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第22話 雪獅子の追撃

そいつは――生まれながらにして飢餓境の修為を持つ化け物だった。


つまり、俺が今いる鍛体境なんて段階をすっ飛ばして生まれてきた存在だ。


……まさか、これが母上が言っていた修羅境に到達した魔獣なのか!?


間近でその巨体を見た瞬間、俺は本気で小便を漏らしかけた。


――死んだ。


――俺、もう終わりだ。


――こいつに殺される……!!


頭の中でそんな言葉がぐるぐると回る。


巨大な斑雪獅が、もう片方の前脚を振り上げ、今にも俺の顔を爪で引き裂こうとしていた。


目を閉じそうになった――その瞬間。


バシュッ!


雪玉が獣の左脇腹に命中した。


「グルァァァァッ!」


驚愕の咆哮。


続けざまに、もう一発。


今度は右目に直撃した。


「うわっ!」


巨体がぐらりと揺れ、俺のすぐ横を通り抜けて、雪煙を巻き上げながら崖下へ転げ落ちていった。


あまりの衝撃に息が止まる。


……けれど、俺はすぐに理解した。


あれぐらいの高さから落ちても、あの化け物が死ぬはずがない。


むしろ、怒りを買っただけだ。


獣は四足で地面に着地し、金色の瞳をぎょろりと光らせながら、攻撃を仕掛けた相手を探すように頭を振り回した。


「こっちよ! ここにいるわ!」


聞き慣れた声が夜の森に響く。


雪玉がもう一発、獣の顔面に命中した。


斑雪獅が怒りの唸りを上げ、その方向へ向き直る。


そこには――


片目を引っ張って舌を出し、ライオンを挑発するメイインの姿。


まるで小さな子供が巨大な怪物をからかっているみたいで、もしこの状況が命懸けじゃなかったら、俺は笑っていたかもしれない。


けれど、今は……笑えなかった。


胸の奥を締めつけるのは、恐怖と焦り。


「メイイン! 何してるんだよ!?」


「囮になってるの! 早く、その蓮を取って!!」


「でもっ――!」


言いかけた瞬間、斑雪獅が大地を蹴った。


雪が弾け、空気が震える。


「メイインっ!!」


俺は叫んだ。


彼女が粉々にされる光景を想像して、喉が凍りつく。


だが――


彼女の姿は、消えていた。


攻撃を避けた? どうやって?


一瞬で視界から消えたように見えた。


瞬きをしていないのに、まるで時間そのものをすり抜けたみたいに。


呆然とする俺をよそに、斑雪獅も驚いたように唸り声を上げている。


「ジエン!! 早く、その蓮を取って!! 長くはもたないわ!!!」


必死の叫びが聞こえた。


その声に、俺の中の恐怖がかき消されていく。


今、動かないと――メイインが死ぬ。


斑雪獅がメイインに向かって飛びかかった。


しかし――彼女は、紙一重でその巨体をかわす。


……おかしい。


今の避け方、どう考えても普通じゃない。


まるで――獅子が飛びかかる“前”から、すでに動いていたようだった。


まるで、数秒先の未来を見ていたかのように。


俺の脳がその異常さを理解する前に、獣は再び唸り声を上げた。


怒っている――そんな声音だった。


鬣の毛が逆立つ。


次の瞬間、俺は自分の目を疑った。


――シュバッ!!


無数の針が、鬣から放たれたのだ。


夜気を切り裂くような音とともに、地面が爆ぜる。


「うそだろ……」


メイインが立っていた場所に、無数の針が突き刺さっていた。


さらに後ろの木々までもが穴だらけになっている。


もし、ほんの一瞬でも避けるのが遅れていたら――。


メイインは死んでいた。


「くそっ……俺も何かしないと……!」


焦りと恐怖を押し殺し、俺は崖に咲く銀色の蓮へと手を伸ばした。


指先が震える。


だが、今は迷っている場合じゃない。


根ごと引き抜き、持ってきた袋に詰め込む。


そして、急いで崖を降りようとした――


が、半分ほど降りたところで足を滑らせた。


「うわっ――!?」


ドスンッ!!


背中に鋭い痛みが走る。


尾てい骨が砕けるかと思うほどだった。


「いっ……たぁ……」


呻きながら立ち上がると、メイインの叫びが夜を裂いた。


「ジエン! 後ろっ!!」


その声に反射的に横へ飛び退く。


直後――


ドンッ!!!


