辣腕公爵令嬢は、悪童王子の逃げ道をすべて塞ぐ
公爵令嬢セシリア・フォン・グロースが、第二王子アルベルトの教育係に就任した。
その日の王宮の空気は、ひどく重かった。
誰もが知っている。
アルベルト王子は、どうしようもない悪童だからだ。
学問を嫌い、家庭教師を十人以上泣かせて辞めさせ、公務は面倒だと放り出す。王宮を抜け出しては夜遊びを繰り返し、取り巻きの貴族子弟たちとともに、身分と金を盾に好き勝手をしている。
極めつけは、庶民の娘に無礼な振る舞いをし、それを諫めた騎士団長に向かって言い放ったひと言だ。
「お前を辺境へ飛ばす。俺に逆らったことを、そこで反省するんだな」
十七歳の王子が口にしたとは思えぬ、傲慢で愚かな暴言である。
このままでは、王家の恥どころか、国そのものの災いになる。
そう判断した王妃は、最後の手段として姪のセシリアを呼び寄せたのである。
「セシリア。アルベルトの噂を知っているわね?」
セシリアは表情を変えずに、一礼した。
「ええ、聞き及んでおります」
端的な答えに、王妃は一度深く息を吐いた。
「あの子を……お願いできないかしら。上に立つ者の責任を、教えてほしいの」
その声音には、質問の形を取りながらも、王家の一員としての悲痛な責任が滲んでいた。
セシリアは、深く一礼する。
「承りました、叔母上。ですが、甘やかしは一切許しません」
四大公爵家の一つ、グロース公爵家の嫡女。二十歳。
帝王学と実務を叩き込まれて育ったセシリアは、美貌と気品に加え、冷徹な事務処理能力で貴族社会にその名を知られていた。
そんな彼女が、アルベルトを前にして最初に着手したのは――本人への説教ではなかった。
「……え?」
呆けた声を漏らしたのは、侯爵令息ヴィクトルである。
アルベルトの筆頭取り巻きにして、もっとも金遣いの荒い男だった。
王宮の応接室。
磨き上げられた机の上には、分厚い帳簿と公務記録、そして複数枚の署名済み書類が整然と並んでいる。
セシリアはその一枚を白い指先で押さえたまま、淡々と言った。
「侯爵令息ヴィクトル。あなたはこの五年で、殿下の名を使って予算外支出を二十八件通しています。私的宴席、馬の購入、宝飾品、賭博の負債の肩代わり。公務記録と会計帳簿はすべて照合済みです」
「な、何かの間違いだ! 殿下だって了承――」
「王子の未熟につけ込んだ不正利用ですね」
ぴしゃり、と遮る声音は、冷たいというより隙がなかった。
「今ここで全額返還と、今後一切の王族への接触禁止に同意なさい。拒否するなら、公爵家の名において貴族院へ告発します」
「なっ……!」
「次」
ヴィクトルが青ざめるのも構わず、セシリアは隣の男へ視線を移した。
「伯爵子息レオナルド。賭博場への出入り記録、偽名では隠しきれませんでしたね。殿下を誘い出した回数は十四回。署名を」
「次」
「子爵令息ロベール。女性への口止め料を王宮雑費に紛れ込ませましたね。悪質です」
「次」
その場にいた取り巻きたちは、次々と沈黙した。
女一人くらい黙らせられると思っていたのだろう。だが、セシリアの前では、誰一人まともに反論できなかった。
セシリアは感情を一切交えない。
怒鳴りもしない。侮辱もしない。
ただ、公文書の不正と不始末という事実だけを武器に、王子の周囲を一人ずつ切り離していく。
その辣腕ぶりに、同席していた侍従長ですら、無意識に息を呑んでいた。
そして当のアルベルトは、部屋の隅で唖然としていた。
「……お前、何をしている」
「環境の粛清です」
セシリアは一切迷わず答えた。
「殿下を更生させるにあたり、まず腐った土壌を取り除く必要がありますので」
「お、俺の友人たちだぞ!」
「失礼ながら、友人ではありません。殿下を利用して贅沢を享受していただけの寄生虫、言わば害虫です」
あまりにも断定的で、容赦のない言葉だった。
アルベルトは机を叩いて立ち上がる。
「ふざけるな! 俺に命令するな!」
「命令ではありません。整理です」
セシリアはようやくアルベルトへ視線を向けた。
その瞳は美しく澄んでいたが、少しも甘くはなかった。
「殿下。王族とは、貴族社会の頂点ではありません。国家の責任そのものです」
「……っ」
「あなたの言動ひとつが予算を動かし、治安を乱し、人の人生を壊す。その自覚がないようですので、今日から叩き込みます」
「うるさい! お前に何が分かる!」
「嫌なら、王子の座をお捨てください」
場が凍った。
アルベルトですら、言葉を失う。
「逃げるなら、公爵家を継ぐ私に王子の座を譲りなさい。私は公務を愛していますが、あなたの不始末の尻拭いを趣味にするつもりはありません」
冗談ではないと、誰にでも分かる声音だった。
「選びなさい、アルベルト殿下。王族として立つか、無責任な子どものまま捨てられるか」
その日、アルベルトは初めて、自分が逃げ道を失ったことを知った。
◇
それからの日々は、地獄だった。
朝は日の出前に起こされる。
座学。歴史。法。外交。財務。軍事。
午後は公務見学、夜は報告書作成。
少しでも怠慢があれば、その日の行動がすべて「損益」として数値化され、紙の上に突きつけられた。
セシリアの言葉には、飾りも優しさもない。
ただ、事実のみが語られる。
