物”を味わうかのように。
恐怖が全身を支配した。
膝が震え、歯が鳴る。
胸の奥に冷たい重圧がのしかかる。
息ができない。視界が暗くなる。
……ダメだ、気を失うな。
俺が倒れたら、メイが――メイが一人になる!
それだけを考えて、かろうじて意識をつなぎとめた。
メイインがそばにいる。
その事実だけが、俺の理性を保ってくれる。
「ど、どうすれば……いい?」
声が震えた。自分でも情けないほどに。
「――叫んで。」
「……え?」
「叫ぶのよ。できるだけ大きな声で!」
なぜそんなことを?
理由なんてわからない。
でも、考えている余裕なんてなかった。
獅子が腰を低く構え、爪を雪に食い込ませる。
次の瞬間、飛びかかってくる――
それを感じ取った俺は、肺の奥まで空気を吸い込み――
「うわああああああああああああああああああああっっ!!!」
夜の山に、俺とメイインの絶叫が響き渡った。
空気を震わせ、森全体が反響するほどの声だった。
斑雪獅子は、俺たちの絶叫に思わず身を引いた。
その動きはまるで――巨大な猫のようだった。
牙も爪も、ひとたび振るえば俺たちの体なんて簡単に裂けるのに、
それでも“猫”のように背を丸め、唸り声を上げた。
最初は、メイインが叫ばせた理由がそれだと思った。
けれど――違った。
頭上から、「バキィッ!」という音が響いた。
氷が割れる、鋭く乾いた音。
顔を上げようとした俺の腕を、メイインが掴んだ。
「ジアン……合図をしたら、走るのよ。」
「わ、わかった……。」
「いい? いくわよ。……3、2、1――走って!」
俺はメイインの背中を追いかけて全力で駆け出した。
獅子が咆哮を上げ、追いかけてくる――
その瞬間、轟音とともに崖の上の氷が崩れ落ちた。
「ガアアアアアアアアアアッ!!!」
獅子の悲鳴が、氷雪の怒涛にかき消される。
山が崩れたかのような衝撃。
数え切れないほどの氷と雪が、一気に地へと落ちていく。
「うわあああっ!!」
俺たちは巻き込まれこそしなかったが、
その圧力だけで風が爆発し、身体ごと吹き飛ばされた。
地面を転がり、雪を巻き上げながら転がり落ちる。
世界がぐるぐる回る。上下の感覚が消える。
やっとの思いで止まったとき、俺はうつ伏せに倒れていた。
息を吸い、震える腕で地面を押す。
目の前に広がるのは――巨大な雪と氷の塊の山。
さっきまで俺たちを追っていた斑雪獅子が、その下に埋まっている。
……あのまま走るのが遅れていたら、俺たちも。
ぞくりと背筋が冷える。
寒さのせいじゃない。純粋な恐怖だ。
それでも、俺はすぐに隣を見る。
「メイ……大丈夫か?」
「うん……たぶん、大丈夫。」
隣でメイインが身を起こした。
頭や肩から雪がぱらぱらと落ちていく。
彼女は、獅子を埋めた巨大な雪の山を見上げて、
ふっと笑みを浮かべた。
「ふぅ……ちょっとした冒険だったわね。」
「“ちょっとした”ね……」
俺は皮肉っぽく返したが、口元が自然とほころんだ。
二人して顔を見合わせて、思わず笑い合う。
恐怖が、ゆっくりと安堵へ変わっていく。
生きている――。
その実感が湧いた瞬間、
胸の奥から別の感情が込み上げてきた。
息が荒い。
心臓が暴れている。
全身に血が駆け巡り、熱くなる。
怖かったはずなのに……興奮している。
生き延びた快感。
何かに勝ったような、奇妙な高揚感。
俺は、生きてる。
今なら、この世界だって相手にできる気がする――!
だが、その感情は一瞬で打ち砕かれた。
――ドォンッ!!
轟音とともに、目の前の雪山が吹き飛んだ。
吹雪のような雪と氷の破片が俺たちに降り注ぐ。
「うわっ!!」
反射的に顔を覆ったが、
すぐそばでメイインの悲鳴が聞こえ、
俺は咄嗟に彼女を抱き寄せた。
「ぐっ……!」
背中に氷の塊が当たるたび、鋭い痛みが走る。
それでも腕を緩めなかった。
風が収まり、雪煙が薄れていく。
恐る恐る顔を上げた俺は――息を呑んだ。
そこにいた。
雪と氷を払い落としながら、
赤い光を宿した瞳で俺たちを睨みつける斑雪獅子。
さっきまでよりも、さらに怒りに満ちていた。
目が、血のように真っ赤だ。
「……っ!」
逃げなきゃ――そう思って立ち上がろうとした瞬間、
身体が動かないことに気づいた。
「……え?」
混乱しながら視線を下に向ける。
――そして、理由を理解した。
氷が――俺とメイインの足を覆っていた。
「くっ……!」
引き抜こうとしたが、びくともしない。
冷たく硬い氷が脚に絡みつき、完全に動きを封じている。
これもあの魔獣の術か。
気を操って氷を生み出し、俺たちを凍らせているのだ。
逃げ場はない。
……それなら。
俺はメイインを庇うように抱き寄せ、
その小さな体を覆うように身を伏せた。
「ジアン……!」
「大丈夫だ、メイ。俺が守る。」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
怖かった。死にたくなんてない。
でも――彼女を失うくらいなら、命なんて惜しくない。
獅子が咆哮を上げた。
雪が揺れ、地面が震える。
次の瞬間、それは跳んだ。
巨大な体が宙を舞い、
爪を広げ、俺たちを引き裂こうと迫る。
世界が、ゆっくりになる。
迫る影。
空気の震え。
鼓動の音。
――死ぬ。
脳裏に映るのは、これまでの人生。
くだらない思い出ばかり。
そして――彼女の笑顔。
いやだ。
死にたくない。
まだ、メイと結婚して、家族を作るんだ……!
自分の弱さが、無力さが憎い。
どうして――どうして俺は、こんなにも弱いんだ!?
心の中で叫んだその瞬間――
「ガァッ!!」
轟音。
何かが獅子の体にぶつかり、
その巨体を宙へと弾き飛ばした。
「……え?」
何が起きたのか理解できなかった。
閃光のような衝撃――あれは……岩?
いや、違う。光っていた。
岩が光るわけがない。
目を瞬かせる俺の前に、
三つの影が降り立った。
――見覚えのある姿。
「フ……父上……母上……それに、タオファ叔母上……?」
息を呑む俺の前に、
三人の大人が立ちはだかっていた。