さっきまで俺がいた地面に、巨大な前脚が叩きつけられた。


雪と石が爆ぜ、風圧で体が後ろへ押しやられる。


……危なかった。


ほんの一瞬遅れていたら、今頃――。


俺は唾を飲み込み、顔を上げる。


金色の瞳が、真っ直ぐ俺を射抜いていた。


その視線だけで、体が凍りつく。


「…………」


父上のことを“獅子のように強くて怖い”と思っていた。


だが今ならはっきり言える。


――本物の獅子の方が、よっぽど怖い。


膝が震え、息が荒くなる。


喉が焼けるように乾いて、まともに声すら出せなかった。


ライオンは四肢を低く構え、鬣の毛を逆立てた。


――まずい。さっきメイインを針だらけにしかけたあの攻撃だ。


「走って!」


メイインが俺の手をつかみ、力いっぱい引っ張った。


次の瞬間、斑雪獅の鬣が爆ぜ、無数の毛針が地面と崖の岩肌に突き刺さった。


後ろを振り返る余裕なんてない。


耳をつんざくような魔獣の咆哮が、夜の山に響き渡った。


その声だけで心臓が凍りつく。


「こいつから離れないと、マジで死ぬ!」


「わかってるわ! でも大丈夫、ちゃんと考えがあるの!」


考え? 一体どんな――?


けれど、そんな疑問を抱く暇すらなく、俺はメイインに引かれるまま走った。


背後では、怒り狂った斑雪獅が雪を蹴立てて迫ってくる。


低く唸る声、雪を砕く足音。


怒りと憎悪が入り混じったその咆哮は、人間の感情とはまるで違っていた。


――もしかして、あの銀の蓮を守っていたのか?


脳裏にそんな考えがよぎる。


読んだ本に書いてあった。


魔獣は人間以上に自然の宝を欲しがる。


彼らは宝を熟すまで守り、自らの修為を高めるためにそれを喰らうのだと。


つまり、俺たちは――こいつの餌を奪ったのだ。


鼓動の音が頭の中で響く。


メイインの荒い息づかいが、自分のそれと重なって聞こえる。


肺が焼けるように痛い。


それでも、足を止めることはできなかった。


メイインの手を、絶対に離さないように。


俺たちは森の中を全力で駆け抜けていた。


けれど、どこへ向かっているのかなんて、まるでわからない。


メイインが俺の手を引き、右へ、左へと、唐突に方向を変える。


そのたびに腕が引きちぎれそうになる。


後ろでは、斑雪獅が怒り狂いながら追ってくる。


だが――なぜか追いつけない。


何度も地面を滑って、木々をなぎ倒している。


急な方向転換ができないのか?


そのたびに少し距離を稼げるけれど、奴はすぐに追いついてくる。


どうしてだ?


どうして、あんな化け物が俺たちを捕まえられない?


圧倒的に強いはずなのに。


速さも、力も、全部あいつの方が上なのに。


――いや、違う。


俺たちが助かってるのは……メイインのおかげだ。


彼女はまるで、獅子の動きを“先に”知っているみたいに走っている。


まさか、未来を見ているのか?


次に何が起こるか、全部わかってる……?


そんな考えが頭をよぎった、その瞬間。


メイインが再び俺の腕を引き、横へ跳んだ。


直後――


ドォンッ!!


背後で何かが爆ぜた。


目を向けると、走っていた先の大木が、跡形もなく吹き飛んでいる。


「うわぁっ!!」


木の破片が肌に突き刺さり、痛みに顔をしかめる。


それでも、顔を片腕で覆いながら走り続けた。


――今の攻撃、目に見えなかった。


咆哮の“衝撃”そのものが弾丸みたいに放たれたんだ。


恐怖で心臓が跳ねる。


それでもメイインの手を離さない。


……もしかしたら、本当に助かるかもしれない。


彼女がいる限り――。


そう思った瞬間、希望が胸の奥に灯った。


だが、その希望は、すぐに砕かれる。


走り抜けた先で、俺たちの前に広がっていたのは――


行き止まり。


背後は獅子。


前は断崖絶壁。


逃げ場は、もうなかった。

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