「昨夜の無断外出による護衛追加コスト、馬車使用料、警備配置変更に伴う残業手当。合計で金貨三十二枚分の損失です」
「そんなもの、王家にとっては大した額じゃ――」
「国家予算を何だと思っているのですか?」
セシリアは表情を変えない。
「庶民の一年分の生活費に近い額です。殿下の気まぐれは、民の暮らし一つ分を踏みにじるのと同義だと理解なさい」
感情的な叱責はない。
だが、冷徹な事実だけで追い詰められるほうが、よほど堪えた。
最初のうち、アルベルトは何度も反発した。
机に突っ伏して無言の抵抗をしたこともあるし、窓から逃げ出そうとしたことすらある。
そのたびに、セシリアは淡々と言った。
「逃げても構いません。その代わり、逃げた分だけ課題は増えます」
あるいは。
「本当に王子の座を降りる決意があるなら、今すぐ書類を用意しますが」
結局、どこにも逃げ道はなかった。
そして逃げ道がないからこそ、アルベルトは初めて、自分の愚かさと向き合わされることになった。
自分がどれほど多くの人間に迷惑をかけてきたか。
どれほど王家の名を軽んじてきたか。
どれほど子どものように甘えていたか。
嫌でも理解させられた。
それでも――
セシリアは一度も、彼を見捨てることはなかった。
間違えれば訂正し、分からなければ教え、やり直せば評価する。
呆れも嘲りもなく、ただひたすらに「王族としての正道」を示し続けた。
その姿に、アルベルトは生まれて初めて畏敬の念を抱いた。
やがてそれは、もっと熱く、もっと苦しい感情へと変わっていく。
◇
「殿下。本日の課題である『隣国との貿易協定における予算編成の改善点』に関する報告書、拝見しました」
数か月後。
王宮の執務室。
机の上に置かれた報告書を手に、セシリアはページをめくっていた。
アルベルトは向かい側に座りながら、落ち着かない心地でその様子を見守る。
かつてなら、こんな報告書を書く前に投げ出していただろう。
だが、今は違う。
セシリアに認められたい一心で、彼は何度も資料を読み直し、夜遅くまで机に向かったのだ。
やがてセシリアは、ふっと唇を緩めた。
「完璧です、アルベルト」
「……っ」
胸が、どくん、と鳴る。
「予算の流れだけでなく、相手国への配慮と国内産業への影響まで押さえています。短期利益ではなく、中長期の安定を見ているのがとても良い」
珍しく、はっきりと褒められた。
それだけで、何日も徹夜した苦労が吹き飛びそうだった。
だが、次の瞬間。
「さすが、私の教え子ね。努力の甲斐がありました」
セシリアは自然な仕草で、アルベルトの頭を優しくぽんぽんと撫でた。
アルベルトの全身が固まる。
「わ、分かっています、セシリア様。私はもう子どもでは……」
「あら、頬が赤いですよ。熱でも?」
「ち、違います!」
慌てて身を引くが、動揺は隠しきれない。
セシリアにとっては、きっと褒賞のつもりなのだろう。
優秀な教え子を労う、ごく自然な行為。
だが、アルベルトにとっては違う。
――ああ、まただ。
どれだけ努力しても、どれだけ成長しても、セシリアは自分を「優秀な弟」か「かわいい教え子」くらいにしか見ていない。
それが嬉しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
セシリアは報告書を机に置き、すっと表情を引き締めた。
「では、最後の課題に取りかかりましょう」
「最後の……?」
「ええ。あなたの更生を証明する、卒業試験です」
そう言って彼女は、小さな魔導具を取り出した。
銀細工のように精巧で、掌に収まるほど小さい。
「録音魔導具です。あなたの元取り巻きたちが、近々秘密の集まりを開くという情報が入っています」
アルベルトの目つきが変わった。
「あいつらが?」
「ええ。あなたが優秀になった今でも、以前の愚かな王子に戻ってくれると期待しているようです。あるいは、戻したいのでしょう」
セシリアは静かに続ける。
「彼らの悪意を証明し、国から排除なさい」
「……それが、卒業試験」
「はい」
短く答えたあと、彼女はアルベルトを真っ直ぐ見た。
「情ではなく、責務で裁くこと。あなたにそれができるなら、私はもう教えることはありません」
その言葉に、アルベルトはゆっくりと魔導具を受け取った。
冷たい金属の感触が、妙に重い。
けれどその重さは、恐怖ではなかった。
覚悟だった。
「分かりました、セシリア様」
アルベルトは立ち上がり、胸を張る。
「必ず、やり遂げます」
セシリアは頷いた。
そして、ほんの少しだけ満足そうに微笑む。
「ええ。期待していますよ、アルベルト」
その笑顔を見た瞬間、アルベルトの胸は熱くなった。
――これで証明する。
私はもう、昔の愚かな王子ではない。
セシリア様にふさわしい男になってみせる。
恋に落ちたその日から抱き続けている決意を、彼は改めて胸に刻んだ。
なお、当のセシリアはその決意を、優秀な教え子の成長意欲だとしか受け取っていない。
そうして元・悪童王子は、かつて自分を甘やかし堕落させた者たちのもとへ向かう。
最愛の教育係が課した、最後の試験のために。
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