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斑雪獅子(スポッテッド・スノー・ライオン)

そいつは――生まれながらにして〈飢餓境ハンガー・レルム〉の修為を持つ化け物だった。

つまり、俺が今いる〈鍛身境ボディ・フォージング・レルム〉なんて段階をすっ飛ばして生まれてきた存在だ。

……まさか、これが母さんが言っていた〈修羅境アスラ・レルム〉に到達した魔獣なのか!?

間近でその巨体を見た瞬間、俺は本気で小便を漏らしかけた。

――死んだ。

――俺、もう終わりだ。

――こいつに殺される……!!

頭の中でそんな言葉がぐるぐると回る。

巨大な斑雪獅子スノー・ライオンが、もう片方の前脚を振り上げ、

今にも俺の顔を爪で引き裂こうとしていた。

目を閉じそうになった――その瞬間。

バシュッ!

雪玉が獣の左脇腹に命中した。

「グルァァァァッ!」という驚愕の咆哮。

続けざまに、もう一発。今度は右目に直撃。

「うわっ!」

巨体がぐらりと揺れ、俺のすぐ横を通り抜けて、

雪煙を巻き上げながら崖下へと転げ落ちていった。

あまりの衝撃に息が止まる。

……けれど、俺はすぐに理解した。

あれぐらいの高さから落ちても、あの化け物が死ぬはずがない。

むしろ、怒りを買っただけだ。

獣は四足で地面に着地し、金色の瞳をぎょろりと光らせながら、

攻撃を仕掛けた相手を探すように頭を振り回した。

「こっちよ! ここにいるわ!」

聞き慣れた声が夜の森に響く。

雪玉がもう一発、獣の顔面に命中した。

斑雪獅子が怒りの唸りを上げ、その方向へ向き直る。

そこには――

片目を引っ張って舌を出し、ライオンを挑発するメイインの姿。

まるで小さな子供が巨大な怪物をからかっているみたいで、

もしこの状況が命懸けじゃなかったら、俺は笑っていたかもしれない。

けれど、今は……笑えなかった。

胸の奥を締め付けるのは、恐怖と焦り。

「メイイン! 何してるんだよ!?」

「囮になってるの! 早く、その蓮を取って!!」

「でもっ――!」

言いかけた瞬間、斑雪獅子が大地を蹴った。

雪が弾け、空気が震える。

「メイインっ!!」

俺は叫んだ。

彼女が、粉々にされる光景を想像して、喉が凍りつく。

だが――

彼女の姿は、消えていた。

攻撃を避けた? どうやって? 一瞬で視界から消えたように見えた。

瞬きをしていないのに、まるで時間そのものをすり抜けたみたいに。

呆然とする俺をよそに、斑雪獅子も驚いたように唸り声を上げている。

「ジエン!! 早く、その蓮を取って!! 長くはもたないわ!!!」

必死の叫びが聞こえた。

その声に、俺の中の恐怖がかき消されていく。

今、動かないと――メイインが死ぬ。

斑雪獅子がメイインに向かって飛びかかった。

しかし――彼女は、紙一重でその巨体をかわす。

……おかしい。

今の避け方、どう考えても普通じゃない。

まるで――獅子が飛びかかる“前”から、すでに動いていたようだった。

まるで、数秒先の未来を見ていたかのように。

俺の脳がその異常さを理解する前に、

獣は再び唸り声を上げた。

怒っている――そんな声音だった。

たてがみの毛が逆立つ。

次の瞬間、俺は自分の目を疑った。

――シュバッ!!

無数の針が、鬣から放たれたのだ。

夜気を切り裂くような音とともに、地面が爆ぜる。

「うそだろ……」

メイインが立っていた場所に、無数の針が突き刺さっていた。

さらに後ろの木々までもが穴だらけになっている。

もし、ほんの一瞬でも避けるのが遅れていたら――。

メイインは死んでいた。

「くそっ……俺も何かしないと……!」

焦りと恐怖を押し殺し、俺は崖に咲く銀色の蓮へと手を伸ばした。

指先が震える。

だが、今は迷っている場合じゃない。

根ごと引き抜き、持ってきた袋に詰め込む。

そして、急いで崖を降りようとした――

が、半分ほど降りたところで足を滑らせた。

「うわっ――!?」

ドスンッ!!

背中に鋭い痛みが走る。

尾てい骨が砕けるかと思うほどだった。

「いっ……たぁ……」

呻きながら立ち上がると、

メイインの叫びが夜を裂いた。

「ジエン! 後ろっ!!」

その声に反射的に横へ飛び退く。

直後――

ドンッ!!!

さっきまで俺がいた地面に、巨大な前脚が叩きつけられた。

雪と石が爆ぜ、風圧で体が後ろへ押しやられる。

……危なかった。

ほんの一瞬遅れていたら、今頃――。

俺は唾を飲み込み、顔を上げる。

金色の瞳が、真っ直ぐ俺を射抜いていた。

その視線だけで、体が凍りつく。

「…………」

父上のことを“獅子のように強くて怖い”と思っていた。

だが今ならはっきり言える。

――本物の獅子の方が、よっぽど怖い。

膝が震え、息が荒くなる。

喉が焼けるように乾いて、まともに声すら出せなかった。

ライオンは四肢を低く構え、たてがみの毛を逆立てた。

――まずい、さっきメイインを針だらけにしかけたあの攻撃だ。

「走って!」

メイインが俺の手をつかみ、力いっぱい引っ張った。

次の瞬間、斑雪獅子の鬣が爆ぜ、無数の毛針が地面と崖の岩肌に突き刺さった。

後ろを振り返る余裕なんてない。

耳をつんざくような魔獣の咆哮が、夜の山に響き渡った。

その声だけで心臓が凍りつく。

「こいつから離れないと、マジで死ぬ!」

「わかってるわ! でも大丈夫、ちゃんと考えがあるの!」

考え? 一体どんな――?

けれど、そんな疑問を抱く暇すらなく、俺はメイインに引かれるまま走った。

背後では、怒り狂った斑雪獅子が雪を蹴立てて迫ってくる。

低く唸る声、雪を砕く足音。

怒りと憎悪が入り混じったその咆哮は、人間の感情とはまるで違っていた。

――もしかして、あの銀の蓮を守っていたのか?

脳裏にそんな考えがよぎる。

読んだ本に書いてあった。

魔獣は人間以上に〈自然のナチュラル・トレジャー〉を欲しがる。

彼らは宝を熟すまで守り、自らの修為を高めるためにそれを喰らうのだと。

つまり、俺たちは――こいつの餌を奪ったのだ。

鼓動の音が頭の中で響く。

メイインの荒い息づかいが、自分のそれと重なって聞こえる。

肺が焼けるように痛い。

それでも、足を止めることはできなかった。

メイインの手を、絶対に離さないように。

俺たちは森の中を全力で駆け抜けていた。

けれど、どこへ向かっているのかなんて、まるでわからない。

メイインが俺の手を引き、右へ、左へと、唐突に方向を変える。

そのたびに腕が引きちぎれそうになる。

後ろでは、斑雪獅子が怒り狂いながら追ってくる。

だが――なぜか追いつけない。

何度も地面を滑って、木々をなぎ倒している。

急な方向転換ができないのか?

そのたびに少し距離を稼げるけれど、奴はすぐに追いついてくる。

どうしてだ?

どうして、あんな化け物が俺たちを捕まえられない?

圧倒的に強いはずなのに。

速さも、力も、全部あいつの方が上なのに。

――いや、違う。

俺たちが助かってるのは……メイインのおかげだ。

彼女はまるで、獅子の動きを“先に”知っているみたいに走っている。

まさか、未来を見ているのか?

次に何が起こるか、全部わかってる……?

そんな考えが頭をよぎった、その瞬間。

メイインが再び俺の腕を引き、横へ跳んだ。

直後――

ドォンッ!!

背後で何かが爆ぜた。

目を向けると、走っていた先の大木が、跡形もなく吹き飛んでいる。

「うわぁっ!!」

木の破片が肌に突き刺さり、痛みに顔をしかめる。

それでも、顔を片腕で覆いながら走り続けた。

――今の攻撃、目に見えなかった。

咆哮の“衝撃”そのものが弾丸みたいに放たれたんだ。

恐怖で心臓が跳ねる。

それでもメイインの手を離さない。

……もしかしたら、本当に助かるかもしれない。

彼女がいる限り――。

そう思った瞬間、希望が胸の奥に灯った。

だが、その希望は、すぐに砕かれる。

走り抜けた先で、俺たちの前に広がっていたのは――

行き止まり。

背後は獅子。

前は断崖絶壁。

逃げ場は、もうなかった。


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